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「見つけたわ! 二人が一緒にいてくれるなんて、ラッキーね!」
「ぎゃっ!」
驚いた石動が階段を踏み外したので慌てて体を支えてやる。小柄な彼女で助かった。お礼を言う彼女にモノファニーが何か勘違いしたような曖昧な笑みを浮かべるので、俺は眉を寄せながらそれに用件を尋ねた。星の研究教室は、目と鼻の先だ。
「そうそう大事な話があったの。これから話すことはオフレコでお願いしたいんだけど、特に石動さんは大丈夫かしら?」
「え? なに? 私? オフレコってなんで?」
「先方からちょっとね……。アタイもこれはちょっとアウトじゃないのかしらとは思うんだけど、長いものには巻かれなきゃいけないでしょう? そうじゃないとこの業界、生きていけないもの……」
「話が読めないんだけど……」
俺の代わりに首を傾げてくれる石動は、眉を思い切り寄せながらモノファニーを見つめている。オフレコ、先方、気になる単語を抽出したところで、何も浮かびはしない。モノファニーは両手を口元に当てながら、身を縮めるような素振りをした。僅かに落とされた声のトーンに、耳をそばだてる。
しかし直後に発せられたその言葉は、全く持って予想外のものだった。
「石動さん、パッド持ってるでしょ? あれを、神代クンに渡してあげてほしいの」
「え? パッドなら神代くんも持ってるよね? これでしょ?」
石動は手に持っていたパッドをモノファニーの前に示す。モノクマによって、先ほど全員に配られたそれには今回の事件の概要が記載されている。しかしモノファニーはふるふると首を振った。嫌な予感はしていたのだ。そっちじゃないわ、その声が、確かに俺を追いつめる。
思い当たる節があったのか、石動は分かりやすく息を飲んで見せた。動機ビデオの入ったパッドのことをモノファニーが言っているのだと、彼女も察したのだろう。同時にその顔色で、理解してしまった。彼女は俺の動機ビデオを持っている。俺が彼女のものを持っているように。つまり、俺たちは知らずに互いの動機ビデオを持っていたのだ。 思い返すのは、生々しい映像だ。趣味が悪いと、思ったのだ。
石動ミクの動機ビデオ。部屋に置いてあったそれに迂闊に触ったのが間違いだった。勝手に再生を始めたそれを止めることができなかった。その中で石動は、彼女と良く似た少女と二人で手を繋いで笑っていた。
揃いのワンピースを着て、揃いのヘアゴムをつけて、二人で刺繍絵を作っていた写真もある。だから、双子か、もしくは年の近い姉妹だと思った。最後に残されたのは、血で真っ赤に染まった刺繍絵だけだった。
「石動さんが持っているあれを神代クンは見なくちゃいけないのよ。そういう約束になっているの」
「…………」
「石動さんが断るのなら、アタイたちがいかなる手段を持ってもそれを奪うことになるわ。でも、手荒な真似はしたくないの。石動さん、持ち歩いているわよね? 部屋になかったもの」
モノファニーの台詞に、石動が目を泳がせる。
王馬によって勝手に部屋からパッドを持ち去られたのは昨日のことだ。同じことがあってはいけないと考えた石動があれを持ち歩いているというのは合点がいく。恐らく彼女がいつも肩から下げているポシェットに入っているのだろう。不自然な重量感が、そこにある。
「でも……あれは……」
躊躇うような素振りに、よほどのものが映っていたのだろうと考える。石動は震える手でポシェットをおさえた。モノファニーが彼女の仕草をずっと見守っている。モノファニーの言葉の選び方からして、手段を選ぶ気はないのだろう。俺がその動機パッドを見ることが「先方」との約束であるならば、諦めるという選択肢はモノファニーにはない。
じり、とモノファニーが石動に近寄れば、同じだけの距離を石動は取る。階段の踊り場でそうしていれば、必然と石動の踵は段差から降りることになる。今度は、彼女は踏み外したりはしなかった。しかし俺は、その時石動が段差を確かめるために足元に注意を向けたその一瞬をついて、彼女のポシェットからパッドを抜き取った。
「あ」
はっとしたような目を向けたのは、石動だけではない。
俺は驚愕の表情を浮かべているモノファニーに派手な柄のそれを見せると、「見るのは俺だけでいいんだよな」と呟く。つまり、交換する必要はないのかと問うたのだ。モノファニーはすぐにそれを察して、小さく頷いた。
「だ、駄目だよ、神代くん、それは」
「いいよ。見るまで離してくれなそうだし、俺のために石動が怪我されても嫌だし」
石動の顔はそれでも曇ったままだった。よほどの映像がここに残されているのか。そう思うと短絡的なことをしてしまっただろうかと一瞬だけ後悔の念を覚えるが、もう後戻りはできない。俺はモノファニーに必ずこれを見ることを約束して、今昇ってきたばかりの階段を下りるために方向を変える。
「神代くん」
