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 この島で何度か嗅いだことのある鉄の臭いが、纏わり付くように漂っている。血に染まった罪木さんのエプロン、恍惚とした彼女の目。背筋が粟立つのに、どうしたらいいかがわからない。「つ、罪木さん」恐怖を押し殺して吐き出した声が、震える。



「……血、それ……どうしたの……?」



 罪木さんは私の言葉に目を細める。「うふふぅ」そっと胸元の染みに触れる彼女の様子から、それが他人のものであることを察してしまった。罪木さんが変だ。どうにかしてしまったようだ。



「あれあれ~? なんですかねえこれ~? いつの間に付いちゃったんでしょうかねえ?」



 こんな人じゃなかったはずだ。罪木さんは日寄子ちゃんに苛められてもまともに言い返せないくらい気が弱くて、いつも泣いていて、なのに今の彼女はまるで正反対だ。罪木さんの皮を着ただけの別人だと言われた方が、ずっと納得できた。
 私が瞬きもせずに彼女を見つめていると、罪木さんはやがて一瞬だけその笑みを消した。その瞳には、何も浮かんではいなかった。完全な無だった。



「……さすがにさん相手でも誤魔化せなさそうなんで、嘘は言いませんけど、さんが想像している通りで、間違いないんじゃないですかぁ?」



 声が漏れたのは、不意に彼女がポケットから取り出した小さな刃物にも、塗りたくったような血が付着していたからだ。ぽたりと生々しい音を立てて床に滴るそれに、限界まで目を見開いた。頭が上手くまわらない。なんで、なんで。一体誰を。まさか日向くんか、それとも九頭龍くんか。言いたくても声にならなくて、私は後ろ手にまさぐって、狛枝くんの血の通っていないように冷たい手の甲に触れた。罪木さんは床に落ちた血の痕を靴の裏で拭うと、そのまま刃物をしまう。



「な、なんで? 誰かを……こ、ころした、の……?」



 月明かりだけが、ぼんやりと室内を照らしていた。その中で罪木さんはいつの間にか浮かべた笑顔を崩さない。ただ私のことを見て、どこか熱っぽい頬で、とろけた瞳でいるのだ。「関係ないじゃないですかぁ」まるで、そこに重大さは一切ないとでもいうように、罪木さんは首を傾げた。そうしながら、罪木さんは私に、一歩ずつ、歩み寄る。体中が震えて、立っていられない。逃げ出したい、おかしい、こんなの罪木さんじゃない。罪木さんはこんなことしない。狛枝くんの手を握りしめた。私の汗で、滑る。目を細めた罪木さんの赤い唇が、ゆっくりと動いた。



「だって、さんは狛枝さんさえ無事ならいいんですよね?」



 私と狛枝くんに向けられたその指先は、白くて、美しい。



「昔からそうでしたもんね? 今もそうなんですよね? だったら、狛枝さんが今生きているってことだけで、もう充分なんじゃないんですか?」



 目の前に突き付けられた彼女の指の先を凝視する。言葉が出てこなくて、それどころか思考さえも止まりかけて、私の機能不全な脳は罪木さんが今言ったばかりの言葉を反芻させていた。
 昔から、昔から、私が、狛枝くんを、昔から。
 罪木さんの、ともすれば一見穏やかにも見えるその瞳は、真っ直ぐ私だけを見つめている。彼女は一歩ずつ、私との距離を狭めていく。罪木さんの、私に向けた指が近づいて、やがて眼球の前に置かれた。瞬きもできない。恐怖をも飲み込んだ動揺が、私の思考を支配する。



「昔、から……?」

「そう、昔から、ですよお」



 目の前の手が途端に開かれて、私の頬に触れた。「え」思わず声を出す。ばらばらと一本ずつ動かしてそれを撫でていく罪木さんの手の平は、酷く熱かったのだ。反射的にびくりと体を震わせて、艶のある表情を浮かべた罪木さんを見つめる。熱い、明らかに熱がある。それだけでいくら馬鹿な私でも理解できた。「……絶望病?」呟いた私に、罪木さんが笑う。



