21



 その日の午後、例のファイルをこの目で確認するために私は一人で三番目の島にある電機街へと向かった。既に記憶から消されてしまいつつある名称の絶望的事件とやらの概要は、レストランで日向くんから軽く説明を受けたけれど、恐らく日向くん自身もその件に関してあまり理解しきれていないのだろう。歯切れの悪い彼の言葉は、私の中に生じた得体の知れない感覚を拭い去ってはくれなかった。だからこうしてここに来たのだ。
 誰もいない電機街は薄暗く、何となく居心地の悪さを覚えたけれど、好んで入り浸る左右田くんの姿が見えなかったことには安心した。千秋ちゃんに付いてきて貰おうと言う頭がなかったわけではないけれど、結局一人で来たのは、何か引っかかる部分があったせいかもしれない。
 電機街に着くや否やパソコンコーナーに真っ直ぐ向かい、目についたパソコンを起動する。皆が見たというくらいだからそれなりに目立つ位置に置かれてあるものだろうと思ったのだけれど、その勘は珍しく当たったらしい。デスクトップ上には、ぽつんと「ウサミXファイル」という怪しいアイコンが置かれていた。一息にカーソルを合わせて、クリックしかけた指を、ほとんど直前で止める。
 あんなに覚悟を決めてここに来たのに、私は今になって迷っている。マウスを握る自分の指先が震えていることに気が付いた。寒気を覚えているのに、体の底から熱が湧きあがって首筋から汗が噴き出る。心臓の鼓動に目を閉じて、深く息を吸った。私が緊張するなんて、おかしい。今までどんな試験でもコンクールでも、私は何も感じなかった。緊張から泣きじゃくる子たちを、普段ならば考えられないミスをしてしまう子たちを、これまでずっと自分とは関係のない人たちだと思って生きてきた。変に同情を見せれば噛みつかれる世界だった。私はステージ脇のカーテンの裾でいつも一人だった。なのに、今は、どこにもない誰かの手に縋りつきたくてたまらない。
 私は、思い出さなくてはいけない。今朝レストランでこの話を聞いたときに、胸が音を立てたのだ。厳重に片づけられていた箱の蓋が、そっとずれたような違和感があった。そこから溢れる「また来てもいいかな」を、私はもう全部の体重をかけても抑えていられない。蹴っても剥いでも、それは私の傍に現れ纏わりつく。だから、思い出さなくてはいけない、ちゃんと彼のことを。私のことを。ここにある情報は、きっとそこに繋がっているという確信があるのだ。
 力強く目を閉じて、ファイルを開こうと指に力を込めた。その瞬間だった。



「あっ……あれぇ? ……あ、あのあのあの~、ひょっとして、さんですかぁ?」



 背後から聞き覚えのある声で名前を呼ばれ、私は悲鳴をあげた。咄嗟に振り向くと、そこには私の声に怯えたように立ち尽くす、超高校級の保健委員である罪木さんの姿があった。



「ひっ、すいませえん! 驚かせてしまいましたあっ! お詫びに何でもしますう……!何でもしますから……嫌わないでぇ!」

「え、あ、ちがう、ちがうよ落ち着いて罪木さん」



 上手なフォローの仕方が分からなくて、本気で泣き始めてしまった罪木さんの背中を撫でた。彼女は誰に対してもこういう態度を取る。事あるごとに罵声を浴びせる日寄子ちゃんではないけれど、私はそんな彼女とどう接したらいいのか分からなくて、いつも遠巻きに見つめていた。



「う、うゆぅ……さんは……優しい方ですね……」



 めそめそしながら呟く彼女の体は、柔らかくて温かい。罪木さんとはあまり話をしたことはなかったけれど、二度の殺人が起きたときに彼女が必死で検死をしていたのも知っているから、私は彼女を尊敬していた。蹲って泣く罪木さんの女の子らしい丸みを帯びた体をじっと見つめる。



「あの、罪木さんも、ファイルを見に来たの?」

「あっそうでしたあ! 九頭龍さんの容体も落ち着いたようだったので、皆さんが仰っていたファイルを見に来たんですぅ!」



 彼女は保健委員という才能の通り、病院で見つかった九頭龍くんの看病を買って出ていた。彼の傷は全治一週間程度だったそうだけれど、傷つけられた右の眼球はもう見えないかもしれないらしい。言いようのない気持ちに気分が沈みかけた頃、勢いよく顔をあげた罪木さんはそのまま私の両手を掴んだから、私は再び声をあげそうになってしまった。



