30



 ベッドに横たわって静かに眠り続ける狛枝くんの顔を、言葉もなく見つめていた。まだ顔色は良くないようだったけれど、時折動く睫毛の先を見る度に、私は、彼が生きていることを実感する。病室に備え付けてあったパイプ椅子は座面が硬くて冷たかったけれど、私は微塵も動くことができないまま、スカートの上で指を組んで、ただ最小限に抑えた呼吸をしながら狛枝くんの白い頬を眺めた。青白い血管は透けていた。彼は生きていた。
 カーテンの隙間から徐々に光が漏れ始める。朝日は狛枝くんの爪先を照らしている。私は彼の隣から離れない。瞬きすらも惜しい。彼の姿を見ていたい。微かに動く彼の目蓋が、目覚めが近いことを教える。私は引き攣った頬を音がしない程度に叩いて、笑顔を作る準備をする。



「う……ん……?」



 それからさほど時間を経たずに目を覚ました狛枝くんに、本当は、縋り付いて泣きたかった。



「おはよう、狛枝くん」



 だけどそんなことはできないから、私は強がって、いつも通りの私になる。狛枝くんは寝惚けた眼で私を視界に入れて、ゆっくりと首を傾げた。



「……何でさんがいるの? ……朝から最悪な気分だなあ」



 この様子から察するに狛枝くんは、危険な状態を脱しただけで、絶望病が完治したわけではないらしい。私は貼りつけた笑顔をそのままに、「うん、心配だったんだ」と、微妙に噛み合ってないような返事を返した。狛枝くんは感情の制御が上手く出来ないのか、酷く悲しそうな表情を浮かべている。私はそっと目線を自分の手に落とした。勝手に震える手を手首ごと抑えようとした、その瞬間だった。狛枝くんの手が、私のそれを覆ったのだ。



「……え?」

「目障りだから、どっか行ってよ」



 震えが治まらない。寒い。何時間もパイプ椅子に座り続けたせいで腰は痛いし、見えないところが擦り切れて削れて酷い気分だ。本当は泣きたいし、怖いし嫌だし逃げ出したい。全部なかったことにしてしまいたい。
 でも狛枝くんが、酷いことを言いながら笑うから。いつもの狛枝くんみたいに、私の全部を包んで許してくれるような目で笑うから、だから私は今度こそ、狛枝くんの冷たい手を握り返す。
 ずっと狛枝くんとこうしていられたらいいのに。だけど、私の背後の扉の向こうで、誰かの足音が響いていた。私は息を止めて、狛枝くんの顔を見つめる。夜は明けたと言っても、モノクマによる朝のアナウンスはまだ鳴っていない。握られたままの彼の手の平が、私の体温で温くなっていく。狛枝くんの、私を見つめる瞳が心配そうに揺らいだのに気がついて、私は、彼が未だに病を患っていることを知りながら「大丈夫」と微笑んだ。そう言ってほしかったのは、自分の方だったのに。
 だから、扉が開けられて、振り向きもせずにじっと呼吸を止めていた私の名前を呼んだその人が日向くんだと知ったときは、安堵で泣きそうになったのだ。



「……? 何でお前がここにいるんだ?」



 色んな感情が混ざり合ったような、複雑な声色だった。振り向こうとした私を、しかし、彼女の柔らかい声が、縫いとめるように制する。



「あ、あのあのお、さんは、狛枝さんを心配してお見舞いに来てくれたんですう……」



 喉元に刃を突き立てられたような気分だった。顔を見なくても、私は日向くんと一緒に病室に入ってきたのが罪木さんだと分かる。それは普段の、彼女の声だった。どこか自信がなさそうで、寄りかかるような不安定な重みを持った罪木蜜柑の声だった。知らず知らずのうちに握りしめた狛枝くんの手の甲に、薄らと爪の痕が残る。



「来るなって言っただろ。狛枝の熱が下がったって言っても、病気が治ったわけじゃないんだぞ?」

「何を言っているのかな、日向クン。ボクはご覧の通り既に完治しているよ」

「……分かりにくい症状を発症しやがって……。まあでも、罪木のおかげで命は助かったみたいだな。一応、安心したよ。ありがとうな罪木」

「いえっ私は当然のことをしたまでですよう!」



 罪木さんの声が私の耳を刺していくようだった。そっと振り向けば、数時間前に確かに血で染まっていた彼女のエプロンは新しいものに取り換えられている。夢だったのだろうか。いや、そんなはずはない。そう思いかけた瞬間、罪木さんがこめかみを抑えてよろめいた。



