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 このジャバウォック島は六つの小さな島々で構成されている。
 私たちが寝泊まりするコテージやホテルのある島を便宜上一つ目の島と呼ぶことにしていたけれど、今回裁判が行われる場所は、そこから一つ橋を渡った中央の島にあった。裁判を前に集まった私たちの足元に、モノクマの形をした悪趣味な巨大な岩からエスカレーターが伸びてくる。それに乗ってモノクマの口の中に吸い込まれた私たちは、その中がエレベーターになっていることを知った。エレベーターは私たちを乗せて、不安定な音を立てながら地下へと降りていく。ここまで大々的な仕掛けを準備するなんて、私たちにコロシアイを強いている組織はよほど大きなもののようですねとソニアさんが呟いたのを、私は黙って聞いていた。似たようなことを、以前彼も言っていたなと、そういうことを思い出しながら。
 どれくらい地下に潜るのだろう。手の平が汗でべとべとになるのを、スカートのプリーツで拭って誤魔化そうとするけれど、震えて上手くいかなかった。誰もが口を開こうとしないまま箱は最下層まで降りて、止まる。扉が開いて視界に飛び込んできたのは、だだっ広い床に人数分の机が円を描くようにして置かれた、何とも異質な空間だった。動揺する私たちに、議長席に座るモノクマが席につくよう急かす。言われるがまま、それぞれ自分の名前が書いてある机の前に立った。顔をあげると、緊張した面持ちの皆が張りつめた空気の中で唇を引き結んでいた。ぐるりと見回しても、そこには十神くんだけがいない。
 モノクマが裁判の説明をしている声が、随分と遠く感じる。そんな中、ほとんど対角線上に立っている狛枝くんと目が合った。彼は口をぱくぱくとさせて、私に「大丈夫?」と、尋ねているようだった。何故狛枝くんはこんな時に他人を気遣えるのだろう。緊張と恐怖心で凝り固まっていた筋肉が、少しだけ解れていくような気になって、私は無理に笑って、小さく頷いた。狛枝くんは、そんな私に安心したかのように目を伏せて、小さく微笑む。
 やがて学級裁判が始まる。十神くんを殺した犯人は、この中にいる。








 十神くんが殺されたテーブルの下には、暗視スコープと、蛍光塗料の塗られたナイフが落ちていた。犯人は停電を故意に起こし、暗闇の中で殺人を行おうとしたのだろう。予めテーブルの裏に蛍光塗料を塗ったナイフを固定しておき、暗闇の中ナイフを手にしようとしたところ、犯人は暗視スコープをつけて近づいてきた十神くんを刺し殺した。ただ、とんとん拍子で議論が展開されたのは、停電が起きた原因が電気の使いすぎによるものだと断定されたところまでだった。物理的にブレーカーを落としたのならともかく、電力の供給過多は前もって準備さえしておけば誰にでも起こせる。つまり、ここにいる誰もがあの暗闇を作り出すことができたのだ。容疑者を絞ることが出来ない状況に、誰もが言葉を失くす中、その人だけは穏やかだった。



「大丈夫。心配なんていらないよ」



 それは命の懸っているこの状況にはあまりに不釣り合いなほど、温かい声だった。その異様なまでの違和感に、体の端から寒気が広がっていく。その人は、狛枝くんは笑っていた。今、全員の命が懸っているこの状況が楽しくてたまらない、そんな顔だった。



「だって、所詮は『たかが人殺し』だよ? 『希望の象徴』と呼ばれるみんなの敵じゃないって!」



 その言葉に、一斉に皆の視線が彼に注がれる。けれど彼はその中の誰とも目を合わせない。



「こんな所で皆が負けるわけないんだ。この程度の事件なんてただの踏み台だもん」



 狛枝くんは何もない空を見上げて、ゆっくりと両手を広げる。



「だから、最後には希望が勝つ! ボクはそう確信しているんだ!」



 その姿は、まるで真理を語る教祖のようにも、無垢な子供のようにも見えたのだ。








 狛枝くんがそれから吐き出した言葉の数々を、私は正確には覚えていない。この程度の事件はただの踏み台だ、そう言っておきながら、犯人なんか分かるわけがないと同じ口で言う。人を疑って生きるより信じて死にたい。だから皆も諦めよう。言っていることが滅茶苦茶なのだ。その言葉に皆が引きずられてしまう。罪木さんと日寄子ちゃんが家に帰りたいと泣く。花村くんも仲間同士で疑いたくないと呟く。日向くんが宥めようとしても、無駄だった。
 狛枝くんは訴えるように続ける。これだけ議論を重ねても犯人はわからない、手掛かりなんて一つもないと。彼が議論を混乱させようとしているのは明らかだったのに、誰も止めることができなかった。彼女以外は。



