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 モノクマの自主製作映画を観る、観ないの攻防に勝利した直後、狛枝は生気のない瞳でシアターから出てきた。嫌な奴に出くわしてしまったものだと内心眉を顰めたが、こいつの表情から察するに、やはりここで上映されている映画は見る価値もないものだったらしい。それが分かっただけでも上出来か。



「新しい殺人の動機になるわけでもなさそうだったし、退屈過ぎて死にそうだったよ……」



 ため息を吐きながらそう投げやりに呟いた狛枝は、しかし、なぜだかどこか機嫌が良さそうにも見えた。映画館を出ていこうとするあいつの足取りはやけに軽く、スキップまでしかねないその後ろ姿を思わず凝視してしまう。それが不味かったのだ。前振りなく振り向いた狛枝と目が合ってしまった俺は、心の底から自分の迂闊さを呪った。



「ところで日向クン、どうしたら女の子って喜んでくれるのかなあ」

「は?」

「是非とも後学のために日向クンの意見を聞かせて欲しいんだよね」



 思いがけない質問に、開いた口が塞がらない。俺の反応にか、それとも何かを思い出したのか、楽しげに瞳を細めた狛枝は、俺が聞いてもいないことを饒舌に語りだす。



「さっき映画に誘ったんだけど、残念なことに断られちゃってさ。絶望的につまらないこの映画のせいだとは思うんだけど、もし今後も色んなことを断られちゃったら、ボク、立ち直れないような気がするんだよね。本当はこう見えて今も結構傷ついてるんだ。だから是非日向クンに意見を貰いたくて」

「……おい、ちょっと待てよ、お前何言ってるんだ?」

「だからどうしたら女の子は喜んでくれるんだろうって話だよ。ボクはもっとあの子のことが知りたいんだ。もっと一緒にいたいんだよ。あの子の希望を誰よりも近くで見ていたいんだ!」



 狛枝の瞳が渦を巻いているような、狂気じみたそれに変わっていくのが分かった。鳥肌が全身の皮膚を覆っていくような感覚に吐き気がして、俺は狛枝から目を逸らしたくてたまらないのに、眼球は動いてくれない。薄暗い映画館の仄かな明かりが、足元をじんわりと照らしている。



「……誰のことを、言ってるんだよ」



 狛枝の熱を帯びた双眸は、俺の中に芽生えた奇妙な思いを丁寧に踏みにじった。「やだなあ、わからないかな」俺にはこいつの長い睫毛の先を、睨むように見つめることしかできない。



さんに決まってるでしょ?」



 は、この個性的な面子の中では比較的目立たない存在だった。
 記憶力がないらしく、名前を覚えられなかったり、適切な言葉が出て来ず代名詞で代用したり、簡単な計算を間違えたり、そういうことを平気でする。その度に顔を真っ赤にして謝るものだから、何だか可愛いなと思ったこともあった。
 縛られた狛枝の食事を運んでいると知った時は、驚くと同時に納得した。なら、さもありなん、そう思ったのだ。誰もやりたがらないことを率先してやる彼女は立派な人間だ。だけど、が何を考えてそうしているのかまで俺は考えていなかった。いや、考えないようにしていたのかもしれない。彼女は気が付くと、狛枝に寄り添うように傍にいた。良くその姿を目で追いかけていた。それは無償の愛というには、まだ弱々しいものであるように思えたけれど。
 もしかしたら彼女の優しさは、狛枝に対してのみ注がれているのではないだろうか。不意にそんなことを思ったけれど、小さく首を振った。この男には飲み込まれて欲しくなかった。








「……?」



 狛枝と別れて電機街の前を通りかかった時だった。が七海に寄りかかるようにしてベンチに座っているのを見かけた。思考のほとんどを占めていた彼女と思いがけない形で出会ったことに動揺した俺がそれ以上に困惑したのは、いつも穏やかに微笑んでいるがぐったりとしていることに気が付いたからだ。 項垂れた彼女は弱々しく縮こまって、その背中を七海が撫でている。駆け寄ってみても七海が顔をあげるだけで、の方はほとんど俺に反応を示さなかった。