「ああ、でも、なんだからぐるぐるしますう……」



 ふらつきながら口にする罪木さんを、日向くんは心配そうに気遣う。根を詰めて看病してくれていたのだから、少し休んだほうが良いと彼が言うと、罪木さんは上の階にある休憩室で仮眠をとると返した。「日向さんも、ロビーで休んでいたらどうですか?」彼にそう勧めてから。



「そうだな……狛枝もとりあえずは安心みたいだし、そうさせてもらおうかな」



 罪木さんだけでも早くここから出ていって。そう念じて目を固く閉じていた私の肩を、不意に誰かが叩いた。驚いて、息を呑む。顔をあげた先には日向くんがいたから、私は、目尻を下げて頬の筋肉の緊張を解いた。



も行こう」



 そう彼は言った。私は返答に困って、触れていたままの狛枝くんの手を、もう一度握りしめる。行けない。行けないのだ、私は。狛枝くんから離れられない、一緒にいなくちゃ、見張っておかなくちゃ。私が守らなくちゃいけない。「私は」言いかけた言葉を、扉の傍にいた罪木さんが遮った。



「あの、さんには、そのまま狛枝さんの傍にいてもらってもいいですか? ……私が眠っている間に狛枝さんの傍に誰か居ていただいた方が、安心できますしぃ……あっ、勿論、こんなゴミムシの言うことなんて聞かなくってもいいんですけどお!」



 咄嗟に目をやった罪木さんは、いつもの、今までの彼女だった。周囲の人の機嫌を窺うような目線に弱々しい声が、私に向けられる。咄嗟に、「うん、わかった」と返事をした私に、日向くんが困ったような視線を向けた。罪木さんはほっとしたように胸の前で指を組んで、笑っている。
 罪木さんが、「じゃあ少し休ませてもらいますねえ」と言い残して部屋を出て行った後、日向くんは私に向き直って懇々と言い聞かせるように言葉を重ねた。



「仕方ないな……でもなるべく部屋の隅にいろよ? 狛枝には極力触れるな。ほら、手も離せ。それから、万が一具合が悪くなったならすぐ罪木に言えよ。あとは俺もロビーにいるし、もうすぐ九頭龍も来るだろうから、そしたら一時間置きで交代しよう」

「わ、わかったよ……」

「ちょっと日向クン、行かないでよ。さんと二人きりなんて倒れてしまいそうだ!」

「じゃあ。よろしくな」



 狛枝くんの言葉には一切返事をしないままに、日向くんは病室を出て行った。「うん、また」と言った私に振り向いた彼は、困ったような笑顔を浮かべていた。
 遠ざかっていく足音に、私は狛枝くんの手を離す。日向くんに言われたからではなくて、単に落ち着かない気持ちになったからだ。私はあの罪木さんが元の彼女を演じているだけだということを理解している。だから意味があるはずなのだ。私を今、彼女がこの場に残したことの意味が。
 狛枝くんを殺すと言った彼女の言葉は、重たかった。本気なのだと思った。バラバラにしてしまいましょうかと楽しそうに笑った彼女を、私はきっと一生忘れられない。だから狛枝くんの傍にいるのだ。一旦は収まったはずの震えが、体の真ん中から広がっていく。私は覚えている。彼女がその体に浴びていた血を。誰かが死んでしまったらしいことを。だから、だから怖い。目の当たりにしてしまう未来が、認めなくてはならなくなる真実が、怖くてたまらないのだ。
 がちがちと音を立てる歯を、抑えていられなかった。死んでしまったのだ、誰かが。殺されてしまった。それはもう翻しようのない事実で、きっとこの後誰かの死体がどこかで見つかってしまう。
 十神くんと真昼ちゃんの死体は、今でも鮮明にこの目に焼き付いている、だからこそ、私は心の準備をしなくては。そう思っていたのに。
 その時、不意に頭に何かが触れた。息を飲んで顔をあげれば、あれだけ私を嫌いだと突き放していた狛枝くんの手が、額にあった。冷たい感触に目を閉じる。彼は何も言わない。ただ目を細めて、光源でもそこにあるかのように私を見ていた。吐き出した細い息が震えるから、私はそうしながら、俯いて訳もなく首を振る。私は仲間の死を、きっと受け入れられないだろう。








「死体が発見されました! 一定の捜査時間の後、学級裁判を開きます!」

「死体が発見されました! 一定の捜査時間の後、学級裁判を開きます!」



 日向くんが病室を出てから幾らか時間が経った頃だった。死体発見アナウンスは、二度鳴った。


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