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「さん、大丈夫?」
大広間を出た廊下の隅で膝を抱えて蹲っていたところを呼ばれた。この声は狛枝くんのものだ。それでも私は顔をあげることすら億劫で、膝に顔を埋めたまま小さく頷くことしかできずにいる。喉の奥に異物を押しこめられているような不条理な現実を、まだ受け入れられずにいた。
「気持ち悪い? トイレは……まだ弐大クンが入ってるみたいだから……」
私の隣に膝をついた彼が、丸まった背中を撫でていく。こみあげていた吐き気と、ほとんど溢れかけていた涙が、その温さのおかげで僅かにおさまった。それでも私の瞼の裏には事切れた十神くんがへばりついていて、何度瞬きをしても目をこすっても簡単には消えてくれない。
十神くんは死んだ。腹部から喉までをめった刺しにされて、死んだ。殺されてしまったのだ。私たちの中の誰かに。
まだ私の背中を撫でてくれている狛枝くんに、何か言わなくてはと唇を開きかけたら、乾いた空気が喉に張り付いて窒息しそうになる。彼は、私たちの中に殺人を犯した人がいるわけがないと言った。それを証明するために捜査をするのだと。だけど、本当にそうなのだろうか。そんなことはありえるのだろうか。手足がひりひりと痺れて、感覚が薄くなっていく。死体が発見された旨を伝えるアナウンスや、呆然とする私たちの前に突如として現れたモノクマの笑い声はまだ記憶に新しい。その時、私の背中にあった熱が私の左手に移動した。軽く力をこめられて、手を握られているのだと気が付く。
「無理しないで」
手の甲を包んでくれる狛枝くんの手は、相変わらずひんやりとしていて心地いい。わけもなく懐かしいような気分になる。泣きそうになって、お腹にあった息を全て吐き出した。
「……ボクは日向クンと捜査を続けるから、もう少しここで休んでいたらいいよ」
十神くんを思い出す。私たちを引っ張っていてくれた人を、私が遠慮もなく掴まっていた人を、私は助けられなかった。私たちの中の誰かが彼を殺した。殺人であることはきっと、間違いないのだろう。皆は犯人を捜すために動き回っている。それぞれの役割を全うしようとしている。なのに、どうして彼の存在に縋りついて安心していた私だけが、こんなところで蹲っているのだ。
唇を噛みしめた。息を止めて、顔をあげた。涙は無理矢理体の奥に押し込んだ。泣くべき時ではないと知っていた。覚悟を決めなくては、と思う。生き残るために。
私の手を愛おしいものにでもするように優しく包んでいてくれた狛枝くんは、突然顔をあげた私に驚いたように、少しだけ目を見開いた。
「私も一緒に行く」
私は馬鹿だけど、怖いけど、逃げたいけど、夢だったら今すぐにでも目を覚ましたいし今からでも一時間前に戻れるんだったらやっぱり戻りたいって思うけど、でも、ここで、そういう選択をして現実から目を背けるのは、そんなのは狡い。
足に力が入らなくて無理に立ち上がったら、よろけて転びそうになった。ふらついた私を狛枝くんが肉付きの悪い右腕一本で支える。「すごいな」僅かに震えた声の真意を、私は知らない。
「それでこそ、『希望の象徴』として選ばれたさんだよ」
彼の言葉に答えず、私はモノクマに渡されたファイルを手にして歩き出す。大広間では、罪木さんが遺体の検視を行っていた。事務室の捜査を終えて廊下に出てきた日向くんと合流すると、彼は心配そうに私を見つめる。「もう大丈夫なのか?」そうじゃなければいけないじゃないか。
悲しんで怯えて怖がって、この事件から目を背けるわけにはいかない。言い聞かせるように何度も心の中で呟く。もうすぐ学級裁判が始まるだろう。私たちはそこで十神くんを殺した犯人を見つけ出さなくてはいけない。それができなければ、私たちは犯人だけを残して殺されてしまうのだ。だから、進むしかない。あんなところで、彼の思い出に浸って泣くのはまだ早すぎる。
狛枝くんと日向くんと一緒に、十神くんのコテージへ向かった。ついさっきもドーナツを渡しに来たばかりだったのに、もう、あれから随分と時間が経ってしまったように感じられる。十神くんはもうこの部屋に帰ってくることはない。そう思うと、鼻の奥が痛んだ。
「おい、あれはなんだ?」
日向くんが扉を開けて指差した先を見る。整頓された室内の飾り気のないテーブルの上にそれはあった。「十神白夜へ」と宛名の書かれた茶色い定型の封筒を、私たちは躊躇いなく開く。
『警戒せよ 今晩最初のコロシアイが起きる 必ず誰かが誰かを殺す』
クセのある四角い字が記す文章に、私たちは揃って言葉を失った。
「これって、……はんこう、なんとか文ってやつ……?」
「犯罪予告、だね。……というか脅迫状って言ってもいいかもしれない」
「誰がこんなものを……!」
