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 ベッドに入ってもなかなか寝付けなくて、何度も寝返りを打って浅い眠りを繰り返しているうちに夜が明けてしまった。今日も、ややもすると眩しすぎるほどの陽の光が部屋に注ぎ込む。霞む目でベッドの上から光の筋を追った。モノクマは何が言いたかったのだろうと、夜中の間もずっと頭の真ん中にあった疑問について思考を割く。
 私に期待している。そうモノクマは言い放ったけれど、あの言葉そのものが何らかの嫌がらせであると考えても良いだろう。真剣になる必要はない。頭が痛くなって髪の毛を両手で掻き毟った。今なお丁寧に爪の切られた私の指先は、そうしたところで肌に傷一つつけてはくれない。
 ベッドから下りて、部屋の中央にあるテーブルに投げてある書きかけの五線譜を手に取った。何日か前に暇つぶしに書き出した曲だ。少しの間譜面を眺めていたけれど、耳に浮かぶ音がモノクマの声にかき消されて、発作的に山なりに連なる音符に大きくバツを書き殴る。震えた線が私の音を潰す。ゴミ箱に投げ入れて、私は身支度を整えるために洗面所へ向かった。
 準備を済ませ、重たい手足を引き摺りながらコテージを出る。いつもの時間より少し遅くなってしまったが、レストランには向かわなくてはいけない。誰が決めたわけではないけれど、島に来たばかりの頃から、朝にそこに集まるのは決まり事のようになっていた。南国の太陽は容赦なく私の頭に降り注ぐ。寝不足の体には厳しいと、俯きがちに歩く私をその時誰かが呼び止めた。



ちゃんっ! おはよーございまむ!」



 顔を見なくても、この一際元気な声は唯吹ちゃんのものだと分かる。「唯吹ちゃん、おはようございまむ……」普段以上に回らない頭のせいか、うっかり同じ挨拶を返してしまった。「ひゃはー!」唯吹ちゃんが言いながら目を見開く。



ちゃんもとうとうこの挨拶の良さがわかるようになったっすね! 唯吹は嬉しいっす!」



 腕を組んで大袈裟に頷く唯吹ちゃんは今日もセットの難しそうな髪型をきっちり決めて笑っている。超高校級の軽音楽部である彼女は、分かりやすく見た目も派手だ。きっと、早起きして整えているんだろうなあとぼんやりと考えていた私の返事を待たずに、唯吹ちゃんは続けた。



「でも丁度良かったっす。唯吹、今からちゃんの部屋に行くところだったんすよ! キャッハー! これも唯吹の日頃の行いが良すぎるせいっすね!」



 私の部屋。その言葉に、ぼやけた思考がようやく稼働し始める。



「……え? わざわざ呼びにきてくれたの? どうして?」

「レストランに集合すればわかることっす! しっかしちゃんとここで会えて本当にラッキーっす。危うくもう一個鍵を破壊するところだったっすよ」

「えっ……は、破壊? え?」

「実は今、創ちゃんの鍵をぶっ壊してきたところっす!」



 唯吹ちゃんはウインクをすると、創ちゃん、つまり日向くんの部屋を指差した。鍵と言ったら、十中八九部屋の鍵のことだろう。その前にどうして部屋のインターフォンを鳴らさないのか。無邪気に笑う彼女に問いかけたところで、納得のいく答えが返ってくるとは思えない。



「で、でも、壊すってどうやって……」

「簡単っすよ、ヘアピンを突っ込んで思いきりガチャガチャやるっす。躊躇ったら負けっす。思いきりが大事っすよ! 思いきりが大事っすよ! あれっ二回言っちゃった!」

「ヘアピン? 結構簡単なんだね……」



 だけど驚いたおかげで完全に目が覚めた。唯吹ちゃんは満面の笑顔のまま、「じゃあ呼んだっすからね! 先に行ってるっすよー!」と言って走り去って行ってしまった。あの快活さを、今の私にも少しばかりで良いから分けて欲しい。彼女の明るさに引っ張られても、私が昨日のモノクマの話や狛枝くんと思しき声の正体について頭を悩ませている事実は変わりないのだ。唯吹ちゃんの姿が完全にホテルの中に消えていったのを確認してから、長く息を吐いた。その瞬間だった。



