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彼を殺した。
生きる理由も、自分を思ってくれている人もいないと、彼――星君は言った。こんな自分よりも、外で大勢の人間に必要とされているお前の方が生きるべきだと、殺せとばかりに背中を向けた。
彼はもしかしたら、自分のパッドを見たのかもしれない。元々星君はパッドを確認して動機を知ることについては肯定的だった。大切な誰かが映っているというそれを見て、生きる糧にしたかったのかもしれない。だけど、そこには恐らく何も、誰も映ってはいなかった。だから彼は、諦めた。
私は生きるべきだった。誰よりも、ここにいる他の誰よりも、全員を出し抜いてでも、私はここから出なくてはならなかった。
一人ひとりの命の重さを比べることはできない。だけど、外で私を待っている国民の皆様と、ここに閉じ込められた仲間の命は、秤に乗せるまでもないだろう。星君の頭を、水を張ったシンクの中で抑えつけている間、私は彼らの顔を思い浮かべていた。
星君は死を受け入れていたけれど、酸素を失うと言う苦しみは想定以上だったらしい。小柄な星君は、手錠を付けられたまま必死で暴れた。私は彼の最期の抵抗に、灯火が消えていくのを見た。
これで後には戻れない。私は予め準備しておいた方法で、マジカルショーのためにと体育館に準備されたピラニアの泳ぐ水槽の中に慎重に彼の死体を入れた。ガラス板で仕切りをして、ピラニアと星君の体を分離してしまえば、あとは明日のショーを待つだけだ。夢野さんが脱出をしたあとの巨大水槽の中に彼は落ちて、そして残らずピラニアに食い散らかされるだろう。頭部の打撲痕も、手錠が食い込んでできた腕の傷も、すべてが真に水の中。ミスでプールの中に証拠を残してきてしまったが、あれを見てもトリックに結び付けることは難しいはずだ。何にせよ、一番疑われるのはショーを開催した夢野さんだと言っていい。
丑三つ時、寄宿舎に戻った私は、星君の遺体を体育館に運ぶ際の摩擦でできた手のひらの傷を治療した。クローゼットの中にある予備の手袋を嵌めて、この手に残る彼の頭蓋の感触を忘れぬよう目を閉じる。
無駄にはしない。そう誓う。
彼の命も、明日には失われるだろう皆の命も、私は無駄にはしない。
だからどうか許して。
ベッドの縁に腰をかけたまま細く長い息を吐く。ずっと張りつめていた気がゆるゆると解けて、浅い眠りの波がやってくる。自分がいる場所の輪郭が滲んで、曖昧になる。夢なのか、現実なのか分からない。
けれどそこに彼はいた。私よりも背が高くなった坊ちゃん。髪を後ろで一つに結んでいた。奥様に似て、美しい人だった。最初は格好つけるために飲んでいたブラックコーヒーを、いつの間にか彼は好むようになっていた。
私に気が付いた坊ちゃんが、目線を投げて微笑む。ああ、私、あなたに会いたい。会いたい。会いたい。
そのとき、ぐるりと視点が動く。私の眼球は身体から離れて空に飛ぶ。一時の浮遊感。遠ざかる坊ちゃん。その隣に立つのは今まで確かに「私」だった女だ。
その女の顔は。
父親が嫌いなのだと、あなたは言った。
今更反抗期ですか。そう口にした私に、あなたは不快を露わにして見せたから、その根深さを私は感じ取っておきながら、知らぬふりをした。私はあなたを愛しているとの同じほどに、あなたのお父様に恩義を感じていたから。二人の確執が、触れなければ爆ぜることがないと思い込んでいた。そうでなければならなかった。
何の悔いもない半生だったのだ。
あなたは私を憐れんでくださった。解放してやりたいと仰って下さった。自由になったらいいと。母の受けた恩をお前まで一緒になって返す必要などないと。だけど、私にも恩義があるのです、坊ちゃん。屋根をくださった。餓えを知らずに済んだ。空洞だった私に、生きる理由を授けてくださった。どうしてここを出ることができましょう。