「やっぱり私も気になっちゃってえ! ゴミの分際ですみませえん!」

「あ……あのね、私も今から見るところだったんだ」

「えっ、そうなんですかあ! じゃあ、あのう、ご一緒させていただいてもよろしいでしょうかぁ?」



 一人で見るつもりでここまできたけれど、こうなってしまっては断ることはできない。それに、白状するとどこかで安堵していたのだ。誰かが横にいると安心する、さっきまで震えていた体が嘘みたいだ。私は頷くと、罪木さんと二人で並んでパソコンの前に立った。罪木さんは寄り添うように私に体をぴたりとくっつける。胸が肘に当たって、どきりとした。
 淡く発光する画面に視線を戻して息を吐く。何か少しでも思い出せるだろうか。「また来てもいいかな」私はいくら思い返してもこの島で彼にそんな事を言われた記憶がない。あれは島に来る前の、奪われた記憶に存在する彼なのだ。思い出すのだ。細胞がそう叫ぶから。
 そして、今度こそ開いたファイルを見て、私は息を呑む。








 人類史上最大最悪の絶望的事件について。その報告書は、私の理解を超えていた。
 希望ヶ峰学園の予備学科の生徒による武装蜂起に端を発するその事件は、世界各地に伝染するように広まった。テロでもクーデターでもない破壊活動は徐々に世界を絶望へと陥れ、希望ヶ峰学園も閉鎖に追い込まれることになる。しかし生き残った数少ない生徒達も、絶望の見せしめとして殺し合いを強いられた。



「ふ……ふえええ? どういうことですかあ!」



 私よりも早くファイルを読み終えたらしい罪木さんが泣きだす寸前のような悲鳴をあげる。日向くんが上手く説明できないわけだ、と、読めるところまで目で追ってから、どこか冷静に思った。希望ヶ峰学園の予備学科という存在を私は知らない。世界中に広がるような事件があったことも、学園が閉鎖されたことも、何から何までピンとこなかった。罪木さんの反応を見るに、他の皆も恐らく私と同じ感想を抱いたのだろう。そこから先は文字化けして読めなくなっていて、狛枝くんがこれを趣味の悪い冗談だと気分を害したように呟いたのも、分かる気がした。だってこんなの。



「夢見がちな子供が妄想した『僕の描く絶望的な未来』みたいだよねー!」



 思い浮かんだ言葉が、自分が口に出すよりも早くそのまま耳に飛び込んできた。この場違いに明るい声は、モノクマだ。振り向いた私と目が合ったモノクマはわざとらしく声をあげる。



「そんなに熱い目で見ないでよさん。ボク、溶けちゃう! どろどろの白い塊になっちゃう!」



 罪木さんが再び奇声をあげて私にしがみつく。神出鬼没なモノクマは、彼女と正反対に押し黙ったままの私を見据えて、首を傾げる仕草をしてみせた。



「でもね、残念ながらこれは妄想ではないので、子供の夢みたくワンパンKOしてくれるような正義の味方なんて現れないんだよね」



 ここに書いてあることは紛れもない真実です! 胸を張ってモノクマは言う。記憶を奪われた私たちは、モノクマの言葉を否定する材料なんか持ち合わせていなかった。嘘だと言えなかった。何が起きたのかを、私たちは誰も知らない。予備学科が何なのか、本当に学園が閉鎖されたのか、その絶望的事件が具体的には一体何を指すのかなんて、分かるはずがないのだ。
 私の顔を覗き込むモノクマが、声をあげて笑う。「ねえねえさん、本当に思い出せない? 本当に? うぷぷ、うぷぷぷぷ」思い出せないよ。期待していた分、自分でも驚いている。だけど、声には出さなかった。罪木さんが怯えたように私の服の裾を掴んだのが、感触と体温でわかる。
 私は何も思い出せない。開きかけた箱の底にちらつく影を引きずり出せると思った。失った高校生活の記憶を、狛枝くんとの間に何があったのかを、思い出せるはずだと。なのに、現実はそうはいかないらしいのだ。心のもやもやは晴れてくれない。モノクマはそんな私を見透かすように笑う。



「ねえさん」



 両手を広げたモノクマは世界中を包み込むように高らかに叫ぶ。



「ボクはね、キミにはとーっても期待しちゃっているんだよね!」



 息を呑んだ。「だから、もうちょっとボクを楽しませてよ」目を見開いて固まった私にそう言い残して、モノクマは一瞬で姿を消す。残されたのは罪木さんと、私たちを混乱させただけのファイルと、指の一本すらも動かすことの出来ない私だけだ。



さあん……」



 今にも泣き出しそうな声で罪木さんが私の名前を呼んだのが分かった。けれど返事が出来ない。ついさっきまで確かにモノクマがいた空っぽの空間を、穴があくほど、私はただ見つめていた。
 期待? 誰が、誰に。
 目の奥でちらつく影が鬱陶しい。すぐそこにあるはずなのに、手を伸ばしても思い出せない。私は一体何者だったのだろう。余計に謎が深まっただけのように思えて、頭を抱えた。


PREV BACK NEXT