「特別な人になりたかった」とうわ言のように吐き出す彼を煩わしいと思ったことなどただの一度も無かったと言ったら、それは嘘だ。
 緩やかな傾斜の堤防は先週整備されたおかげできれいに草が刈られているから、座るのはそれほど苦ではない。これが冬場や、夏の盛りだと最悪なのだ。雪が積もらない地域だと言ったって真冬の風はスカートから出た足に容赦ないし、夏は何か飲み物を持っていなければ死につながりかねないほどに太陽が照る。だから、今日はまだましだ。草が刈られているから虫もそこまでいないし、なんていったって夏でも冬の只中でもない。だから、まだいい。
 終業式を終えた、三月の下旬。私たちはそこにいた。互いの家の傍を流れる川の堤防。麗らかな春の午後というにはまだ肌寒く、コートを着ていても冷える。彼と同じ高校の制服を着て、鞄を足元に置いた私は、私の視界の先で頭を抱えて座り込む幼馴染の後ろ姿をただ見つめていた。
 今日が特別なわけではない。先週も先月も一年前も、私たちはこうしていた。携帯が鳴れば、私はここで彼に付き合う。そういう習慣になっている。彼からの着信音は特別で、私はその音が聞こえる瞬間携帯に飛びつく。そういう、習性になっている。そこで過ごすのが、例えどれほど無為な時間であっても。
 日向創という私の幼馴染は、どこにでもよくいる、平凡な男子高校生だ。
 いや、平凡というには少し彼は優秀すぎるかもしれない。学年でトップの成績を誇り、スポーツは何をやらせてもすべてそつなくこなす。このそつなく、というのがまた彼にとっては問題で、何か一つのことに特別長けているわけではないという事実が彼の変形した自尊心を傷つけるのだ。彼は特別になりたかった。トップの成績も、傍から見れば抜群の運動神経も、かつて彼が持っていたリーダーシップも、彼にとっては必要なかった。だから彼は腐っている。私と彼の家からちょうど半分の距離にある川の堤防で、今日も世界を恨んでいる。
 彼にはそれらの全てと引き換えにしても手に入れたいものがあったから。



「いくら勉強したって、努力したって、一握りの天才には敵わない。俺のやっていることは無駄なんだよ。生まれ落ちた時点で決まっているっていうなら、どうして俺はそっち側に行けなかったんだろう」



 生気のなくなった瞳が、かつて私の前で燦然と輝き続けた日向創とは似ても似つかず、私は目を逸らさずにはいられない。彼は才能を欲していた。特別な才能を持った高校生しか入ることの許されない希望ヶ峰学園に焦がれていた。子供のころからそうだった。テレビで特集される希望ヶ峰学園、卒業生の活躍、彼は目を輝かせて私に話をしてくれた。自分も希望ヶ峰学園に入るのだ。そして世界で活躍するような、立派な人間になる。だけど彼は良くも悪くも、人より優秀なだけの平凡な子供に過ぎなかった。



「日向くん」



 恨みつらみを吐き出し続けるやつれた幼馴染を、私は中学に入ったころから下の名前ではなく、そう呼ぶようになった。理由なんて、一つだ。
 冬が終わる。三月の下旬。私たちは都内の、どこにでもあるような進学校の二年生になる。彼はそう信じている。通学用の鞄の中から一通の封筒を取り出した。それが震えていたのは、指先か、堤防に吹く風によるものか。印字された字を日向くんが認めた。それが分かったのは、彼が目を見開いて、息をのんだからだ。「――」。彼も、もう私をとは呼ばない。冬の空気に乾いた彼の唇が戦慄いた。もう戻れなかった。