歪んだ坊ちゃんの瞳は、随分と大人びた。何年が経ったろう。あの夏の日、蝉の音と共にあなた生まれ落ちた瞬間から、私はあなたのために生きた。旦那様から受けた恩を返すためでもあったけれど、それ以上に、私はあなたを愛していた。
悔いなどないのだ。憐れみなど必要ないのだ。これは自分のための生だった。
坊ちゃんは私の手首を掴むと、縋るようにその額を押しつけた。私はこの時、何歳だったか。あなたの傍らにはそのとき、白と黒の、どこかで見たことがあるようなクマのステッカーが落ちていた。
「もう充分だ」
こんなことを言われるくらいならば、いつまでも子供のままでいてほしかった。
彼の父親代わりであった栗原が闘病の末に亡くなった。坊ちゃんが行方不明になったのは、栗原の葬儀が終わった一週間後のことだった。
今朝は夢野が体育館でショーを行うと言っていたが、どうも皆で仲良くそれを観る気にはなれなかった。それは恐らく、昨晩の出来事のせいだ。
昨日の夕方いつものように花の観察を行っていたところを獄原に捕まったのが運の尽きで、俺は最原たちと共に獄原の研究教室に軟禁されてしまったのだ。獄原は素直で疑うことを知らない男だから、純粋に俺たちに「虫さん」で和んでほしかったのだろう。責めるべきはそんな獄原を利用した王馬だ。
しかしあの光景は宛ら悪夢と言い切っても良かった。体を這う虫、虫、虫。逃げ惑う最原に、甘いものでも持っていたのか虫に纏わりつかれ身動きが取れなくなっていた夢野。島育ちの夜長は飄々としていたが、白銀も茶柱も、石動のやつも、最後はぐったりとしていた。
俺はと言うと植物と虫は切っても切り離せない間柄であってそれ自体には慣れてはいるが、口の中にまで入ってこられてはたまったものではない。
「これで死んだら死因は何? 虫死?」
隣で床に這いつくばっていた超高校級の手芸作家である石動が独り言のように発したそれに、相槌を打つこともままならなかった。器用にアップにされたおだんご頭に数多の虫が絡まっているのを見つけたキーボが、それを追い払う。
しかし、最終的には動機を見せ合うと言う王馬の目論見は頓挫した。寄宿舎から全員分のパッドを回収してきたまでは良いが、キーボの機転のおかげで自分が利用されていたことを獄原が知るに至ったのだ。静かな怒りを浮かべる獄原に、王馬は引き攣った笑みを浮かべるばかりだった。
ようやく二人から解放されたときには日付をもう少しでまたごうかというところだった。ボロボロの身体で寄宿舎に戻りベッドに潜り込むと、睡魔はすぐに襲ってきた。夢でも虫に魘された。最悪だ。
朝を知らせる放送が流れてようやく目を覚ました俺はのろのろと身支度を済ませる。身体に虫が這うような感覚があってぞっとするが、抜けた自分の髪が皮膚に落ちただけだった。
ノートと筆記用具を片手に俺が向かったのは、体育館ではなく食堂だった。疲れが取れていなかったのだ。ショーは強制参加ではないし、見に行かなくても責められるような謂れもないだろう。
とにかく今は甘いコーヒーが飲みたい。砂糖とミルクを倍にした、甘ったるいコーヒーが。東条は恐らくショーの方に行っているだろうから、一から自分で準備をすることになるだろうが、不思議なことに全く億劫ではなかった。
エントランス付近のヤブカンゾウは、まだ咲いている。それを視界の端に止めたとき、俺は確かに思ったのだ。そろそろ枯れてもいいはずだと。だけど、そのときはそれを深く考えなかった。校内に一歩足を踏み入れたときの寒気に、俺はコロシアイのことを連想せざるを得なかったのだ。
ここから出ようと思うからコロシアイが起きる。ならばいっそこの学園での生活を受け入れるべきだ。夜長と夢野はそう主張していた。それ自体に異を唱えるつもりはない。俺自身も、このまま平穏が続くならそれでいいとどこかで思っていたくらいだ。
