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 外に出なければ。どれだけみっともなくとも。醜くとも。生に縋りつかねば。私を待ってくれている人がいる。億を超える国民が、私の帰りを待っている。救うのだ。私が救わなくてはならないのだ。
 例え私のトリックを見破られても、投票の結果犯人だと決定づけられても、それでも、私は諦めるわけにはいかない。
 私の動機ビデオを見た皆は、予想通りに狼狽していた。自分たちが生き残るよりも、総理大臣である私が生き延びるべきだと。その方が結果的に多くの命を救うことができるはずだと。
 私が犯人とバレてしまった以上、私が生き延びるためには皆を使うしかない。情に訴えて、モノクマを足止めするための時間稼ぎとして利用し、その間にどこかにあるはずの出口を探し出して脱出するのだ。それしかない。
 じり、と後ずさりをした瞬間、私は自分に真っ直ぐに注がれた視線に気が付いた。ぞっとした。神代君は、たった一人、熱に浮かされた皆の中で、酷く温度の低い目をしていたのだ。まるで、この裁判の行く末など自分には一切関係のないことだとでもいうかのように。私の背後の何かを、見据える様に。
 どれくらいそうして見つめ合っていただろう。私を庇おうとする耳触りのいい皆の声は確かに届いていたはずなのに、その瞳に縫いとめられたように、足が動かなかった。
 やがて神代君が、私から目を逸らした。



「モノクマ」



 手を挙げモノクマを呼ぶ彼に、一斉に注目が集まる。誰かの汗ばんだ手の感触が、不意に蘇った。



「ん? なあに? 神代クン」



 感情の読めない目をする人だった。抑揚が元々ないから、私は、こんな時ですら彼が何を考えているのかが分からない。理解させてもらえない。



「投票を放棄した俺を、先に処刑してくれないか」



 だからその言葉を聞いた瞬間、自分がこれからしようとしていた全てのことが、泡が弾ける様に消えた気がした。
 美しい横顔だった。睫毛が長く、肉付きが薄い。表情の変化に乏しいのに、花に触れているときは少しだけ雰囲気が和らぐ人だった。彼は、今も泰然とそこに立つ。



「お、おい……何言ってんだよ」



 青ざめ、そう漏らしたのは百田君だ。キーボ君が、ボードに浮かんだ投票数を示すマークを数えはじめる。



「本当だ……一人足りません……」



 予想外であったのだろう。あの王馬君ですら、目を見開く。ざわめく裁判場で、たった一人、彼だけが平生を保っていた。いや、たった一人と言うと語弊があるのかもしれない。
 じっと彼と見つめ合っていたモノクマは、やがて小首を傾げた。



「……ああ、そうだね。忘れてたよ。自殺みたいな真似は盛り上がらないからやめてほしいんだけど、まあ、キミは仕方ないか」

「仕方ないってどういうことですか!」



 モノクマの台詞に被せるように茶柱さんが叫ぶ。握りしめられた拳が遠目から見ても分かるほどに戦慄いているが、モノクマは、「いや、どうもこうも、初めからそういう約束なんだよね」とそれ以上質問に答えようとはしない。
 神代君の横顔は、男性とは思えないほど、凛としていた。唯一真宮寺君が納得したように「ああ、美しいネ……愛があったんだネ……!」と呟く傍で、石動さんが言葉少なに震えている姿を、キーボくんが瞬きもせずに見つめている。最原君が呆気にとられている。春川さんも、言葉がない。
 私はどうだったのだろう。客観視ができない。今のうちに逃げればよかった。そうすれば少しは時間が稼げたはずだった。私は彼に誰かの面影を感じていながらも、苦手意識を持っていたのだ。特別な情なんかなかったはずだ。なのに、どうして今私は彼に手を伸ばしたいと思うのか。
 約束。仕方ない。モノクマが吐きだした意味深な言葉は私の皮膚に引っかかって傷を作る。私がどれだけ彼の横顔を見つめていても、神代君は一瞥すらもしてはくれなかった。
 何て勝手な人なのだろう。
 モノクマが高らかに手をあげる。そのポーズを私はここではないどこかで見たことがあるような気がしている。どこか急いたような一連の流れに、何かの思惑を感じずにはいられない。だけどそれに対する正答を叩きだすことのできる奇才がどこにいよう。
 神代君、もう、声が出ない。