心配そうな顔を見せる石動の肩に、そっと触れた。華奢な体だった。
「ありがとう」
すれ違いざまに呟いた瞬間、彼女の目が見開かれる。
石動が、俺に動画を見せまいと気遣ってくれたことが嬉しかった。あまりにも感情表現が豊かな彼女は苦手なタイプだと思っていたけれど、そう思い込んで距離を取っていた自分が恥ずかしい。ここで過ごした日々が走馬灯のように蘇る。階段を一つ下りる度、誰かの声が、泡が弾ける様に浮かんで消える。
面倒だと思っていた。人と関わるのが煩わしかった。
ゴン太と虫を探した。どこにも見つけることはできなかったけれど、それなりに楽しかった。誰かと共に草木を観察することなんて、ずっとなかったから。茶柱に薔薇がきれいだと言ってもらえたのも気恥ずかしかった。真宮寺とはもう少し落ち着いた場所でだったら、もっと互いの研究論を交えて会話ができたような気がする。他の連中も、きっと話せばいい奴だった。もっと歩み寄ればよかった。
だけど、どうして俺は今そんなことを、何かの確信を持って思うのだろう。手にしたパッドがずしりと重い。そう、これは約束だ。最初から、こういう約束だった。
だから、もう終わりだ。
俺はまるで何かを刷り込まれたように、強く思う。
自分に与えられた部屋に戻って、石動から受け取ったパッドを開く。どうかあいつは、生き延びてくれればいい。あの動機ビデオを見ることもなく、天真爛漫な彼女のままに。
神代昴の動機ビデオ。
液晶に浮かんだ己の名に、暗転した画面に、やがて映ったその映像に、俺は、あの夏に還る。
そこに映っていたのは。
瞬間脳裏に鮮烈に浮かんだ。ライトを浴びたときのようにちかちかと瞬く眼前に、俺は思わず手を伸ばす。
そこに居た小さな赤ん坊は、俺に眠った全ての記憶を呼び起こした。
――星を殺した犯人は、とある方法でその遺体を体育館に設置されたピラニアが蠢く水槽に入れた。そしてそれは翌朝、制限時間が過ぎ去ると同時に、仕切りに使われていたガラスと共に巨大水槽の中へと落ちることになる。トリックは完璧だった。犯人がミスを犯しさえしなければ。
犯人は、物証を残してしまった。星の研究教室の窓から体育館へと遺体を直接運ぶ際、利用した道具や摩擦熱で擦り切れた手袋の切れ端を、プールの中へ落としてしまったのだ。夜間の利用が禁止されているプールは、元々水深が深い設計になっていたため安全を考慮された結果水面が低くなっており、道具を使ってもそれらを回収することが叶わなかった。けれど、それがなければ最原だってきっと犯人が誰かなんていう確証は持てなかったはずだ。探偵としての直感があったとしても。
黒い手袋の切れ端、それと同じものを身につけていたのは、一人だけだった。
かくして、投票の結果裁判は終わる。
そこに立つ美しい女性を、俺は視界の中央に据えている。もう、ずっと昔から。
栗原の葬儀から一週間が経ち、坊ちゃんは姿を消しました。
小学生の頃よりは人付き合いの仕方を学んだとは言え、頼ることのできる友人も限られているような方です。大学に行っていなければ、私たちに彼を探すための手掛かりはありませんでした。探索を困難にするためか、スマホも部屋に置いたまま、持って行ったのは彼がいつも使っていた鞄だけ。彼が戻らないことを知りながら、私は今日も彼のベッドの上に部屋着を畳む。
最初はすぐに戻るだろうと相手にしていらっしゃらなかった旦那様も、坊ちゃんと連絡がつかないまま一カ月が経った時点で重い腰をあげられました。旦那様はあまり大っぴらにはしたくはないと警察への相談を避け、探偵を雇われました。さすが、この国が誇る大企業の社長と懇意にしているだけはあります。彼らは早々に坊ちゃんを見つけ出しました。坊ちゃんは都内の某所にあるビルに出入りしているところを目撃されたのでした。
見つけた場合はまず本人には声をかけずにこちらに報告するようにと指示を出していた旦那様は、その晩私を呼び出しました。二枚の写真を磨き上げられたテーブルに並べると、「息子で間違いないだろうか」と重々しく尋ねられます。
一枚は、少し距離を取って撮影されたものでした。自動ドアに向かってビルの中に入ろうとしているその輪郭や姿勢は、私が二十年余りをお仕えしてきた彼に他なりません。
肉付きの薄い身体つきは、しかし記憶よりもさらに痩せているように見えました。もう一枚の、比較的顔が大きく映っているものを確認せずとも分かります。拡大したのか、粒子の荒いそれを一瞥すると、私は安心感で泣きたくなるのを堪えながら、深く頷きました。
「はい。間違いはないかと」
旦那様は、私の言葉に安堵の表情を浮かべると思われました。二人の間に親子の情のようなものはほとんどないとはいえ、血の繋がった実の息子なのですから、無事を喜ぶはずだと、思ったのです。
けれど旦那様の吐かれたため息は、固く、強張っていました。
「東条の娘」
旦那様は、もう随分前から私のことを「東条の娘」と呼ばれるようになりました。