流れる様に生きてきた。これからもそれが続くと思っていた。こんなところに拉致されて、コロシアイを命じられても、まだ自分には関係がないことのように思えてならなかった。
誰もいない食堂は薄暗い。東条のいない食堂というのは、そう言えば初めてかもしれない。喧しい連中のいないこの静けさは、随分と貴重なもののように思えた。
ノートを開きながら手さぐりでスイッチを押すと、視界の端で白熱灯の明かりが太陽光に滲むように溶けていく。季節を間違えて咲いた花や植物に違和感を覚えてメモを取り始めたのは、ここに閉じ込められた次の日のことだ。
不思議なことに、天海と赤松が死んだ次の日、それまで雑草しか生えていないように思われたエントランス前に季節外れのヤブカンゾウが咲いていた。前日まではそれと思しき若葉はなかったように記憶しているが、見落としていたのかもしれない。
ここはやはりおかしい。
季節外れと言うならば、ヤブカンゾウに限った話ではない。秋に成すヤマブシタケ、蛾の蛹を宿主とするサナギタケも、土からひょいと顔を覗かせていた。一体今は何月なのか。尋ねてもモノクマーズは答えない。
「……あれ?」
定位置の席に着いたところで、ふと視界に花瓶に生けた薔薇が映り込んだ。
ボイラー室の脇に咲いていた大ぶりの橙色の花弁は、楽園という品種のものだ。ここがそうだと言わんばかりに咲いているものだから、昨日の昼に感情に任せて剪定してしまった。そんなこと、今まではなかったのに。
いくら苛立ったとしても、花に罪はない。せめて生けてやろうと食堂に飾ったが、女性陣からは概ね好評だった。一番喜ぶだろうと思った東条は、意外なことにあまり興味を示そうとはしなかったけれど。
ちょうど八分咲きだから、今朝には完全に開いている。そう思ったのだ。
立ちあがり、花弁に触れる。光沢のある色、吸い付くようなそれは紛い物ではないのに、どうして、昨日から少しも開いていないのだ。
そのときだった。
聞き覚えのあるチャイムが、食堂のスピーカーを通して流れてきたのは。
「死体が発見されました! オマエラ、死体発見現場の体育館まで急いで集合してください!」
俺はその無情な響きを、ただ聞いている。
受け入れていたこと自体が、不思議だった。
人間と関わることを煩わしく感じていた俺が、どうしてここにきて東条の元に足繁く通っていたのか。
彼女にどこか遠巻きにされていること勘付いていながら、それでも俺は東条に声をかけ続けた。特別好きでもないコーヒーを飲み、喜ぶかもしれないと思って薔薇を生けた。東条の姿を見かけるだけで、彼女が今日も無事であることに安堵した。皆のためにと彼女が口にする度に、どこかが軋むような音がした。
俺は東条を追いかけていた。自分自身、それに疑念を抱くこともなかったのだ。今日、この瞬間まで。
放送を聞いた俺が体育館に駆け付けたとき、そこには既に大量の血が混ざりあった巨大水槽があった。濁って目視することは難しいが、どうやら、誰かがあの水槽に転落し、ピラニアか何かに食い散らかされてしまったらしい。そしてその誰かは、ここにいない星に違いなかった。
放送を聞いたときは心臓が止まった心地がしたが、騒然とする体育館のステージ付近に東条の姿を見かけたときは、不謹慎ではあるがほっとした。
声をかけたい衝動にかられるが、巨大水槽を割る方が先だとキーボの奴が水槽に向かって投げつけられたせいで、タイミングを逸してしまった。鋼鉄の体を持っているとはいえ、その扱いに居たたまれなさを覚える。仲の良い石動が落ち込むキーボを慰めているようだが、立ち直るにはまだ時間がかかりそうだ。かく言う石動の方も、元々グロテスクな場面に出くわすことに耐性がないらしく、顔面は蒼白だ。互いに慰め合う奇妙な構図が生まれていたが、今は二人に気を取られてばかりもいられない。