「おはよう



 真後ろから声をかけられて、つい「ぎゃ!」と悲鳴をあげてしまう。恐る恐る振り向けば、そこには苦笑いを浮かべた日向くんが立っていた。「あっ日向くん鍵……」つい口にしてしまったその言葉に、日向くんは益々眉根を寄せる。



「なんだ。澪田から聞いたのか。お前もやられたのか?」

「いや、私は平気だったよ、ギリギリで部屋を出てきたから……」

「ああ、それなら良かった」

「うん……でも大丈夫?」



 まあ鍵くらい何とかするさと、彼は大した問題でもない風に呟いた。私だったら不眠になってしまいそうだけど、彼はやっぱりそれだけ皆を信用しているのかもしれない。そのまま二人で並んでレストランへと向かう。わざわざ唯吹ちゃんが呼びにきたことを考えれば、急ぐべきなのだろう。だけど日向くんは随分とのんびり歩いていた。同じ場所に向かっているのにわざわざ先に行くのも何だかおかしな気がするし、と、彼のペースに合わせた私は、ちらりとその横顔を見上げる。日向くんが口を開いたのは、それとほぼ同時だった。



「なあ



 日向くんは決して私の方に目線をやらなかった。だけどその眼差しは痛いほどに真っ直ぐ、いっそ不自然なほどホテルの方へ向けられていて、だから、私はこのときになってようやく、日向くんが彼の話をしようとしていることに気が付いたのだ。「あいつとは、あれから何かあったか?」それは探るような、彼にしては低い声だった。
 あいつ、などと濁されてしまったけれど、私は勿論それが誰を指しているのかを瞬時に理解している。とぼけられたらどんなに楽だったろう。だけど最近の私は彼のことに随分気を取られていて、いや、ひょっとしたら最近どころでなく、ずっと昔から彼のことを考えていたのかもしれなかった。だからこそ、彼にどう接したら良いかを決められずにいる。
 狛枝くん。優しくて、笑顔が綺麗で、恐ろしいほどに体温の低い人。日向くんの言う「関わるな」を、私は実践すべきなのだろうか。思い出しかけている彼についての何かを、もう一度手ずから紐で縛って隅へと蹴り飛ばしておくべきなのだろうか。胃がぎゅうと痛む。
 昨日の私は、思い出したいと思ったのだ。だから、あのファイルを見に行った。何か思い出せることを期待して。なのに結果は散々だった。余計に混乱する羽目になってしまったばかりでなく、モノクマに新たな燃料まで投下されてしまったのだから。
 モノクマの「期待している」なんていう趣味の悪い言葉は、私の意思を挫かせるには充分過ぎた。私は何者だったのだろう。過去に何があったのだろう。私がこういうことを考えるのは、花村くんの、人を殺してまでお母さんのことを知りたかったという強い気持ちに酷似しているのではないかと思った。だから余計に怖くなった。考えたくなかった。見ないふりをした方がずっと楽なんじゃないかと、私は昨夜、ベッドの中で手足を丸くしたまま、思ったのだ。
 だけど、不意に脳裏を過ぎる声がある「そういうふうに、できてるんだよ」千秋ちゃんの声が。



「……?」



 声をかけられて、現実に引き戻された。日向くんは今度こそしっかり私を見据えている。どこか心配そうに顰められた眉に、気が付かないふりをするくらいは、どうか許してほしい。



「……なんでもないよ」



 ホテルのロビーに辿り着く。私は結局彼を振り切って、駆け足で階段を上る。


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