10
ほとんど会話の無い中、私は一日中狛枝くんの隣に居た。日も暮れ始めた頃からこれからどうするのが最善かを考えていたけれど、答えは簡単には出ない。夜になるからと言って勝手に狛枝くんの拘束を解くわけにもいかないし、かといってこんなところに放置して自分はベッドでぬくぬく眠るのも気が引けた。悩んでいる私を見て、狛枝くんはなぜか楽しげだったけれど。
そんな中大広間のモニターに突然現れたモノクマは、ジャバウォック公園に集まるようにと私たちに告げる。映像が途切れた後、縛られたままの状態で転がっている狛枝くんに目線を移すと、彼は目だけで笑って、掠れる声で呟いた。
「ボクに構わず、行ってきたらいいよ」
安堵したのだろうか。良くわからない。だけど私はその言葉を聞くや否や立ち上がっていた。ここにいることを選んだのは自分だ。だけど、だからと言って居心地が良いわけではない。逃げ出したいという気持ちが微塵もなかったかと言うと、即座に首を振ることはできなかったのだ。
長時間同じ姿勢でいたためか、足が痺れてすぐには歩くことはできそうにない私を見つめる狛枝くんの纏わりつくような視線が不快で、私は無理に足を引きずりながら大広間を出た。扉を閉めた瞬間に「いってらっしゃい」と聞こえた気がして、思わず振り向きそうになったけれど、私は喉元まで出かかった返事を飲み込む。見送る彼を、置いていく。
旧館を出ると、ちょうどホテルのロビーから出てきた辺古山さんと出くわした。超高校級の剣道家である彼女はこんな時でも竹刀を背負っている。旧館から出てきたところを目撃されてしまい、言いようのない気まずさに襲われるけれど、彼女はそんな私を気にも留めずに、「ひょっとして狛枝のところに居たのか?」と何てことのないように尋ねた。階段を降りながら、私は頷く。
「道理で今日はを見かけなかったはずだ。食事もあそこで摂っていたのか?」
「うん。狛枝くんに届けるついでに一緒に食べたよ」
「……そうか。私も話を聞いて気になってはいたんだが、が届けてくれていたなら安心だ」
示し合わせるまでもなく、並んでコテージの脇を通り抜け、中央の島に繋がる橋へ向かう。時折足元の砂がじゃり、と小さく音を立てた。灯りの多くない公園までの道のりは、互いの顔すらもよく見えない。辺古山さんは少し低い、けれどよく通る声で、ぽつぽつと私に話を投げかける。
「もお人好しだな。あんな男のことを気遣うなんて、余程でなければ出来ないだろう」
今夜も、星が良く見える。この島で過ごして何日か経っているけれど、未だに天気が崩れることはない。気候が安定しているのだろう。どうやらここは太平洋に浮かぶ島らしい。ソニアさんが読んでくれたパンフレットにそう書いてあったのだ。太平洋のどの辺りなのだろう。そういう今この場では直接関係ないようなことを次々と浮かべて、普段あまり使わない思考を回転させたのは、そうでもしなければ叫びだしそうだったからだ。会話に不自然な間が生まれる。辺古山さんが私の返事を待っているようだったので、私はそこでようやく、「そんなことない」とだけ、呟いた。
「食事を運ぶだけならまだわかる。餓死させるわけにもいかないからな」
辺古山さんは私に何と言ってほしいのだろう。淡々と言葉を重ねていく彼女の抑揚のない声の中に、僅かな歪みがある気がした。だけど、その正体を私は知らない。どうしてこんなことを聞いてくるのか、彼女の言わんとすることを察することもできない。
「だが、は一日中あの男の隣にいた。それも……あんなことがあった部屋で、だ」
長い橋の真ん中で、ふと海面を見下ろした。海の中、暗闇に沈むように星が小さく瞬いている。震える息を吐く。この人は容赦がない。辺古山さんが、立ち止まった私の方に向き直った。「」鋭い、見透かすような目だった。
「何故あの男のためにそこまでするんだ?」
準備していた言葉を吐き出そうと腹に力を込めた。なのに喉の辺りで、それが一回転して体の奥に潜ってしまう。狛枝くんの白い肌や、色素の薄い柔らかな髪の毛、病的なまでに細い体や彼の匂いが、縮こまっていた私の体を殴っていく。何かを叫んでいる。聞き取れなくて目を逸らした。
狛枝くんに何故私がそこまで尽くすのか、固執しているのか。「十神くんだったらそうしたはずだから」そう言おうとして、喉元で引っかかった。本当にそうだろうか。十神くんが生きていたら、確かに彼は狛枝くんを見捨てるようなことはしないだろう。けれど私が狛枝くんの傍にいるのは果たして十神くんの遺志を継いでのことなのか。私を殴った狛枝くんの一つ一つが、目を瞑って耳を塞いで蹲る私を無理に立たせようとする。違うでしょうって、あの声で笑う。
違うでしょう、十神クンなんか関係ない。キミは、そんな子じゃない。
「……なんでだろう」
私は上手な嘘が吐けなかった。嗚咽が漏れる。呑み込めない。
「どうして私は狛枝くんの傍にいるんだろう」
辺古山さんが、私の言葉に目を見開いたのが視界の端で見えた。泣くものかと思っていた。十神くんが死んで、犯人を見つけるまで私は絶対に泣かないと思っていた。あの旧館でそう決めた。でもだけど、花村くんが処刑されて、勿論十神くんは戻ってこなくて、なのに私は、それから少しも泣けなかったのだ。腕とか足をもがれたような喪失感だけがぽっかりと胸に影を落として、私は色んなものが足りなくなった自分の体を、どこか冷静に見下ろしていた。
それくらい私の感覚は薄れて麻痺していたのに、何で今更こんな橋の上で十神くんがいないことでも花村くんを失ったことでもなく、彼のために、涙を流しているのだ。
狛枝くんが触れた指の感覚が、生々しく残っている。
「自分でも、よくわからないよ」
私の言葉に、辺古山さんの顔が歪んだ。どうしてそんな顔をするのだろう。辺古山さんが、静かに口の中で呟いた、「羨ましいな」の言葉を、私は訳もわからず聞いている。