骨だけになった星をかき集め、腹をパンパンに膨らませた魚をバケツに分け、ガラスを片付けながらも遺品を取り出す。生臭い臭いは魚の物か、それとも他の何かか。深く考えないようにしながら皆に混じって黙々とガラスを集めていると、王馬の奴に「わ~、意外なやつが率先して掃除してるのとか、結構怪しいよね! しかも何か、手際が良すぎない? 掃除のプロかよ!」と言われたが、誰も反応を示さないのが救いだった。
しかしなぜこんなことになったのだろう。最原が俺を含め、体育館に来ていなかったらしい王馬、百田、春川に経緯を説明するが、彼自身もどうしてこんなことになったのかさっぱりわからない、という口ぶりだった。
曰く、夢野の水中脱出ショーが終盤に差し掛かった時、ピラニアと共に星が突然水槽の中に落ちた。誰一人身動きを取ることもできないまま、彼はあっという間にピラニアによって食われてしまったのだと言う。
改めてモノクマからパッドを貰っても、やはり事件の謎につながるようなことは何一つ残されてはいないように思えてくる。随分と手の込んだ殺人事件だ。それだけでも、だからこそこんなことができる人間は限られてくるのではないかと、微かな予感めいたものが胸を掠める。
犯人に証拠を隠滅されることのないように捜査は二人組になって行おうと言う提案の直後、一番傍に居た石動がくるりとこちらを振り返った。まだ動揺の色が消えていないように見える石動の目には薄らと涙が浮かんでいたが、それを手の甲で乱暴に拭うと、彼女はぎこちなく微笑みを浮かべる。
「神代くん、一緒に行こう」
予想通りそう言われて、返答に困った。俺なんかが役に立てるとは思えないし、そもそも今は捜査よりも気になることがある。それに、どうしていつもつるんでいるキーボでなく俺に声をかけたのか。偶々近くに立っていたからというのもあるだろうが、作為的な何かを一瞬だけ嗅ぎ取る。しかし、一人で行動することは無駄な疑念を生むだけだろう。俺は彼女に曖昧に頷いた。
最原たちが体育館を調べると言うので、俺たちは被害者である星の研究教室に向かうことにした。パッドを片手に体育館を出て行ったのは俺たちだけではなかったが、最初に星の研究教室へと向かおうと考えているやつは他にはいないようだった。自然と作業分担ができているのはいいことだと、小柄な石動は独り言のように口にする。
東条は、体育館に残ったらしい。
何となく後ろ髪を引かれるように思いながらも、二人で階段を上る。ぱたぱたと足音を立てる独特の歩き方をする石動は、俺を見上げる。ふわふわの髪を緩く結んだおだんご頭に添えられた髪飾りは、花の形をしていた。
「神代くんは、星くんと仲良かった?」
「……いや、別に」
「私もそんなに喋ったことなかったかな。……でも、それでもやっぱり、悲しい」
「…………」
悲しい。石動の口にした言葉を、口の中で噛み砕く様に反芻させる。ず、と石動が洟をすする。それを横目で見て、俺は自身の内に問いかけた。
果たして、その感情はこの体の中にあるのだろうか。そういえば彼女は、赤松が処刑されたときも泣いていた。感情の振れ幅が大きいらしい。今だって、戦慄く唇を噛みしめている。拳を、制服のスカートごと握りしめている。
喜怒哀楽のはっきりしたこの少女は普段からまさしく高校生然としていて、他の連中と比べれば癖はそこまでない。だけどそれでも、やはり、こうして隣を歩いていると息苦しさが募るのだった。それはむしろ、彼女だからこそなのかもしれない。悲しいと思えない俺を責められているように思う。
殺された星よりも、本能的に犯人の正体を察してしまった俺は、死人に寄り添うことができない。その愚かさは、彼女のような存在によって浮き彫りにされるのだと、直感した。
だから、突然モノファニーが階段を昇る俺たちの前に現れたときは、この空間が壊れたことにほっとしたのだ。