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こんな状況下で浮かれている場合じゃない。それは当然理解している。でも、だけどそれでも、やっぱりあんな風に男の子に手を触られたのも、女の子扱いしてもらえたのも何もかもが初めてだったから、思い出すだけで頬が熱くなって、ふわふわした夢の中にいるような気分になるのだ。「キミの大切な指に何かあったら困るから」だなんていう、少女漫画に出てくる男の子のようですらあった狛枝くんの言葉が不意に蘇って、わあっとベッドにうつ伏せになったまま枕に顔を埋めた。と、その時だった。不意に部屋のチャイムを鳴らされて、心臓が止まりかけた。
「ちゃん、いるー?」
扉を隔てていても良く通るこの声の持ち主は、真昼ちゃんのものだ。私は慌ててベッドから飛び起きると、コテージの外に続く扉を開けた。「ど、どうかした?」どもりながら尋ねると、真昼ちゃんは「あれ? なんか顔赤いよ?」鋭い指摘を入れてくるので、私は余計に慌ててしまう。小首を傾げた彼女の赤茶色のショートカットが、さらさらと南国の風に靡いた。
「や、ちょっとあったかくて……あ、暑くない? 毎日……」
「あ~そうだよね。こう毎日毎日天気が良いと気温もそこそこ上がるよねえ」
どうにか誤魔化せただろうか。真昼ちゃんは微笑みながら頷いて見せた。嘘を吐いてしまったことに後ろめたさを感じながらも、脳裏に未だにこびり付く狛枝くんの残像を、どうにか爪で剥ぐ作業に執心する。
「ところで何か用事だった?」
「あ、そうだった。今から女子だけでお菓子作りしようと思うだけど、ちゃんもどう?」
「お菓子作り!」
思いもよらぬ提案につい背筋を伸ばして反応してしまう。だって、お菓子を愛さない女の子などこの世にいるだろうか。しかも皆でだなんて、想像するだけでわくわくしてしまう。未経験のこととなると何でも楽しそうに思えてしまうのは、私の数少ない長所の一つかもしれない。
「面白そう! やりたい!」
考えるよりも先に口にする頃には、あんなに私を苦しめていた狛枝くんの像はすっかりと消えてしまっていた。
真昼ちゃんは根っからの委員長気質というか、皆を観察してまとめるのが上手いと思う。面倒見の良さが滲み出ているのだ。こうして私が思いつきもしない提案をして、少しでも皆が仲良くなれるように考えてくれているのだろう。彼女の行動力に感心する私に、だけど、真昼ちゃんは淀みなく笑って続けた。
「そう言ってもらえて良かった! 日向がレシピ持ってるって言うからさ、仕方ないから隅っこにいさせてやっても良いかなとは思ってるんだけど、目障りだったら即行で追い出すから言ってね!」
もしかしたら、真昼ちゃんは男子が嫌いなのかもしれない。ここ数日の男子に対するあたりの強さを思うと、私はここまで言われてしまっている日向くんにこっそり同情してしまった。
日向くんが拾ったと言う雑誌の巻末に、スイーツ特集なるものが組んであったことがきっかけで、この会は成立したらしい。
「ヒャッホーみんなでお菓子作りっすー! どれ作るっすか? どれ作るっすか?」
「どれがいいかなあ、あ、これ美味しそう!」
「ふ~ん。わたしは和菓子のほうが好きだけど、まあこれなら食べてあげてもいいかな~」
「オレは食えるならなんでもいいぞ!」
「ふふ、わたくし、こんなに大勢の方とお料理をするのは初めてです!」
「私も……多分そう……だと思うよ」
「私も初めてですぅ~!誘っていただけてそれだけで……それだけで私……!」
「おい、こんなところで泣くな。大丈夫か?」
「うふふっ! これぞらーぶらーぶ、でちゅね!」
