日向くんは私の髪から手足の指先から垂れ流した言葉の端から、躊躇いもなくよじ登る。いくら伸ばされた手を振り払っても笑って、いくら無視を決め込んでも語りかけて、いくら耳を塞いでもその手を奪い取られる。彼は、そうやって目を細めながら蹲る私を追い詰める。
「」
小さくなった私の目には彼のつま先が映る。薄汚れた赤いスニーカー。見間違うはずがない。あれは小学生の時に彼が履いていたものだ。だけど今の彼がそんなものを履いているはずがなかった。私が深く瞬きをすれば、それは傷一つない革靴にかわる。
何もかもを憎んでいた、陰鬱だった瞳には光が差した。丸まっていた背中には新たな骨が足された。信頼され愛され目をかけられ、輪の中心にいるべき存在として扱われた。この学園での彼は、まるでかつての「創」だった。死ぬ前の、創だった。
誰からも好かれる希望ヶ峰学園の、予備学科の優等生は、だけれど、それで終わるはずがなかったのだ。本科とはっきり差別された予備学科のトップなど、彼は欲してはいなかった。掃き溜めとかわらなかった。分かっていたはずだ。これで彼の夢が叶ったわけではない。病的なまでに希望ヶ峰学園に恋焦がれた日向創の望むものなど、そんなの私が一番分かっていた。
「」と呼ばれたあの放課後に、私は本当は気が付いていたはずだった。だけど気が付かないふりをした。逃げ出したかった。怖かった。何よりも、何よりもあの光の影に見える一筋の闇が、私の首に纏わりついているように思えた。耳元でずっと、なにかを囁かれ続けているような気がした。
私は一年前に日向くんを見捨てた。私の世界から捨てた。罪悪感に苛まれていれば、許されるのではないかとおもった。
七月に入って、彼からのメールはひっきりなしに届いた。異常な数だった。朝、昼休み、放課後、眠る前、彼からの呼び出しに応じる気に私はもうなれなかった。私はその全てを、見ることもせずに、震える指で消した。
逃げても、逃げても無駄だった。
彼は逃げる私の背をどこまでも追った。こんなときに限って警備員は見当たらず、本科の校舎に飛び込んでも、私を追う彼を止める人間はいなかった。もしかしたら日向くんは、そういうことも全部計算して、仕組んでいたのかもしれない。人がいない時間帯を選んで、あるいは何らかの手段で買収して。それか、それか、なんだろう。頭が上手くまわらない。
優秀な人だった。突出した、神に愛された才能はなかったけれど、それでも彼は間違いなく非凡だった。どれだけ走り続けても校内に人の姿はどこにもなく、私はこの世界で彼と私が二人きりになったような錯覚を覚えていた。
「――もうわかってただろ?」
日向くんの声は乾いていた。
誰もいない、いや、正確には使われていない教室の、窓際だ。カーテンはきっちりと閉められ、隙間から外の陽光が僅かに漏れる以外に光源は無く、薄暗い室内に慣れた目が、日向くんの顔を認識しようとする。彼は私の両肩に手を置いていた。僅かな力が込められていた。夏の香りの色濃い季節、半袖の制服から伸びた腕が、行き場を失くして背後のカーテン越しの窓枠に辿りつく。吐き出した息が熱い。閉め切った部屋で、お互いの吐く二酸化炭素がみるみる充満していく。だけど、それだけでこんなに息苦しくなるはずがない。
「俺は本気だったんだ。本気で希望ヶ峰学園に入りたかった。両親には感謝しているよ。こんな俺に大金をかけてくれて」
ぐ、と、肩に乗せられた指に、徐々に力が込められていくのが分かった。声も出なかった。日向くんが私に目を合わせた。短い前髪の下の眉が、悲痛に歪められていた。二年前の彼が、良く見せた表情だった。
「本気だったんだよ」
何度も言わなくても、知っていた。そう、彼は本気だった。本気で才能に焦がれ、本気で自分ではない何者かになろうとした。知っていたけれど、私は目を閉じて耳を塞いで丸くなって知らないふりをしていたのだ。檻に逃げた私に逃げ場なんてなかった。追いかけてきた獣を振り払う術なんて知らなかった。隅っこで小さくなって蹲る私の周囲を懐柔していく彼が、いつか私の手を取って口を開けることを、私はあの春から、予知していたのだ。日向くんが壁を背にした私ににじり寄るように近づく。細められた目が、偽者の「創」を殺す。
「本気だった」
吐き出された言葉が私をあの土手に連れ戻す。私が彼の前に掲げた封筒、それを目を見開いて見つめた日向くん。どうかあなたを見捨てさせて、あなたと心中なんかさせないで。彼は一年半前の私を逃がしてはくれない。
「俺は、俺を捨てて行ったお前のことを、本気で憎んでいたんだよ」
私はあなたが、あなたの執念が、恐ろしい。
無理やりに肩を寄せられて、抱きしめられた。次は首を絞められるのか、腹に刃を突き立てられるのか、私はそれを自分に与えられた罰として受け入れなければならないのだろう。目を閉じた瞬間走馬灯のように蘇る過去の私たちはまるであどけなかった。たくさんいた子供達のなかで、転んだ私を彼だけが振り向いてくれた。「大丈夫?」って、手を差し出してくれた。あの日からあなたは私の世界の中心にいたのだ。今だって。今だって。
じゃあなんで見捨てたんだよ。
頭の上で彼が言う。私は、その表情を、見ることが出来ない。
「さよなら」
日向創は、その日をもって、私の前から姿を消した。