「それでは東条さんより一足先に行ってみましょう! 超高校級の植物学者、神代昴クンのおしおきです!」



 弾かれたように、私ではない誰かが「やめて」と叫んだ。だけどそれが誰の声だったのか、私にはもう分からない。
 突如として、神代君の首に輪が回される。証言台から引きずり下ろされた彼は、切り取られたような野山に出る。蝉の音がする、深い緑の中に放り出される。オレンジ色のつぼみを持つ花が彼の周りに群生している。あれは、ヤブカンゾウだ。頭を垂れるヤブカンゾウが徐々に彼に迫り寄る。殴られたような気がした。ああ、そうだ私はあの山を、手を繋いで、走ったことがある。私よりも背の高い誰かと。神代、神代くん、神代君、誰の叫びなのか、もう分からない。
 神代君は、野山の中で居住まいを正した。そこに私は誰かを見た。少しずつ、ヤブカンゾウは巨大化する。彼の背丈を超える。すくすくと伸びていく。花が夏の日差しを浴びて、一斉に開く。
 彼は花に囲まれたまま、乱れたその髪を結び直す。
 私はあの日を思い出した。中学に通うその人のテストが近いと知っていながらも、無理を言って連れ出した、あの夏の日を。あの時もあの人は――「お前」は、目の前で今と同じことをした。汗ばんだ肌を拭って、目を伏せ、その髪を結っていた。
 その横顔は、何よりも、誰よりも美しかった。だから、嘘だと思った。
 ただ、ただ選んでほしかったのだ。
 いや、選んでくれると知っていた。だから我儘を言ったのだ。自分に付き合ってくれる彼女が何よりも大切だった。自分を選んでくれなかった人たちばかりだったから。
 無意識に首を振る。大粒の涙が足に落ちる。胸元のブラウスを掴んだ手袋の下の手のひらが、焼けるように疼く。
 ずっと特別だった。だから自由になってほしかった。あの家から解放してやりたかった。栗原のように命を落とすその前に。
 ああ、そうだよ、「――東条」お前のことだ。



「自由になってほしくて逃げたのに」



 言葉を紡ぐ喉が震える。



「こんなところにまでついてこいだなんて、言ってない」



 呟いた瞬間、その人は神代昴の顔で、確かに笑った。








 目の前で巨大なヤブカンゾウが口を開けている。きっとエントランスの前では、今もこの花は咲いているのだろう。枯れることなく、最後の日がおわるまで。
 伸びた茎が首に絡みつく。巨大なヤブカンゾウが花びらを広げこの体を飲み込んでいく。踵から離れ、つま先が浮く。



「東条!」



 「神代」ではなく、本当の名前を呼ばれた。悲鳴が聞こえる。あの悲鳴が、彼のものでないならばそれでいい。
 あなたを迎えに行くのが、私の役目だ。坊ちゃん。
 たとえ意地っ張りなあなたになんと言われても。








「おはようございます。坊ちゃん」



 目が覚めると、その人はまるで当然のような顔で自分を待っていた。俺よりも先に「死んだ」彼女は、室内の暗さも相まって酷く顔色が悪い。
 昔からうちに雇われているお手伝いの女性が産んだ俺より六つ年上の彼女は、まだ子供の時分、俺の出産に立ち会ったと言う。真っ赤な肌をした奇跡のような赤子だったと恥ずかしげもなく口にするその横顔に、それは最早呪いに似ているのではないかと思ったことは一度や二度ではない。
 俺を産んだ母が、産後まもなく他界したせいもあるのだろう。彼女も、彼女の母も、俺を大層可愛がってくれた。だから寂しさは半分に減った。
 坊ちゃん、不意にそう呟いた彼女に、目を合わせる。



「……私はあの東条さんほどに、優秀ですかね」



 泣きそうな顔で言うものだから、まさかと首を振り、嘯いた。



「あれくらいに優秀だったら良かったな」



 あれは、偶然お前と同じ名前の女になってしまっただけに過ぎない。だってお前は、俺のシャツの染み抜きに失敗してしまうような出来の悪いメイドだったのだから。そう続けた俺に、東条は初めて、俺の頭をぺちりと叩いた。
 だから、お前こそあの「神代」とか言う男は何なんだという問いが、喉で引っかかってしまう。あれが実は俺の父が作り上げ、若い頃の自身をモデルにした男らしいと言うことは、数カ月後に知ることになるわけだが。



「……ばれないと、思ったんだけどな」

「旦那様は、坊ちゃんが思っているほどあなたに無関心ではないのですよ」



 普段の彼女の口調よりもどこか重く、神妙にも響いたそれに、俺はその瞳を見た。



「だから坊ちゃんは、旦那様の元へ行かなくてはなりません」



 俺の手を取るその手のひらは、十二年前のあの夏の日のように、しっとりと汗ばんで、確かな熱を帯びている。
 散々迷惑をかけたことへの謝罪でもしろと言うのか、そう言いかけたが、東条のその表情が切羽詰まっていることに気が付いた。父に何かあったのか、一瞬腹の底が冷たく冷えた心地がする。真っ直ぐに俺を見つめる彼女の瞳は、それを肯定しているようにも思えた。
 一時の反抗が、一生の後悔にも成り得るのだろう。それを彼女は危惧している。強張った顔は、どこか泣き出す寸前にも見えた。
 彼女が呪われてから、二十年が経つ。二十六になった彼女は、もう俺の傍で生きなくてもいいと気が付くべきだった。自由に生き、好きなことを学び、好きな場所へ出かけ、好きな相手と共にいて然るべきだったのに。だけど俺が思っているよりも、東条への呪いは強力だったらしい。あんな仮想空間にまで俺を追いかけてくるくらいなのだから。
 だから、もう俺は諦める。東条は、きっと俺から一生離れない。ならば傍に居ればいい。一生呪われ続けていればいい。いや、違う、俺は、傍に居てほしいのだ。捕まえていてほしい。俺が逃げることがないように。何かに立ち向かうとき、虚勢を張れるように。
 東条の傍にいるときだけ、俺は強くなれたから。
 握られた手に力を込めた瞬間、東条が、小さく微笑んだ。








 作り物の俺たちが過ごしたあの世界では、これから先も誰かが確かに死んでいく。


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