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「好きじゃないんだ」
坊ちゃんがそう苦々しく呟いたとき、私はその理由がわかりませんでした。
そのとき私は十七歳。お屋敷から一番近い公立高校に通いながら、それまでと変わらず勉学に励み、母の傍らでカーテンの洗濯などを手伝う毎日でした。通う学校が変わっただけで、私の日々に変化などなかったのです。これからもそれが続くと思っていた。母のように、これからも坊ちゃんと、旦那様のために生きるのだと。
だって私にはそれ以外の生き方などないのだから。
十一歳になった坊ちゃんはまだ背が低く、少年の面影を強く残していました。同じ付属小学校に通う同級生と共にいる姿は見かけたことがありませんが、一度体調を崩した運転手の栗原の代わりにお迎えにあがった際も、坊ちゃんは門扉から一人で歩いてこられたので、ひょっとしたら気の合うご友人を見つけられないでいるのかもしれません。
セーラー服を着た私の隣を歩く坊ちゃんは、少し前から私と手を繋いで歩いてくれることがなくなりました。その小さな手のひらは、不満そうに頭の後ろで組まれます。
「ゲームの話ばっかなんだよ」
「学校のお友達ですか?」
「友達ってほど仲良くもないんだ。同じ教室に居るだけ。ほとんど喋ったこともないし」
「お花が好きな人なんて」
「いるわけないね。女みたいって笑われて終わりだよ」
軽く肩を竦める坊ちゃんに鞄を持つと申し出ると、坊ちゃんは女子に持たせられるか、と一端の男児らしいことを口にするので、私は坊ちゃんの健やかな成長になぜだか誇らしさすら覚えるのでした。
「坊ちゃんのお話、私は好きですよ」
野山に出かける度、坊ちゃんは私に色んな話を聞かせてくれました。倒木に、ドレスの裾のように咲いたきのこの名前、寄生された虫、濃い蜜の味がする赤い花、その度に、ノートに記した。おかげで随分と植物の絵を描くのが上手になった。あのノートをすべて坊ちゃんの語る植物で埋めることが出来たら、坊ちゃんは喜んでくださるでしょうか。
ふと、隣を歩く坊ちゃんの顔が赤らんでいることに気が付きました。梅雨の明けた初夏、気温のあがるこの季節です。熱中症になったら大変だと、お茶を飲みますかと尋ねた私に、坊ちゃんは長いため息を吐かれると、その最後の呼吸に紛れる様に、お前は本当に馬鹿だなと、困ったような顔で口になさいました。
そんな彼が足を止めたのは、小さな花屋の前でした。彼と赴く山に咲く花よりも分かりやすく華やかな香りに、私も同様に歩みをやめました。
「好きじゃない」
そう彼が言った瞬間、だから、一体何のことだろうと思ったのだ。
そこに並べられた色とりどりの花を見て、思わず「きれいですね」と同意を求める様に口にした、その時の、彼の横顔が、まるで別の物を見ているようでした。
「好きじゃないんだ」
それは固い声でした。
私に向かって吐き出された十文字に満たないその言葉は、まるで空っぽの缶をアスファルトに放り投げたときのように、乾いて、無機質で、だけど、恐ろしいほどに澄んでいました。変声期を迎える前の少年の声。無垢と呼ぶには少し汚れを知りすぎた眼。私は彼が特定の植物に対して「好きではない」というのを、このとき初めて見たのです。
植物すべてを等しく愛する人だと思っていたから。
「帰ろうか。東条」
坊ちゃんは私が何か言うよりも先に、店先に並んだ鮮やかな花弁から目を逸らし歩き出していました。私はその小さな背中を追いかけるために、駆け出す。彼が顔を顰めて見せた大ぶりの薔薇は、そういえば母も飾ろうとしたことがないと、彼の背中を追いながら私は一人、考える。
私がどれだけ妙な夢を見ようと、朝は必ずやってくる。
テーブルの上に置いたままのパッドの中にある動画は、あれから三度見た。その度に腹の奥から湧き上がる感情があった。屈託ない笑顔を浮かべる少年少女を、皺だらけの手を、懸命に家族を守らんと働く世の中の大人たちを、守るのは私だ。私しかいないのだ。確固たる信念が、一分一秒経つごとに、私の体に根を伸ばす。
それとは反比例するように、あれだけ意識の真ん中に存在していた私の見る夢は、いつの間にか端にひっかけられる程度に小さくなっていた。
考えるだけ無駄だ。あの屋敷も、母も、そして坊ちゃんも、現実逃避を望む弱い私が作りだした架空の存在で、幻影なのだから。そう決定づけようとしているのに、私はあの「坊ちゃん」の面立ちが、徐々に彼、神代昴に近づき始めていることを察している。
「剪定してきた」
彼とはあまり二人きりにならないように注意していた。避けているとは思われないほどに細やかな意識のもと、私は今日一日随分と気を張っていたのに。
午後になって食堂にやって来た神代君は、数本の花を抱えてやってきた。準備のいいことに、わざわざ倉庫から探してきたという花瓶まで携えて。
もう少し早く来てくれたら、ここにはキーボ君と石動さんがいたのに。タイミングの悪さを呪いながら、私は彼が勝手に食堂のテーブルに花瓶を置く姿を眺めている。八分咲きのそれは、きっと明日の朝には美しく咲いていることだろう。だけど、今朝見た夢を髣髴とさせるその花に、私は薄ら嫌悪の念を抱いてしまう。
「……薔薇も咲いてたのね」
「ああ。ボイラー室の裏側にね。折角だから花でもあれば、ちょっとは和むんじゃないかって」
そんな単純なものだろうか。あのパッドがもたらした緊迫感は、花ごときで和らぐものではないはずだ。今のところまだ誰かが動機の交換をした様子はないけれど、それも時間の問題だろう。
