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二階にあるレストランを出て外の階段を降りると、右手に今夜のパーティ会場になるホテルの旧館が見える。会場の候補としてモノクマに邪魔をされないような、できるだけ閉ざされた場所を考えたとき、狛枝くんが一番に旧館をあげたのだった。
そこは以前までホテルとして利用されていたおかげで、老朽化していると言っても厨房や会場などは今も問題なく使えるらしい。本当は危険だからと立ち入りが禁止されていたけれど、話を聞きつけたモノミはあっさりと会場としての使用を認めてくれた。勿論長い間使用されていなかったため、掃除が行き届いているわけではない。パーティをするには汚れすぎている旧館の掃除をする人間をくじ引きで決めようと言い出したのもまた、狛枝くんだった。結果言いだしっぺの彼自身がはずれを引いてしまったわけだけれど、彼は曲がりなりにも「超高校級の幸運」という才能を持っているはずなのに、ツイていないんだなと、日向くんにからかわれているのを見て私もつい笑ってしまった。
しかし、こうして外に出て改めて旧館の外観を見てみると、やっぱり一人で掃除するにはどう考えても広すぎるのではないかと思えてくる。いくら男の子だと言っても、狛枝くんは華奢で、他の男子に比べたら健康的には見えない。この暑さもあるし、掃除の途中で倒れてしまうかもしれない。心配になった私はそっと旧館の扉に近づいて、中の気配を窺う。ロッジ風の建物は扉までしっかりしていて、近づいたところで中で何が行われているかは分からなかった。少し考えて、意を決して扉に手をかけた、その瞬間だった。
「あっれ~? さん?」
良く通る明るい声が、背後で私の名を呼んだのだ。思わず悲鳴をあげてしまってから振り向くと、そこには両手いっぱいに食材を抱えた、超高校級の料理人の花村輝々くんがいた。彼は今日、パーティのための料理を準備してくれることになっているのだ。その背後には陽の下で一層青白く見える肌をした狛枝くんが、大きな絨毯を軽々と肩に担いで立っていた。
その荷物からして、二人とも島にあるスーパーに行ってきたところだったのかもしれない。そう思い当たったけれど、それよりも今は、一見貧相な体つきに見える狛枝くんが、何の苦労もなく絨毯を持っているその姿から目が離せなかった。見た目に反して力持ちらしい。そのギャップに顔が熱くなるような気がしたけれど、暑さのせいだと誤魔化したい。
そもそも、彼は曲がりなりにも男の子だ。私が狛枝くんを侮りすぎていただけの話だったのだろう。それでも驚いてなかなか声を出せないでいる私に気が付いたのかそうでないのか、花村くんはずい、と私に顔を近づけた。
「さん、こんなところでどうしたの? あっ、ひょっとしてぼくの料理をする姿が見たくなっちゃった……とか? う~ん、さんだったら大歓迎! むしろ二十四時間つきっきりで隣で見ていてくれてかまわないよ! ……って言いたいところなんだけど、ここの厨房そんなに広くないんだよね~。麻布や青山のぼくの店だったらいくらでも見せてあげられるんだけどな~」
「え、あ、麻布? 青山?」
「ところでさん、今夜のパーティが終わったら、是非君に個人的に食べてもらいたい料理があるんだよね~どう? どう? ほっぺたどころかいろんなものが落ちちゃう超絶品料理、興味ない?」
「超絶品……は……興味ある……! でも、えっと……皆で、じゃなくて?」
「当たり前じゃないか! ぼかぁね! 君だけに! 食べてもらいたいんだよ! 味わってもらいたいんだ! もうあの料理を食べたら君はそのネクタイを解いて『むしろ私を食べて!』って言っちゃうと思うんだよね!」
「私を食べて!?」
「はいはい花村クン、さんが困っているのでこの辺でおしまい」
止まらないどころか益々ヒートアップしていく花村くんを、狛枝くんが笑顔で制した。私は少なからずほっとして彼の方を見る。狛枝くんはまだ何か言いたそうにしている花村くんを嗜めてから、穏やかに目を細めて私を見下ろした。色素の薄い猫っ毛がふわふわと風に揺れて、可愛い、なんて言ったらさすがに、嫌な気分にさせちゃうかもしれないから、思うだけに留めておく。
ぼんやりと見上げていたら、視界の端で花村くんが小さく叫んだ。曰く「この子たちの鮮度が落ちちゃうと悪いから厨房に行くね!」と言うことらしい。
「じゃあねさん! ここで別れるのは残念だけど、また後で会えるのを楽しみにしているよ!」
「うん。料理、楽しみにしてるね!」
手を振りながら、旧館の中に消えていくその小さな後ろ姿を見送る。扉が開くときにちらりと見えたその室内は、昼間だというのに随分薄暗く見えた。
「……ところでさん。何か旧館に用事でもあった?」
「えっ?」
慌てて向き直ると、狛枝くんが唇の端だけで笑って私を見ている。よほど私の顔が間抜けだったのかもしれない。ぼんやりとしていた脳は急に覚醒し、「え、えっと、あの」と言葉を何とか絞り出そうとしている。二人きり。二人きりだ。何故だかぐるぐると巡る思考が、なんとか「掃除」という単語に行き当たって、私はとにかく妙な間があかないように、不審にならないように、言葉がまとまりきる前に口にする。
「あの、掃除、そう、掃除を、ですね。やっぱり狛枝くん一人じゃ大変かなあって、思って……」
「……」
その無言の空気に耐えられず、恐る恐る顔をあげると、狛枝くんは思案を終えたのか、丁度良いタイミングで「あっ、ひょっとして、手伝ってくれるってことかな?」と私に尋ねた。
「うん、その、他にやることもないし、狛枝くんさえ良かったら……」
「ありがとう。さんは優しいんだね!さすが希望ヶ峰学園に選ばれただけのことはあるよ」
「……え?」
会話の流れを思えば不自然に出てきたその名称に、私は首を傾げる。なんで、このタイミングで希望ヶ峰学園の話になるのだろう。けれど、私がその答えに辿り着くよりもずっと早く、狛枝くんは私の両手をそっと掴んだ。心底びっくりした。それは、酷くひんやりとした、血の巡りが悪い、大きな手の平だった。ゆっくりと指が絡められる。感覚の鈍いそれが撫でられる。私はそれを、目を見開いて見つめている。
「でもごめん、さん」
狛枝くんが、あんまりにも綺麗に笑うから、だから。
「ピアノを弾かなくてはいけないキミの大切な指に何かあったら困るから、掃除はボクが一人でやるよ」
私はこの手の感触を、知っていた。そう感じたはずなのに、狛枝くんの掠れた声だとか、優しい瞳だとか、やけに穏やかな表情だとか、何よりも絡められた指の温度の低さを、私は理解しきれず、突然うるさくなった心臓の鼓動を抑えるのに必死になって、その違和感を忘れてしまったのだった。