「ぴんぽんぴんぽーん、正解ですぅ!」



 日寄子ちゃんが言っていた言葉が、不意に蘇る。「どーせべたべた触ってたんだから、あいつだってもう感染しちゃってるんじゃない?」私たちの代わりに一人で看病を請け負ってくれていた彼女は、誰よりもずっと狛枝くんたちの傍に居た。感染してしまったのだ。頭を殴られたような衝撃に、瞬きさえもできない。だけど、罪木さんのその目は、表情は、仕草は、私のそういう思考ごと全て見透かしているようですらあった。



「あっ、そんな顔しないでくださいよぉ! 私はね、『思い出した』だけなんです! だから何の問題もないんですよ? むしろ感謝すらしています。だってこれが本来の私なんですからぁ」

「……思い出した?」



理解しきれなくて聞き返すと、罪木さんは「そのままですよお」と呟いた。



「奪われた記憶を『思い出した』んです。うふふぅ、だから、何でも知ってますよ? 学園がどうなったかは勿論、私たちの記憶を奪った組織の正体も。あと、あなたが何をしたのかも、ね」

「……え?」

「酷いですねえびっくりしちゃいますねえ、虫も殺せないような可愛いお顔で、随分とえげつないことをやっていたんですねえ?」

「なんの……話……?」

「分からないならいいんですよぉ、そのうち思い出すんじゃないですか? うふふ、私はね、それだけが言いたくて、わざわざあなたの前に姿を見せたんですよ?」



 そう言いながら、彼女は誰かの血で汚れたエプロンを翻して笑った。一度は仕舞った血のついたままの刃物を、彼女は再び私の顔の前にちらつかせる。おかげで動揺に呑み込まれていたはずの恐怖が再び顔を出した。医療用のメスだ。これで、本当に誰かを殺したというのだろうか。



「でも、私が誰かを殺したことがバレてしまったからにはあ……」



 ぴたりと頬にメスを当てられて、その想像以上の冷たさに背筋が粟立つ。「おっとっと~、動いたらすぱーっと切れちゃいますよ?」これが、本来の罪木さんだと言うのだろうか。乾いた瞳が痛くて、息をするのも億劫だった。ここで殺されるのかな、と、ぼんやりと思った。こんなところで殺されたら、狛枝くんが私の血をそのまま被っちゃうなあとか、そういうどこか場違いなことを考えていないと、もう意識がなくなりそうだった。
 怖い、手足に力が入らない。思い出したって、何で、何を? 私が何かした?失くした記憶の中で、私はそんなに酷いことをしてきたのだろうか、狛枝くんのために? わからない。わからない。わからない、わからない。だって私は何も思い出せないのだ。私の中にあるのは、見覚えのない防音室に置かれたグランドピアノと、そこにいる狛枝くんだけ。



「なんてぇ、殺しませんよぉさんは」



 突然、罪木さんが私からメスを離した。緊張が切れてベッドに寄りかかってしまった私を、罪木さんは笑いながら見下ろしている。「だってね、だってね、それが『あの人』の御意向なんですもん!」もう、彼女の言葉の意味を考えることもできない。



「『あの人』はさんのことを特別目にかけているんです。私には分かるんです。ですから、私が勝手にさんを殺したりなんて、できません。でもね、でもね、やっぱりさんには、私が犯人だってことを皆に言われたら困るじゃないですかあ、だからね?」



 震える私の横に彼女は立つ。あ、と思って、力を振り絞って、制止するように腕を広げた。一瞬触れたその身体は、電機街で並んで一緒にファイルを見たときと、何も、変わらないのに。罪木さんはベッドに横たわる狛枝くんにメスを向けて、笑う。



「だから、もしもさんが裏切ったら、狛枝さんを代わりに殺すことにしますね?」



 バラバラにしてしまいましょうか。屈託のないその笑顔は、狛枝くんの浮かべるそれに似ていた。


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