20
辺古山さんの裁判で重傷を負った九頭龍くんは、三番目の島にある病院の一室で見つかった。
ベッドに横になっていた彼の右目や手首は包帯が巻かれて痛々しくはあったものの、意識はしっかりしているようだった。軽い診察を終えた罪木さんによると、彼の傷は比較的浅いものばかりだったらしい。辺古山さんが、助けに行こうとして処刑に巻き込まれた彼を最期の瞬間まで身を挺して庇ったからじゃないかな、と千秋ちゃんが呟く。私は硬い表情をした九頭龍くんの顔から目を逸らした。彼の気持ちを考えると、お腹の辺りが苦しくなる。
九頭龍くんも思うところがあるのだろう。決してその口数は多くなかったけれど、それでも彼が戻ってきてくれたことは嬉しかった。皆の表情も心なしか柔らかく見える。ただその中でも日寄子ちゃんだけは、彼への感情を上手く消化できずにいるようだった。仲の良かった真昼ちゃんを殺されて、自分は犯人に仕立て上げられそうになったのだ。そう簡単に許せるはずがない。
彼女は目尻に涙を浮かべたまま九頭龍くんのことを睨みつけるだけで、その口を開くことは無かった。思わず震える小さな日寄子ちゃんの手の平を握ってしまいそうになったけれど、きっと彼女はそんなことをされたって喜ばないだろう。宙に浮いた手を制服で拭う。
不意に眩暈を感じて、私は誰にも勘付かれないように壁に背中を預けた。まだ本調子ではないらしい。映画館を出てからずっと、私は目隠しをされたまま橋を渡っているようだった。揺らぐ視界でそう広くはない病室の景色を目に焼き付けながら、日向くんに忠告されたことを思い出す。狛枝に関わるのをやめろ。私はそんなにみっともなかっただろうか。そんなに狛枝くんに振り回されているように見えたのだろうか。私は客観視するという作業があまり得意ではないから、良く分からなかった。けれど、忠告されるくらいだ。きっと彼にはそう見えていたのだろう。
日向くんは必死の形相をしていた。彼が裁判で良く見せるような顔だった。掴まれた肩が熱を持つのを自分のものではないように感じながらも、私は頷くことも首を振ることもできなかった。
千秋ちゃんは、狛枝くんのことを理由もわからないまま好きだと思うこの感情を、否定しなかった。ただそういうふうにできていると言ってくれた。ほっとしたのだ。そのままでいいと言われたようで。だけど、日向くんは千秋ちゃんと正反対のことを言う。関わるなって、つまりそういうことだ。二人の意見が天秤に乗せられる。幸か不幸か、とうの狛枝くん本人は九頭龍くんのいる病室にやって来ることはなかった。私は目を閉じる。波の中でゆらゆら漂っているような浮遊感を、ここ数日ずっと感じている。手首から下だけが、まるで自分のものではないように、ただ重い。
翌朝私たちはレストランに集まって、新しい島に関しての報告会を開いた。昨日までとは打って変わって空気が穏やかなのは、きっと皆も九頭龍くんの無事を喜ばしく思っていたからだろう。しかし、島の脱出方法に関しての有力な情報は、今回も誰も見つけることができなかったらしい。
そんな中、一番の目的である島からの脱出とは直接関係ないけれど、と、狛枝くんは控えめに手をあげて首を傾けた。彼の掠れる声を聴いた瞬間に飛び跳ねた心臓を抑える。私の座るテーブルから遠く離れた席にいる彼の方を、わざと視界に入れないように目を落とした。これから彼にどう接するべきなのか、まだ結論を出せずにいる。
「電機街のパソコンにあったファイルは見たかな? なかなか面白い冗談が書いてあったよね」
パソコン。そういえばそんなものも見かけた気がする。ただ彼の言うファイルにはピンとこなかった。あそこでは千秋ちゃんがゲーム機を探すのに夢中になっていたから、他の物をきちんと調べていなかったのだ。狛枝くんの言葉に、日向くんやソニアさん、田中くんも反応した。どうやらあそこのパソコンには奇妙な報告書が残されていたらしい。
「お前も見たのか」
日向くんが険しい顔で続けたその単語が、突然、塊になって耳の奥にこびり付く。
「『人類史上最大最悪の絶望的事件について』」
私は息を止めた。知らないうちに手の平にべったりと汗をかいていた。瞳の奥が、熱を持つ。耳障りな動悸も耳鳴りも、なかったことにしたかった。顔をあげた瞬間、狛枝くんと目が合ったけれど、彼は表情の一切を変えなかった。胸の内側に長い虫が這っているような不快感が芽生えて、私は一度だけ大きく息を吸い込む。
何でこんなに苦しいのだろう。私はそんな長い名前の事件なんて覚えがないのに。
モノクマの言葉が鮮烈に思い出される。「オマエラは記憶を奪われているんだよ! 返してほしければコロシアイを始めなよ!」私はあの時確かに思ったのだ。人を殺してまで欲しい記憶なんて、あるわけがないと。だけど今私は背中を刺されている。このままで良いのか、お前が忘れたそれは大事な記憶だったんじゃないか、本当にそれでいいのかと。私は耳を塞ぐけれど、指の隙間から雑音が入り込んでくるから、声をあげたくなった。「また来てもいいかな」と、誰かが言っているのだ。あの日からずっと、左手が疼いて、腐って落ちそうだ。痛くてたまらないのだ。
息を吐き切った後、震える内臓に気が付かないふりをして、勇気を出してもう一度狛枝くんを見つめた。何故彼を見なくてはいけなかったのだろう。本当は、私は気がついているんじゃないか。
「また来てもいいかな」
だってあれは、確かに狛枝くんの声だった。
狛枝くんは、答えるように私を見て目を細めた。それは今まで彼が一度も私に見せたことが無いような、泣き出す寸前のような、壊れかけの笑顔だった。
縋りついて声をあげて泣きたかった。私はあの声を蹴飛ばして、だけど、なかったことにしたい。