日向くんが握りしめた手紙に皺が寄る。コロシアイが起きる。彼はそんな脅迫を受けていた。ずしりと重たい鉛が撃ち込まれたようで、私は立っていることすらままならない。
「……なるほど、十神クンはそれで、今夜パーティをやるなんて言い出したんだ。全員が揃って同じ場所に居れば、互いが互いを監視し合う状況が生まれる。そうすれば殺人を起こすこと自体難しいからね」
「……凶器になりそうなものを集めていたのも、そのため?」
「そう。そうすれば誰も殺人を犯せないはずだと考えて……」
悪戯だったとしても、十神くんは万が一の可能性を考えて、出来うる限りの対策をとっていたのだ。誰にもこのことを言わず、一人で抱え込んで。
「ボク達にこの手紙の存在を知られたら、皆が疑心暗鬼になって、取り返しのつかないことになっていた可能性もある。だから誰にも言わなかったんじゃないかな」
十神くんは、ずっと気を張っていたのかもしれない。突然パーティをすると言い出したときも、一緒にパンを食べていたときも、私たちが皆でお菓子を作っていたときも、ドーナツを届けたときも、ずっと。だから私が突然部屋を訪れたとき、どこか硬い表情を浮かべていたのだ。私が呑気に笑ってドーナツなんか持っていたから、彼はきっと安堵したのだろう。
「とにかく、この手紙を送りつけたやつが十神を殺した犯人ってことになるんだよな?」
「……いや、そうとは限らないよ。こんなのは悪戯目的かもしれないし……」
今になってあのとき十神くんに感じた違和感の正体に気が付いた。もっと早くそれを見抜いてしまえるような力があれば良かった。ぎり、と唇を噛みしめる。
「さん」
不意に狛枝くんに声をかけられて彼に目線をやる。「ボク、これからちょっと一人で事件の整理をしたいからさ、日向クンと一緒に捜査を続けてもらえるかな。ほら、そろそろ罪木さんの検死結果も出るだろうし」口早にそう言われて、私は日向くんと顔を見合わせた。
日向くんと二人でコテージを出ると、先に外に出ていた狛枝くんの姿は既になかった。無言で旧館までの道のりを戻っていると、心臓の部分がどくどくと嫌な音を立てていることに気が付く。生温い島の空気が長い髪を撫でていくのが鬱陶しい。
十神くんが死んでいる大広間に、戻らなくてはならない。
彼の死体が発見された後、私は突如として現れたモノクマの話を聞き終わるや否や廊下に飛び出した。そして捜査が始まって、狛枝くんに声をかけられるまでの間ずっと、蹲って瞬きだけを繰り返した。臭いが、ずっと鼻の奥にこびりついているようで、底のない泥水の中に浸かっている気分になって、苦しくてたまらなかった。本当は、今でもそうだ。見えない鎖に囚われているような気分になる。重い。戻りたくない。彼の死体を見る勇気が私にはない。
だけど、そうしているうちに隣を歩く日向くんの横顔が視界に入って、思わず息を呑んだ。
「なぁ」
私の途轍もない真っ黒の色をした悲しみが、滲んで溶けていったようだった、それくらい、彼は酷い顔をしていたのだ。
「十神がさ、お前のこと、話してたよ」
日向くんが歩みを止めないから、私は半歩後ろを追いかけるようにして歩く。大きな背中が丸まって、いつもよりも小さく見える。いくら待っても、彼は続きを言ってはくれなかった。言葉に詰まって、ともすれば泣きだしそうだった。私は彼のそんな姿を見て、十神くんが死んでしまって悲しいのは、私だけじゃないと、そういう当たり前の事実に、ようやく気が付いたのだった。
罪木さんの出した検死結果や、真昼ちゃんが撮ったばかりの写真から書き出した事件発生前の皆の立ち位置を描いた図を日向くんが見聞きしている間に、私は十神くんの傍に行った。本当は十神くんの手に触れたかった、本当は十神くんの顔をもう一度見たかった、けれど臆病な私にはどうしてもそれができなくて、零れそうなった涙を、ただ目を見開いて呑みこんだ。
鉄臭い錆びた臭いの中、彼は自身の流した血に沈むようにそこにいた。大きな体、白いスーツはほとんどが血に染まっている。
ごめん、ごめん、ごめんなさいって、どんなに謝ったって、十神くんはきっと喜ばない。私が何かに気が付いていたらこんな結末にはならなかったのにと後悔したって、彼は生き返ってくれない。なら、私がしなければいけないことは決まっていた。
突然、大広間にあるテレビがぶつんと音を立ててモノクマの姿を映す。裁判が始まる。ぎゅうと、手の平を握りしめる。痛んだ指の感触を、刻み込む。
私がしなければならないことは、犯人を見つけることだ。そして、全部終わったら、そしたら、そうしたら今度こそ泣こう。十神くんのために。だからそれまで、どうか待っていてほしい。
「行くぞ、」
名前を呼ばれて振り向いたら、日向くんが私を見て立っていた。私は大広間を出ていく皆の後ろ姿を追いかける。たとえそこに十神くんがいなくても。私は、そこに確かにあった光をなぞる。