「お、おい、大丈夫か? 七海、どうしたんだよ」



 狛枝の言葉が頭を過ぎる。あの子の希望を誰よりも一番近くで見たいんだ。一体二人に何があったら、あそこまでの言葉を狛枝が吐き出すと言うのだろう。
 知るかよ、そんなこと。俺はあいつにそう答えたのだ。だけど狛枝は表情を一切崩すことなく、「そっか」と頷くと、そのまま映画館を出て行ってしまった。映画の特典として準備された間の抜けたモノミのマークが入った麻袋を、あいつの背中の代わりに凝視した。俺はあいつが分からない。
 青白い顔をしたの代わりに、七海が答える。



「うーん……疲れちゃったんだって。いろいろあったし、無理もない……と思うよ。」

「そりゃそうかもしれないけど、それにしたって……!」



 迂闊にも声を荒げてしまった瞬間、はゆっくりと顔をあげた。その瞳にいつもの力はない。今にも消えてしまいそうだった。十神や小泉のように。背筋が凍っていくのがわかる。「ごめん、大丈夫だよ、日向くん。ちょっと疲れただけ」の浮かべた微笑は、溶けるか割れるかする直前の、薄い氷のようだった。
 狛枝の狂気じみた声が、表情が、熱が、彼女の全身を蝕んでいくような気がした。彼女が壊されるような幻覚が見えた。他でもない狛枝の手によって。「狛枝のせいだろ?」ほとんど無意識に呟いたら、目の前の二人がそれぞれ目を見開いた。







 俺はの肩を掴んでいた。全身の隅の方から、血が昇ってくるのが分かる。指先が震えた。は目を丸くしたまま俺を見ている。俺は、ひょっとしたら酷いことをしているのかもしれない。この選択は間違っているのかもしれない。それでも仲間が、がこんな風にあいつに惑わされて、傷ついて、手首を掴まれたままじっと耐えている姿を見るのは、耐えられなかった。
 の大きな瞳が俺の姿を映す。彼女の目の中で、俺はみっともない顔をしていた。余裕なんて少しも感じられなかった。冷静になってみたら、七海だって隣にいるのにこんなに熱くなって、馬鹿すぎて笑えるくらいだ。だけど、これだけは言いたいのだ。だって俺は十神にお前を頼まれた。



「もう狛枝と関わるの、やめろ」



 が息を呑んだ音が聞こえた。七海が俺を咎めるように、「日向くん」と口にしたけれど、それに続く言葉は、いくら待っても出てこない。
 俺は、十神が死ぬ直前に言った言葉を思い出していた。あいつは旧館で、凶器となるものをケースに片づけながら、俺に尋ねた。



「なぁ、お前はと話をしたか?」

「話っていうほど話はしてないな。ちょっと罪木とは違った意味で危なっかしい奴だとは思うけど」

「それは同感だ。あいつは少し不安定だな」



 不安定。言葉の意味を理解しきる前に、十神は厨房を出ていく。その後ろ姿を追いかけ廊下に出ると、待ち構えていた十神は俺の姿を一瞥して、何でもないことのように続けた。



は、俺と同じで、周囲の人間をよく観察しているようだ」



 の黒い双眸が脳裏を過った。島に着いたばかりの時、あれに見つめられたことを思い出す。本人にその気がなくとも、飲み込まれそうになるのだ。あいつが歩んできた人生がそうさせるのか。超高校級のピアニストとして成功してきた彼女は、時折それが故の異質さを垣間見せる。
 けれどピアニストであると同時に、彼女は普通の、十六、七の少女だ。想定外のことが起きれば一人では立ちあがれず、自分のことを必要以上に責めるだろう。十神は予見していたのだろうか。自分が死ぬことを。彼女が一人で動けないとき、自分がその隣にいることはないということを。
 事実、直後に十神が殺された後、は廊下で蹲って泣いていた。気になってはいたのだ。だけど突然突き付けられた殺人とその捜査に気を取られて、俺は彼女に声をかけることができなかった。あいつの背中を撫でたのは、狛枝だ。今となってはあの時自分が無理にでもの傍にいくべきだったと思っている。あれがなければ、あいつらは今こんなことにはならなかったかもしれない。
 俺は、この手の届く範囲にいる皆を死なせたくない。だから、はこの腕の伸ばした先で、いつもみたいに静かに笑いながら座っていてくれ。



「日向くん」



 が掠れる声で呟いた。俺は、彼女が自ら泥の沼に足を踏み入れようとする後ろ姿を黙って見ていることができなかった。だって、。狛枝は、きっとお前をだめにする。


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