名前を覚えてらっしゃらないわけではないでしょう。旦那様は私が長く働いている「東条」の娘であるという点を強調することで、線を引いていらっしゃるのです。曖昧になりがちなその線を、旦那様に呼ばれることで、私は踏まぬように保ってきたつもりでした。
旦那様は写真の隣に一つの封筒を置かれました。確認するようにと言われ中を開ければ、そこに入っていたのは、この場に決してそぐわないことだけは明確な、どこかで見たことがあるようなマスコットキャラクターの描かれたポスターを縮小したような紙と、数枚の書類だったのです。ダンガンロンパ。目に留まった文字を、私は脳に染み渡らせるように口にします。
「ダンガンロンパ……ですか……?」
「知っているか?」
「詳しくはありませんが。学生の間で人気があった番組ですよね?」
確か、仮想空間で殺し合いをするという内容のものだったように思います。私が学生の時分にもこっそり見ているような級友がいましたが、まだ続いていたとは知りませんでした。となると、人気があった、ではなく、今でも人気がある、の間違いなのでしょう。「ダンガンロンパV3、出演者大募集! キミもヤってみないか!」と目立つフォントで描かれたポスターには、白黒のクマが元気に飛び上がって出演者を募っています。一見愛らしい見た目のマスコットがいながらも、番組の内容は凄惨なものであるというギャップがうける理由なのでしょうか。流行に疎い人生を送ってきた私には、ピンと来ませんが。
しかしどうして旦那様は私にこれらのものを見せているのでしょう。もう一度、見落としているものはないかと手にしたものに目線を落とすと、出演者の募集期間が、今から二カ月以上前に終わっていることが分かりました。ということは、もうこの「ダンガンロンパV3」の参加者とやらは既に決定された後と思って良いでしょう。
しかし私は最近、どこかでこのクマを見たことがあるような気がしました。表情が薄いながらも、不思議に生き生きとして見える白と黒のクマ。靄がかった記憶の中で、坊ちゃんの横顔が不意に蘇ります。
栗原が亡くなる数日前のことでした。坊ちゃんは、これと同じクマのステッカーを持ってはいなかったか? 私はそこでようやく、あることに思い当たったのでした。
手を止めて目線を旦那様に戻す。その渋面が全てを物語っているように思えてならないけれど、どうか、杞憂であればいいと。
「……坊ちゃんは、これに?」
私の問いに、旦那様は口を開こうとしません。その沈黙は、肯定でした。
「……何を思って、こんなものに出ようと思ったんだろうなあ」
成人した、心身ともに健康な男女。たったそれだけの項目をクリアしてしまえば、誰でも応募資格があると言います。それでも倍率は相当なものでしょう。書類審査で相当の数を切り、選ばれるのは毎回たった十六人だけ。坊ちゃんがその二十人に満たない中に残ったのは、幸運だったのか、それとも。
不意に、切り出すような声音で旦那様が呟かれます。
「金を積んだ」
「は?」
「募集期間が終わっているからな。無理を言って、そのダンガンロンパとやらに出してもらおうと思ったんだ。そうしたら、少しはあいつのことが理解できるかもしれないと」
「……旦那様が、ですか?」
「そうだ。あれとは、一緒に過ごす時間なんかなかったからな。寂しい思いをさせたんだと思う」
今更おかしな話だろうが。ご自分で言っておきながら自嘲気味に笑われる旦那様に、私は首を振ります。どうして旦那様の覚悟を笑い飛ばすことができましょう。胸の内側よりこみあげてくるものを感じながら、私は幼き日の坊ちゃんを思い出しておりました。
美しい面立ちをした少年でした。あの美しさが、親の愛の欠落から来ていたことを、私は薄々感じ取っていたのです。私や母や栗原では、到底、彼の体にあいた穴を埋めることなどできなかったのですから。
「スポンサーにでもなると申し出れば、断られることはないだろうと思ったんだが……」
「断られてしまったのですか?」
私の問いに、旦那様は今度こそはっきりと苦笑を浮かべられました。
「捻じ込むことは可能だが、私では駄目だと」
条件の欄に、自然と目線が行く。成人した心身ともに健康な男女。「家庭を顧みずに働いてきたツケだろうな」精悍な顔つきに、いつの間にこんなに皺が増えたのか。
「病気が見つかったんだ」
ああ、坊ちゃん。
知らぬうちに、書類すべてを封筒ごと握りしめていました。私は、こんなときにあなたの産声を思い出す。
「もっと傍に居てやればよかった」
一番にあなたに届いてほしいその言葉を、どうして私一人で聞かねばならないのか。
そんなの、私だってそうです。もっと寄り添うべきだった。声を聴くべきだった。テーブルに置かれたままの二枚の写真。私が全てを委ねようと思った人。あなたの幸せを願う人間は、私だけではないのです。だけどあなたはきっとそれを、知らないままだ。
だから、あなたはここに帰らなければならない。