王馬君は獄原君を巻きこんで何か良からぬことを企んでいるし、夜長さんと夢野さんもマジカルショーとやらを催すつもりでいる。今夜、そのための手伝いを頼まれたが、誰かが行動に移す前に手早く事件を起こすならこのショーを利用する手はない。
何かいいトリックはないか、今からでも少し考えておいた方がいい。私が殺す相手も。
一人で集中したかったのに、神代君は大ぶりの薔薇をいかに美しく見せるかに執心している。
うんざりした。元々、この大袈裟な香りが好きではないのだ。勿論、メイドとして花を飾ることは数知れない。依頼がありさえすれば希少な薔薇を手に入れてくることだってする。だけど、自ら進んでこの花を飾る気にはなれない。
直立した大ぶりの花弁はいっそ仰々しい。たった三輪といえども、この品種は存在感がある。光沢のあるオレンジ色の花びら、フルーツ系の香りはきっと料理の邪魔をする。これならばあのヤブカンゾウの方がよほどいい。それでも揉める気はない。「神代君」と、なるべく平淡になるように彼の名前を呼んだ。
「コーヒーでも飲む? ブラックよね」
顔に出さないようにそう尋ねる。誰に対しても、普段と同じように、変わりなく接すること。そうしなければ明日にも開かれるだろう裁判で疑われることになる。
先日彼は砂糖とミルクを入れて飲んでいたけれど、元々甘いものは苦手なはずだ。神代君はちらりと私の顔を見上げると、ほとんど表情を変えずに首を振った。ああ、今日はこのままどこかに行ってくれるのだと、拒絶されたことに対してほっとしたのも束の間だった。
「好きじゃないんだ」
彼は、小さな声で、けれど、はっきりとそう呟いた。
私は手を止める。呼び起こされる。そう思ったけれど、蘇ったのは今朝の夢の一部分だ。あり得もしないのに、幼いあの子の声と彼のそれが混ざり合う。切り取られたように、脳裏を過る。まだ背の小さな彼は鞄を背負ったまま、目を合わせることもせずにそう言った。車の行き交う排気音が耳に残っていた。花屋の店先。並んだ大輪の薔薇たち。植物を愛していた彼が唯一、嫌いだと言った花。むせ返るような香りの中に、私はいる。
手が震えた。彼は誰だと思った。私を幻に突き落とす人。薔薇を好きではないと、彼は言った。そして今も。
目を見開いて思考を止めた私に、しかし彼は続けた。
「コーヒー。ブラックなんて滅多に飲まない。甘くして、やっと飲める」
「……え?」
聞き返しても、彼はもう言葉を発そうとはしない。薔薇のことではなく、コーヒー、言われてみれば、そうだ。あの話の流れで、突然薔薇の話になるはずがない。それにどこかで安堵しながらも、私は別の件で困惑してしまう。
だって、私は確かに一度聞いたのだ。今の彼の言葉とは真逆の発言を。超高校級のメイドは、例え依頼人でなかったとしても個人の好みを忘れることはしない。
「ミルクも砂糖もいらない。甘いのは飲まない」
かつて、そう彼が、言った、いや、どうだったか? 言ったはずだ。灰色に近い黒髪を掻き毟りながら、眠たげな目をした彼が、私に向かって、確かに。あれは、春。「ブラックにしてくれ」と言った彼に私は何と答えたか。あら、背伸びをしていらっしゃるんですか、坊ちゃん。だったか。いや、おかしい、背伸びも何も、彼は私と同じ高校生だ。坊ちゃんじゃない。
あれは夢の中の話だったのだろうか。
記憶が混濁している。眩暈がする。パッドの中の少女の笑顔が歪む。
「うわあ! なんですかこの薔薇は!」
その時突然、私の意識を現実に引き戻す声が耳に飛び込んできた。茶柱さんだ。彼女は廊下に通じる扉から駆け寄るように食堂のテーブルにやって来て、きらきらとした笑顔を浮かべている。
「さすが東条さんですね! ……ん~、いい香りですっ! 東条さんはお花を飾るセンスもあるんですね!」
「……いいえ。それを飾ったのは私じゃないわ。神代君よ」
「えっ」
足元が柔らかなクッションで埋め尽くされたような感覚に耐えながら、私は茶柱さんに向き直る。助かった。どうして、そう思ったのだろう。
私の言葉を聞いた茶柱さんの表情が一気に引き攣る。完全に表情を失った彼女は、ほとんど表情も変えずにいる神代君の頭のてっぺんから足元までを無遠慮に眺めると「この男死ですか……」と分かりやすく態度を変えた。
神代君は身構える茶柱さんにちらりと目線を投げると、向けられた警戒心を解こうともせずにそのまま立ちあがる。
「神代君、コーヒーは……」
「いらない」
素っ気なくそう言って食堂を出て行く神代君は、振り向こうともしなかった。
私は神代君があまり他者と会話をしている姿を見たことがない。獄原君とは二人で虫を探しているところを見かけたことがあるけれど、あれも結局一度きりで、その後獄原君が親しげに声をかけても彼は会釈をするにすぎなかった。
協調性がないという点に関しては彼に限ったわけではないから、それで特別浮いているわけではないけれど、それにしても彼は私に対してだけ気を許している印象が見受けられないだろうか。
私の期待通り、彼は立ち去ってくれたわけだけれど、後に残された薔薇の存在感に私は思わず眉を寄せてしまう。
品種名は、楽園。
皮肉なことをするものだと、「お花のセンスは素晴らしいですけど、失礼な男死ですね……!」と憤る茶柱さんにお茶を淹れながら思う。
そして私は、彼が私に向けて発した言葉と自分の認識のずれについて、考えることを放棄した。