日向くんは私が逃げ込んだ檻の中に、素知らぬ顔で紛れ込んでいた。
「予備学科の生徒としてだけど、この春から希望ヶ峰学園に通えることになったんだ」
私の前でそう微笑む彼の言葉に何も返せない。――声が出ないのだ。
希望ヶ峰学園は今年度、超高校級の才能を持たない一般の生徒を受け入れる「予備学科」を新設していた。経営難による運営資金の調達のためというのは私たち学生の間で噂されていたけれど、希望ヶ峰学園のネームバリューが欲しい学生たちと利害が一致して、相当数の生徒数の確保に成功したらしい。
どうして想像すらしていなかったんだろう。そこに彼がいるかもしれないってことを。彼だったらそのためのお金を準備してもらうことも厭わない。閉ざされた檻を開けるくらいは平気でする。
どうしよう、と思った。私の中には、一年前の彼がこびりついていた。瞬きの一つもできなかった。ただ、どうしよう、とだけ思っていた。
桜の木の間を風が吹く。私の髪を撫でていく。フェンスが隔てている私たちの間には、きっと、もう長いこと、何もないままだった。
「おい、なんだよ。何か言えよ」
日向くんは、黙ったままの私に笑う。そのときうまれた違和感は、私の喉のあたりで引っかかって上手くのみこむことができず、ヘドロのような塊となって、内側の壁にぶら下がっていく。
だけどそれは、確かな光だった。
唐突に現れた、私の良く知る、私の愛した、唯一の日向創。
少しだけ、記憶の中よりも大人びた。背が、伸びた。声が少しだけ低くなった。目尻に面影があった。日向創だった。これは日向くんではなかった。「創」だ。あの頃世界の軸は自分の旋毛を中心としていると信じて疑わなかった純粋な、周囲から愛されることを当然とした全知全能の「創」が、今、私の目の前で笑っている。
それを認識した途端、知らない両手に突き落とされたような気がした。真っ暗な穴の中だった。彼は光だった。光だったはずだった。なのにどうして私は諸手をあげて喜べないんだろう。この一年で、私が彼の傍にいなかった一年で、彼が昔の彼に戻ったとどうして信じることができなかったんだろう。
「創」は黙ったままの私に、眉尻を下げて笑う。あのころみたいに。小学生の「創」のように。私の全てを魅了する、世界の神様だった人。「おい、どうしたんだよ?」。細められた瞳の奥に、彼の狂気が見えた気がして、恐ろしかった。
「お前は、相変わらずマイペースなやつだな」
だから、私の平穏はたったの一年で終わってしまった、ということになる。
私の在籍する超高校級の才能を持った生徒を集めた本科と、日向くんたち一般生徒が通う予備学科は、校舎が違う。広大な敷地面積を持つ希望ヶ峰学園は数棟の巨大な校舎を所有していて、予備学科生が本科の生徒と接点を持つことは難しかった。彼らには進入禁止区域というものが設けられていたのだ。本科の校舎などその最たる例だ。さらに、本学科の生徒に与えられた特権として敷地内での寮生活が私たちに認められている以上、外部から通う予備学科に過ぎない日向くんと私が偶然校内で出会う確率など、そう高くはない。
だというのに、日向くん、いや、「創」の名は校舎の垣根を越えて轟いた。模試でトップクラスの成績を叩きだし、スポーツは全てそつなくこなした。勿論、そのどれもが超高校級の才能を持った生徒たちには届かないものであったけれど、万遍なく優秀な成績を残す日向創は、いつの間にか本科生や教員の間で名が知られるようになっていた。――厳密に言えば、私が彼の存在感に過敏に反応していただけに過ぎないのかもしれない。だけど彼が希望ヶ峰学園という箱庭にその色を落としつづけていたのは、間違いなかった。私はそれに、息苦しさを覚えていた。
彼は希望ヶ峰学園に「日向創」という存在を植え付けることに、間違いなく成功していた。彼は優秀だった。人に取り入る術を理解していた。それは彼が小学生の時分から会得していたもので、逆に言うと、中学生になってからは自身で殺していた力でもあった。
教室の隅でつまらなそうに窓の外を眺めていた日向くんは、周りの誰もが気が付かないほどの速度で緩やかに死んでいった。彼を彼たらしめていたものはその皮膚の外側に滲出して、残された彼は「才能」に固執する呪われた何かだった。完全に壊れてしまった彼を、私は手を合わせて供養したのだ。あの土手に置いてきた。やっと逃げられたのに。消えてしまった日向創に背を向ける大義名分を手に入れたのに。私は私にできることを最後まで精一杯やりましたと、気分の良いままでいられたのに、どうして今になって、こんなことになっているんだろう。
日向創が私を両手で包み込んでいる。
梅雨の季節になった。予備学科生は本科の校舎に入ることはできないから、彼が私に用事があるときは、予備学科の敷地に私が出向くしかない。呼び出しに応じていたのは彼に負い目があったからだし、同時に彼から目を逸らしてはいけないと、本能で察していたからだった。
呼び出しの回数は、二日に一度のときもあれば、十日に一度のときもあった。この日は、呼び出されなかった最長記録を更新し続けていた十六日目の放課後だった。
「」
予備学科の巨大な校舎を背景に、おもむろに日向くんが口にする。そういえば私は春の、入学式の日から、彼に名前を呼ばれることは無かったかもしれないと、ぼんやりと思った。
日向くんは夢の第一歩を叶えた。ずっと憧れていた希望ヶ峰学園に入学した。そして彼の顔と名前は徐々に希望ヶ峰学園に浸透していった。それは、私の築いてきた一年を足元から削り取られるような、容赦なく泥水を注ぎ込まれているような、得体の知れない不安感を私に抱かせていた。十分すぎるほどに。
「」という単語を吐き出した日向くんがまっすぐに私を見つめている。彼の頭の後ろ、彼が君臨する予備学科の校舎の向こうに沈んでいく太陽が眩しかった。見る人が見たらそれは後光のようだったと言うかもしれない。だけど、ちがうのだ。屈託のない笑顔だった。小学生の頃、一緒に日が落ちる直前まで公園で走り回っていた、私の愛しい創。私の創。私だけの創。
「――希望ヶ峰は、やっぱり俺の想像していた通りの世界だったよ」
あなたは誰だ。