「……狛枝くんの居た場所からなら、暗闇の中でもテーブルの上にあった卓上ランプのコードを伝って、テーブル下のナイフを取ることができたよね?」



 千秋ちゃんが吐き出したその一言に、狛枝くんが目を細めた。彼を纏う空気はその瞬間、確かに一変した。隣に立つ左右田くんが息をのむ。 私は、こんな時におかしいかもしれないけど、今朝のことを思い出していた。花村くんと、彼と、旧館の前でばったり出くわしたときのことだ。
 朝日に照らされた彼の髪の毛が綿毛のように見えたことや、肌が透き通っていたこと、睫毛が長かったこと、浮かべた微笑や少しだけ傾いた首の角度だとか、彼を構成する一つ一つに見惚れていて、こんなに綺麗な人が存在するのだと思った。手に触れられた時、どきどきした。心臓が止まるかと思った。だけど同時に懐かしくなった。あんな風に触られたのは初めてだったのに、私は、私を見下ろす狛枝くんをどこかで見たことがあるように思った。 だからこそ今私は彼の瞳に浮かんだ狂気を、彼の口からついて出る言葉の数々を、上手く飲み込むことができずにいる。
 本当は、最初からどこかで違和感を覚えていたはずだった。島に連れてこられた夜、モノクマに「コロシアイをしてもらいます!」と高らかに言われたあのときも、狛枝くんだけは、小さく笑っていたのを私はこの目で見ていたのだから。だけど、どうしても信じられない。私の脳が拒否している。理解しようとするたびに、私を見て微笑んでくれた狛枝くんが頭をよぎる。
 狛枝くんは今、皆に責め立てられている。お前がやったのか。そのための準備ができたのも、日中ここの掃除をしていたお前だけだ。皆が彼を疑うのは当たり前で、なのに、私は苦しくてたまらない。「やめて」出かかった声は喉元で掠れて消える。苦しくなって胸元のネクタイを緩めた。十神くんのにおいが、どうしてだかそこに残っている気がした。彼はもうどこにもいないのに。



「あは」



 そう、どこにもいないのだ。



「あはははははははっ」



 それは気が遠くなるほど長くて、 息ができなくなるほど苦しい声だった。動悸と眩暈が同時に私を襲う。私の指から、目から、十神くんは消えない。私の背中を撫でてくれた狛枝くんだって、そうだ。閉じていた瞳に力を込めて、狛枝くんの顔を見上げた。狛枝くんは笑っていた。充血し、ぎらぎらと光るそれは、いっそ狂気に満ちていた。



「超高校級の才能を持つ皆が、力を合わせて仲間の死という絶望に立ち向かう、ああ、なんて素晴らしくて、美しい光景なんだろうね!」



 十神くん。十神くん。十神くん。何度呼びかけても返事はない。
 何でこんなことになったんだろう。この人は誰だ、そう考える。「キミの大切な指に何かあったら困るから」そう言って私の手を取ったあの人はどこにもいない。



「結論から言うと大正解! そう、すべてボクの仕業だったんだよ!」



 ナイフを準備したのも、停電を起こしたのも電源コードを伝って暗闇の中テーブルの下に移動したのも、全部ボクだ。勿論、犯行予告を出したのも。狛枝くんの声を潰すように、耳の奥で高い金属音が聞こえる。視界が曇ったガラスのように澱んで立っていられない。逃げ出したい。見ないでいたい。覚悟を決めたはずだった。誰が犯人でも、十神くんを殺したその人を私は絶対に許せないと思っていた。彼の死体と対峙してそう決めたのに。だけど、なんで。顔を覆った指の隙間から、狛枝くんと目が合って、息が止まる。狛枝くんはそっと目を細めて私に微笑みかけた。



「掃除のときに、このための準備をしたんだ。だから優しいキミの申し出を断らざるを得なかったんだよ。ごめんねさん」



 吸った息が、うまく肺に取り込めない。十神くんの姿が脳裏に浮かんで消えていく。 彼の厳しい目だとか、私の名前を呼ぶ冷ややかな、でも、どこか優しさを孕んだ声だとか、血だまりの中でほんの少しも動くことのなかった体、それを奪った人が、この中にいた。
 だけど、それが何でよりによって、あなただっていうんだ。



「……なんで、十神くんを殺したの……」



 考えるよりも先に言葉が唇から漏れていた。ともすれば泣き出しそうな、惨めに震えて掠れた声だった。真昼ちゃんが、私の名前を呼ぶ。だけど、もう余所見をしている余裕なんて欠片もなかった。なんで殺したの。そう問いかけながら、違うって、言って。ボクじゃないよって朝のように笑ってほしいと願っている狛枝くんが、目を見開いて笑う。そんな目をしてほしかったわけじゃない、そう言いたくても、もう、言葉が出てこない。それは、引きずり込まれてしまいそうなくらいに強い、負の力を持った瞳だった。
 冷たい手をした人だった。しなやかな細い指を持った人だった。だけど、私の手に触れるその人は春のように笑っていた。



「十神クンは、とても優秀で立派なリーダーだったね。そんな彼が殺される絶望的な状況こそ、希望の象徴と呼ばれるキミらがより輝くための踏み台に相応しい」



 彼は、こんな私を希望と呼ぶ人だった。



「すべてはそのためだったんだよ」



 狛枝くんが、広げた両手のその指の先を、私はただ、瞬きもせずに見つめている。



「ボクは別に、そのためなら自分が死んでも構わなかったんだけどね」



 小首を傾げて笑う狛枝くんは、一体どこを見ていたのだろう。
 私は彼のことを知らな過ぎた。


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