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結局病院へは左右田くんが、ライブハウスへは私が通信機を設置しに行くことになった。設置を終えて合流した左右田くんによると、朝と夜、一日に二度あるモノクマのアナウンスが終わった三十分後を目安に、定期的に病院組と連絡を取り合うことになったらしい。私がステージ前にセットしたカメラとモニターに不備がないかを確認し終えた左右田くんは、「狛枝は、やっぱ朝と変わんねーってよ」と突然付け足すように呟いたので、私は思わず彼の顔をまじまじと見つめた。
「や、気になってんだろーなって思ってさ」
「うん……ありがとう」
容体が変わらない、というのはあまり喜ばしい情報ではないにしろ、左右田くんの気持ちはとても嬉しかった。彼は拳を握りしめて続ける。
「相手が狛枝っつーのは置いといて、やっぱ恋愛は燃えてナンボだよな! 日向の考えはどーだか知らねーけど、オレは協力するぜ? だからソニアさんとの仲も取り持ってくださいお願いします」
「……あ……うん、そうだね……」
「よっしゃー! つまりあれだな? 俺たち同盟組んだってことだな? 左右田同盟だな!」
「すごく……だめそうなにおいがするね……」
「嘘だろイカすだろ!」
左右田くんは、ところどころ言葉のセンスが古い。私が笑うと、左右田くんはどこか安心したように、その猫のような目尻を下げた。ソニアさんとのことは保証できなかったけれど、その優しさに、私は感謝することしかできない。
翌朝、私たちはモーテルを出てライブハウスへと向かった。案の定部屋から出てくることのなかった日寄子ちゃんをソニアさんが心配していたけれど、どんなに声をかけても反応らしい反応を見せてくれない彼女に無理強いはさせられない。左右田くんと田中くん、ソニアさんに千秋ちゃん、そして私の五人で、最初の通信に向かうことになった。
結局昨日は絶望病に関する有力な情報を得ることはできなかったらしい。図書館の本を三人で端から調べてみても、絶望病と名のつく病はどこにも載っていなかったと言う。罪木さんはきっと看病に追われているだろう。高熱はともかく、人によって症状が異なるというその特徴も、対処の難しさを浮き彫りにさせた。
窓が一つもないライブハウスの空気は重く淀んでいた。昨日左右田くんと二人で設置した時のままになっている通信機のセットに近づくと、左右田くんがソニアさんに自分の功績を語りはじめた。困ったように微笑むソニアさんのあまりよろしくはない反応を察したのか、左右田くんは私に振り向いて目配せをするので、「左右田くん、すごかったんだよ!」と褒めておいた。心からの発言だったけれど、演技力もない私がこれ以上何かを言おうものなら棒読みになってしまうことは間違いない。左右田くんに心の中で謝りながら、私は二人から目を逸らす。
やがて約束の時間になって、左右田くんがモニターのスイッチを押した。これで病院にある通信機のランプが点滅する仕組みになっている。さっきはあまり上手に褒め言葉を並べることはできなかったけれど、やっぱりこんな立派なものを適当な部品で作り上げてしまう彼はすごい。数秒の時間を有した後、モニターの向こうに現れたのは日向くんだった。ところどころ画像に不鮮明な部分はあるけれど、会話をする分には問題ないようだ。「左右田だけか?」という日向くんの声は、私にもはっきりと聞こえた。
「いや、西園寺以外は全員いるぜ、ほれ」
左右田くんが突然カメラをこちらに向けるので、思わず無駄に背筋を伸ばしてしまう。ソニアさんが、日寄子ちゃんが部屋に閉じこもってしまったことや、絶望病に関して何の手がかりも得られなかったことを話す。その間も、私は耳のあたりがざわざわして、落ち着かなくてたまらなかった。昨日左右田くんが言っていた言葉がずっと引っかかっている。狛枝くんの容体は変わらない。あの、倒れたときのままだという。ソニアさんとの話が終わったのを見計らって、私はモニターの中の日向くんに声をかける。