「私、春から希望ヶ峰学園に通うことになったの」



 限界まで見開かれた彼の瞳の中に、感情を探せない。








「超高校級の幸運?」



 秋口に突然届いた一通の手紙によると、私は全国の高校生から無作為に抽選で選ばれたたった一人の人間であるらしい。抽選を出せばあたる。親の代わりに宝くじを買えばそれなりの額が当選する。今までで一番大きな当たりはデパートで当てた海外旅行のチケットだったけれど、今回のこれはそれ以上の幸運なのだろう。私よりも大喜びしたのは親の方だった。私は自分の意思に関係なく春から希望ヶ峰学園に通うことが決められたけれど、もしも選べたとしても、悩みはしてもきっと二つ返事で受け入れた。
 私は日向くんと違って希望ヶ峰学園のブランドに特別な興味はない。自分とは関係ない世界の、一握りの天才が通う学校だときちんと理解して線を引いていたし、特別な憧憬もなかった。それどころか彼がそこに並々ならぬ執着を見せていたせいで、細やかな嫌悪感すら抱いていたくらいだ。書類を埋めながら、彼のことを考える。日向創。私のたったひとりの幼馴染み。
 年を重ねる毎に己の立ち位置を理解し始めた彼は、小さい頃とは正反対のじめじめとした湿気を放つ男子高校生へと成長した。小学生の頃は教室の中心にいたはずの彼が、中学生になる頃には物静かな、どこか冷めた目をした少年になる様を間近で眺めなければいけなかった私の苦しみを、一体誰が理解してくれると言うのだろう。
 あれは周りの人間を見下す目だった。それが理解できないほどクラスメイトも鈍くはない。彼が私を「」と呼ぶようになったのもそのころで、私はその他大勢の級友の群れから外れる狼の真似事をする日向くんを、視界の端で見つめていた。彼は一人になった。一人になりながらも、私に縋った。同じ高校を受験するように勧め、登下校を共にするわけでもないのに同じ時間の電車の、同じ車両に乗り、時折思い出したように私をこの堤防に呼び寄せる。才能に執着し、諦められず、周囲に馬鹿にされながらも、彼は他人を見下し続ける。



「俺はこんなところにいるべき人間じゃないはずなんだ。何か俺にも気づかない才能がきっとあるに違いない、そうだろ」



 嫌いだったわけじゃない。私はかつて日向創が好きだったことがある。こうなる前の、夢を夢だと知らずにいた日向創を、私は愛していた。だから私は誰もが見捨てた日向創の唯一最後の理解者であろうとした。彼の膨れ上がった黒は少し触れただけで指先を溶かす。あれは最早、負の塊だ。だから誰も触れようとしない、傍に行こうとしない、適度な距離を保ったまま檻の中に入れられた珍獣を眺めるかのような視線を向けられていることを、日向くんは気が付かない。
 私は、本当はもうずっと前から彼の隣から逃げ出したくてたまらなかった。
 見ていられなかった。だけど同時に、腐り落ちて行く日向創を救えることはないって知っていた。だから私は、希望ヶ峰学園の中に逃げることを決めたのだ。 好きだった人が吐き出す泥を、私はもうみたくなかった。








 私が「第七十六期生の超高校級の幸運」として希望ヶ峰学園での生活を始めてから、一年が経った。
 酷く充実した日々だった。それぞれ独自の才能を持った同級生たちと違って「幸運」なんていうのは分かりやすい才能では決してなかったけれど、誰もがクラスメイトとして対等に接してくれた。授業も研究も実験も、全てが楽しかった。色づいた気がしたのだ。私の頭の向こうにそれまでの日々は流れていて、この皮膚からも、爪からも、「彼」は剥がれ落ちていた。なんて平穏なんだろう。ここには澱んだ目をした彼がいない。私を呪う彼がいない。――そんなことを思っていたせいなのだろうか。
 春だった。校庭を桜並木が彩って、やわい風がいくつかの花弁を散らせていた。新入生で埋め尽くされる隣の校庭。フェンスの向こうで、誰かが呼んだ。その声を、私は知っていた。



先輩」



 日向創。
 真新しい希望ヶ峰学園の予備学科の制服に身を包んだ彼は、彼がとうに失ったはずの朗らかな笑顔を浮かべて、息を止めた私を見つめていた。
 


「――なんてな?」



 殴られた気がしたなんて言ったら、日向くんは、笑うのだろうか。
 私にはそれがわからなかった。