17
「大丈夫?」
旧館の入口前にある階段に蹲っていた私に彼は声をかけた。常夏の島と言えど夜は冷える。べたつく風が鬱陶しくて、返事の代わりに額に張り付いた前髪を払った。狛枝くんは無言で私の隣に座る。階段の幅がそう広くないせいで、足の先が触れあった。
真昼ちゃんを殺した辺古山さんは処刑された。その事実に打ちのめされる。こみ上げてくる不快な胃液の行き場が無くて、空気ごと呑みこんだ。真昼ちゃんが死体で見つかったのは、今日、いや、とっくに日付は変わっているから、昨日の夕方だ。あれから目まぐるしい捜査を経て、平常心を取り戻せないまま裁判を行って、そして犯人が処刑された。真昼ちゃんを殺したのは、私に犯人を許すなと言った辺古山さんだった。狛枝くんが小さく肩を竦める。
「まさか、辺古山さんが犯人だったとはね」
「……気付いていたくせに」
隣に座った狛枝くんは、「そうだね」と困ったように笑った。裁判が始まってすぐに辺古山さんは失言をした。砂浜に残された足跡の話をしている時だった。彼女は、その足跡が日寄子ちゃんのものだと断言したのだけど、狛枝くんはそれを聞いて妙な目の動きをしたのだ。良く考えてみたら、捜査中に勝手にコテージに忍び込んでそれぞれの足跡を採集していたと言う狛枝くん以外にそれを判断できるのは、日寄子ちゃんに罪を被せようとしている犯人だけだ。
「さんは意外と勘が良いというか、よく他人のことを見ているよね」
彼の顔に浮かんだ薄い微笑が、人の死を蔑ろにしているようで、今だけは許せなかった。
「……狛枝くんは、どうしてここにいるの?」
「さんがコテージを通り過ぎる姿を見かけたから、かな?」
「私に何か用?」
私は一人になりたかった。狛枝くんにこうやって絡まれることを知っていたら、コテージのベッドで、無理に目を閉じていたはずだ。真昼ちゃんが押した部屋のインターフォンを思い出して、二度と聞けない彼女の声を反芻させながら泣いているほうがずっと良かった。
だけど私の素っ気ない言葉に狛枝くんが何かしらのダメージを受けた様子はなく、彼は朗らかに、「用事がないとキミの傍にいちゃいけない?」と、私を動揺させるような言葉を吐き出す。いつだって狛枝くんは上手だ。嫌になるくらいに。
犯人を許すなと言った彼女は死んだ。鋭い瞳をした人だった。守りたかったと言った。九頭龍くんを守るために生きてきたと。分厚い仮面を被ったまま彼女が言うから、私の方が引き裂かれそうだった。彼女は、真昼ちゃんを殺したことを悔いていたのだろうか。あれは私に向けた懺悔だったのか。今になってはもう分からない。 辺古山さんは死んだのだ。彼女を助けに行った九頭龍くんも処刑に巻き込まれる形で重傷を負い、今はここに居ない。モノクマがどこかに治療しに連れて行ってしまった。もう嫌だ。逃げ出したい、帰りたい、殺されたくない。考えるだけで体が震えた。だけど、そうして立ち止まった先に未来なんかないということも、私は知っていたのだ。
「狛枝くんは」
思いとどまって口を噤む、それでも私は聞きたかった。膝の上で握りしめた手の平が汗で滑る。
「……狛枝くんは、まだ、希望のために死にたいって、思ってる?」
彼は一瞬だけ目を見開いた。希望のためならば誰が死んでも、その犠牲者が自分であっても構わないと最初の裁判から主張していた彼は、美しい微笑を携えて小さく首を傾げると「勿論」と逡巡なく口にする。
「希望のためなら、ボクは喜んで犠牲になるよ」
だけどやっぱりそんなの、悔しい。
膝の上に生温かい滴が数粒落ちて、そこでやっと私は、自分が泣いていることに気付いた。
「……なんでキミが泣くの?」
「狛枝くんには、言っても分からない」
「そう? 一応ボクもそれなりに情緒を理解しているつもりだけど」
「わからない」
だって真昼ちゃんも辺古山さんも、もういない。十神くんも花村くんもどこにもいないのだ。四人の顔や声は、こんなに簡単に、手を伸ばせば届きそうなくらい傍にあるように思えるのに、もう彼女たちには二度と会えない。それを希望のためだから仕方ないだなんて言える狛枝くんを、私は理解できない。際限なく零れる涙は、手の甲でどんなに拭っても溢れて止まらなくて、私はとうとう両手で顔を覆った。指の隙間を伝って手の甲を流れる。
嗚咽が漏れる。進まなければならないと知っている。このまま泣いたって解決なんかしないし、誰も浮かばれない。起き上がらなくちゃいけない。だけど、今は苦しくてたまらない。
不意に手を取られた。私の濡れた手を彼は引き寄せて、彼は何の躊躇いもなくその舌で私の指を伝った涙を舐める、丁寧に、一滴の涙も余すことなく。だから、息が止まった。もう片方の手の平を、ぐしゃぐしゃの頬に添えられた。狛枝くんは、目を見開いたまま動けないでいる私をじっと見て、それから、長い沈黙を、優しい声音で壊していく。
「さんは、よく泣くんだなあ」
掴まれたままの左手に吐息がかかった。息が出来ない。瞬きも忘れるほどに、彼は優しい顔をしていた。見たことのない表情だった。普段から穏やかな表情を浮かべる人だったけれど、それはいっそ、今にも泣き出しそうですらあった。私はこの島では、誰よりも彼を知っているはずだ。そう思っていたのに。笑おうとして失敗したような顔で、彼は吐き出す。
「ボクはキミの、そういう不安定でひたむきな希望が好きだよ」
瞬間、ばちんばちんと、頭の中で火花が散る。影が揺れる。柔らかな髪が透ける。ピアノがある。見知らぬ防音用の壁は、どこかの音楽室か。私は椅子に座って自分の左手を見つめている。
「また来てもいいかな」
そう微笑んだあれは、誰だ。狛枝くんが私の手を握る指にそっと力を込めたその瞬間、揺らめく影が息を引き取った。いつもの星空に私は連れ戻される。「ボクは」笑ったその人が、遠い。
「殺されるんだったら、キミがいい」
記憶の底の、隅のあたり。塗り潰された暗闇の中に確かに存在したその箱が、かちりと音を立てたような気がした。