「あの、日向くん、狛枝くんは」
日向くんが、私に驚いたのか、狛枝くんの名前に戸惑ったのか分からないけれど、一瞬だけ目を見開いてそっと視線を落とした。鼓動が速くなって、体の端に向かって徐々に熱くなっていく。その表情から彼の吐き出す言葉を察した私は、その続きを聞きたくないと思ったけれど、今更耳を塞いでなかったことになんてできない。
日向くんは言い淀みながらも口を開いた。私はその言葉をきちんと最後まで聞き届けて、それから床に座りこんでしまう。誰かが私の背中を撫でてくれた。千秋ちゃんだった。左右田くんが「おいおいおいおい……」と独り言のように呟く。だけど、それでも私の中の絶望が薄まることはない。吐いた呼吸が震えて、目尻が熱い。
狛枝くんの脈が弱くなっている。今日、明日が山場らしいと、日向くんは言った。
足や腰、肩、身体中から力が抜けて、動けない。山場。死ぬ?狛枝くんが。訳もわからず小刻みに震える体を、千秋ちゃんが後ろから抱きしめてくれた。柔らかい女の子の体だった。熱を持っていた。昨日の狛枝くんは、だけど千秋ちゃんとは比べ物にならないくらいに熱かった。
狛枝くんが死ぬ。思い起こされるのは、彼が細める眦だ。「大丈夫だから、こっちのことは任せてくれ」日向くんはそう続けることで、私の皮膚に釘を刺す。
実際私が狛枝くんの傍にいたところで、できることなんかない。足手まといになって、最悪感染してしまうだけだ。頭では理解しているはずなのに、芯がその思考を否定する。何が起ころうと、彼に二度と会えなくなるよりずっと良い。そんな自分勝手なことを思ってしまう。
世界中の人間から指を差されて非難されても構わなかった。私は置いて行かれることが、何よりも恐ろしいと思ったのだ。そんなことを経験した記憶は、どこにもないくせに。
じっとしていると頭がおかしくなりそうだった。千秋ちゃんや左右田くんに気を遣われたけれど、私は皮を被って気丈に振舞った。図書館に籠っている間、私は黙々と本を積み上げていく。突然モノクマやモノミが目の前に現れて、狛枝くんが死んだことを告げることがありませんように。気を抜けば、そんなことを考えている自分がいて、強く頭を振った。
結局今日も絶望病の治療に関する手掛かりを一つも見つけられないまま陽が暮れた。モーテルで適当に食事を済ませてから夜のアナウンスを待って、朝のように日寄子ちゃん以外の皆で待ち合わせをしてライブハウスへ向かう。二回目の定期通信で伝えるような目新しい情報は、互いに一つもないままに接続は切られた。狛枝くんは依然として意識不明の状態が続いているらしい。私たちモーテル組は、手をこまねいて見ていることしかできない。
モーテルの硬いベッドに横になって、何度も寝返りを打った。狛枝くん。狛枝くん。狛枝くん、狛枝くん狛枝くん、何度も彼の名前を口にする。毛布の中で私は孤独だった。覆い隠された記憶の底から、何かが湧きあがってくることもなかった。「また来てもいいかな」かつて私にそう言った狛枝くんの穏やかな声が、今も耳に残っているのに、あれから私は何も思い出せない。彼が、死んでしまうかもしれない今も、何も。
そう思って瞼を強く閉じた、その瞬間だった。
もう一度。
その時、誰かの泣き声に似た叫びが、確かに私の頭を殴ったのだ。
どうか、どうかもう一度で良いのだと。
映像が鮮明に浮かんだわけではない。あれはただの文字列で、言葉で、願いだ。だけど蹲っていた私の腕を掴んだそれは、確かに私の声だった。その衝動に抵抗したくない。目を開く。
私はあの春に戻りたい。