なんだかんだ言って、女子が全員集まるとホテルの厨房もぎゅうぎゅうだ。それぞれ可愛らしいエプロンを纏った皆はこうしてみると超高校級も何もない、普通の女子高生のようだった。普段料理なんてしたことのない私は、どれが難しいとか面倒だとか、レシピを見たっていまいち分からないけれど、真昼ちゃんたちはどんどんとページに印をつけていく。
「おいまさか全部作るつもりなのか……?」
真昼ちゃんの言葉通り本当に隅っこで正座をしている日向くんの小さな声と私の思考が、完全にシンクロしてしまった。
「ちゃんはどれが食べたい?」
「えっ私も選んでいいの?」
「勿論、何でも言ってみて!」
「えっえっじゃあ、チーズケーキ! チーズケーキが食べたい!」
ちょうど開いていたページに載っていたベイクドチーズケーキの写真を指差すと、唯吹ちゃんが大きな声で「キャー唯吹も大好きっすチーズケーキ! 特にベイクドはレアとか言う洒落こいたやつと一線を画しているっす! ベイクド以外はチーズケーキじゃねえっす!」と指を天に向けながら叫んでくれた。
「いいねチーズケーキ! じゃあそれも作ろっか!」
ああ、嬉しい、楽しい、どれも美味しそう。どんどんレシピに印が増えていくことには、この際目を瞑ったほうがいいのかもしれない。ちらりと日向くんがいるはずの部屋の隅を見たら、彼は耐えられなくなったのか、こそこそと厨房を出ていく最中だった。その後ろ姿が何だかおかしくて、笑いを堪えながらみんなの方に向き直った、その瞬間に、エプロンの裾を引っ張られた。一瞬、真昼ちゃんかと思ったけれど、彼女はテーブルの向こう側だ。
「あの……」
声をかけられたのと、私が彼女の方を向いたのとはほとんど同時だった。
「あ、七海さん! びっくりした」
私のエプロンの裾を持っていたのは、七海千秋さんだった。確か、超高校級のゲーマー、という才能を持っていたはずだ。いつも眠たげな目をしてぼんやりと立っていた印象の彼女は、今は、しっかりと私を見つめている。
「えっと、千秋でいいよ、さん」
「あ、じゃあ私の方もでいいよ、千秋ちゃん、へへ」
何だか照れくさくって笑ってしまう、千秋ちゃんもそうなのだろうか、私の名前を口の中で反芻させながら胸のあたりにそっと手を添えて微笑む彼女は、途轍もなく可愛らしかった。その瞳が、じぃと私を見つめている。ちょっと見つめすぎなのでは、と思うくらいに。なんだか恥ずかしくて、困ってしまう。
「えっと、どうかした?」
思い切って尋ねると、はっとしたように千秋ちゃんは瞬きをした。
「あ、ええとね、その……」
そこで、彼女は数秒沈黙した。「ごめんね、話すのが、得意じゃなくて」とぼそぼそと呟くその声が、唯吹ちゃんの叫び声でところどころかき消されていく。それからまた思案するように、千秋ちゃんの目がきょろりと動いた。「あの……」偉く歯切れが悪いが、何故か、ほっとするような空気を持った子だ。何故か、何故だったのか、私はこの時確かに、妙な気持ちになったのだ。私はこの感覚を思い出そうと躍起になる。だけど、どれだけ向かい合おうとしてもどうにもならなくて、ただ彼女の伏せた目を縁取る長い睫毛を見ていた。
「……ちゃんは、どういうゲームが好き?」
やっとの思いで出てきた彼女の質問がそれだったから、私はその、ぐるぐると迷うように渦巻いていた気持ちの悪い波を手ずから壊して、なかったことにしてしまう。
千秋ちゃんは、俯いたまま顔をあげなかった。だから、彼女が一体どんな顔をしていたのか私には分からない。「え、えっとねえ」謎の既視感が、音を立てて潰れていくような気がした。
「小さい頃、小麦粉が冒険するゲームが好きだったよ」
私の答えに、 千秋ちゃんはぱっと顔をあげた。
「それ、知ってる」
もしもこの時別の返答をしていたら、何か変わったのだろうか。