私はベッドから起き上がると、モーテルを飛び出した。走った。無我夢中だった。丑三つ時の島は暗くて気味が悪くて、私は何度も転びそうになった。背後から嫌な気配を感じても、何か物音がしても、私は気にも留めずにひたすら走り続けた。深夜でも煌々とネオンを光らせるライブハウスの前を通り過ぎて、病院へ向かう。狛枝くん、狛枝くん、私は彼のことだけを、ただただ、考えていた。名前を呼んでいた。ずっと昔から、そうだった。
狛枝くんが私の左手に触れる度、私は大事な内臓を削られるような気分だった。
希望だと言って笑う狛枝くんに、私のだめになった左手はきっと、彼の希望には成り得ないと察していたから。だって、今も痛い。この島に来ても、私の左手はずっと痛い。ずっと、ずっと痛かったのだ。「綺麗だ」と言ってもらえたこの左手は、だからきっと彼に愛されない。
でも、でもさあ、それでも、私は狛枝くんと一緒にいたい。だからどうか、見ないふりして、気が付かないふりして、私の中の、あなたとすり合わせることのできない感覚や感情や価値観ごと全部、見逃して、それでも前みたく、私の希望に一番惹かれているんだよって、笑ってよ。どうか。
私はそうしてこれまでも、あなたのために生きていたのだと思うから。
病院は薄暗く、非常用の照明だけが足元を照らしていた。日向くんと九頭龍くんは、空いている病室で寝泊まりしているのだろうか。そういう話は聞いていなかったけれど、二人ともロビーにはいないようだったので安心した。
罪木さんが狛枝くんを看病しているだろうけれど、彼女だけだったらなんとか言いくるめられそうな気がする。病室へ続く扉をなるべく音を立てないようにして開ける。真っ直ぐ伸びた廊下を静かに歩きながら、個室の扉一つ一つにかけてあるネームプレートに目を凝らした。
一つ目の部屋は、唯吹ちゃんだ。彼女は絶望病のせいで信じられないくらい真面目になっていたけど、狛枝くんのように悪化してはいないだろうか。心配だけれど、今は、今夜が山場と言われた狛枝くんを優先させてもらうことにする。次の扉のネームプレートを確認して、私は一度深呼吸をしてから、そっとドアノブに手をかけた。罪木さんが付きっ切りで部屋にいることを考えて、驚かせないように小さな声で「失礼します……」と言うのも忘れなかった。だけど。
「あれ……?」
明かりのついていない病室の窓際には、ベッドが一つあった。見回してみても、ベッドの中のふくらみ以外に人影はない。罪木さんは、どうやらここにはいないらしい。休憩しているのかな、と考えながらベッドに近づいて、眠っている彼の顔を確認する。息をしていて、と心の底から祈って、そして思わず目を見開いた。そこで眠る狛枝くんの顔色が、随分と良くなっている気がするのだ。布団の中で静かな寝息をたてている彼の額に手を当ててみると、明らかに熱が下がっていた。楽観的な私が生み出した幻なのだろうか。頬を抓ってみたけれど、しっかりと痛い。彼の息は、倒れたときと違って酷く穏やかだ。
「……治った?」
縋るような声が出た。山場だったのではないだろうか。だけど熱が下がっているということは、つまり。その瞬間だった。薄闇の中で、音もなく私の背後に立った人がいた。
「ええ、もう峠は越えました」
首筋に鳥肌が立った。頭の奥のあたりで、何かが伸びきったような妙な感覚がした。背後から目隠しをされたようですらあった。「もう」間延びした、聞き覚えのある声が、私の名前を呼ぶ。
「ここに来たら駄目じゃないですかあ、さん」
彼女は笑っていた。振り向いて目が合った、のに、私は息が出来ない。誰だと、思った。彼女は、罪木さんは指を顔の前で組んで、可愛らしく小首を傾げて微笑んでいる。笑っているのに、違うと、直感で思った。いつもおどおどして、自信のなさそうな弱々しい瞳で周りを窺っていた彼女の瞳には、得体の知れない揺らぎがあった。咄嗟に、狛枝くんの眠るベッドの淵に手をかける。本能が逃げろと言っていた。うふふ、と、彼女の厚い唇の端から、息が漏れる。
「日向さんたちの言いつけは、きちんと守らないとぉ。ね?」
私を見て微笑んだ彼女のエプロンは、血で染まっていた。