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「その、ワスレグサというのは、ワスレナグサとは違うのですか?」
お忙しい旦那さまは、家族と過ごす時間というものがほとんどありませんでした。
とは言え、間違いなくいずれは会社を継ぐことになるであろう坊ちゃんも、幼い時分から必要と思われる教育を施され、自由な時間はほとんどなかったと言っても過言ではないでしょう。
そんな彼の息抜きは、専ら野山へのハイキングでした。運転手でもある栗原という初老の男が付き人をしておりましたが、坊ちゃんは、時折離れに住む年の近い私を連れ出してくれました。彼は、ご自分よりも遥かに年上で物事を良く知る栗原よりも、植物に明るくない年上の私を供にすることで、その幼さゆえの虚栄心を満たそうとしていたのかもしれません。
山に咲く花の名前を一つ一つ指を差し口にする坊ちゃんは、私が素直に興味を示す姿に喜びを隠すこともせず、分かりやすく解説をしてくださいました。
あの百合みたいな花はワスレグサ、その彼の言葉に浮かんだ疑問を隠すこともなく口にしてしまったのは、少し失言だったかもしれませんが。
あれは夏休みの最中でした。麦わら帽子の下で汗を拭う彼のことを、私はまるで姉のような気持ちで見つめていたのです。
「ワスレナグサって、花、知らないの? 青いやつじゃん。全然ちがうでしょ」
「すみません。坊ちゃんほど詳しくないのです」
「中学生なのに?」
「はい。ですから、色々教えてください」
「……仕方ないなあ」
口ではそう言いながらも、坊ちゃんは子供らしい、満面の笑みを浮かべます。
木々の作る木漏れ日の下、太陽はそれでも容赦なく降り注ぎ、しゃがみ込んでいるだけで背中が汗でぐっしょりと濡れていくのがわかるくらいでした。腕につけていたゴムで髪を一つに纏めても、暑苦しさは簡単には拭えませんでした。
オレンジ色の百合のような花は、ヤブカンゾウ。ワスレグサともいうけれど、ワスレナグサとは違う花だ。夏の野山に咲き、数日で萎む。一方ワスレナグサは、春に青い小さな五弁の花を咲かせるもので、名前が似ているだけで全くの別の植物だと、坊ちゃんは滑舌良く説明してくださいます。
「ワスレナグサは暑さに弱いから、夏には枯れる。逆にこのワスレグサは夏しか咲かない。まあ似てるのなんて名前だけだね。どう、覚えられそう?」
「はい。多分」
「多分って、中学生なのに?」
「覚えます」
中学生なのに? が最近の坊ちゃんの口癖なのです。眉を寄せて不快を露わにする坊ちゃんに、私は苦笑交じりにそう返しました。
一方、今覚えた知識を反芻するように、口の中で繰り返すことも忘れません。
ワスレグサ。ヤブカンゾウの別名。ワスレナグサと似ているのは名前だけ。だったらもう、初めからこの花をヤブカンゾウと覚えた方が早いかもしれません。学校の授業内容がその知識に押しだされて抜け落ち無い様に、慎重に脳の隅に置いておくことにします。
お手伝いとして働く母と共に屋敷に住み込みをさせていただいている以上、私の衣食住の全てはこの家に委ねられています。しかし、私がこうして彼に付き従い、学生としての本分を忘れることもなく勉学に励み、時に母の仕事を手伝い、屋敷を掃除し、調理や配膳をし、洗濯を干し、必死で利口ぶっているのは、何も自らの安寧の地の保全を目論んでのことではないのです。
坊ちゃんは立ちあがると、私の腕を引きました。
木の根に足を取られながら、その小さな背を追いかける。
つんのめって、転びかけて、蝉の鳴き声が、彼の笑い声を潰す。纏わりつく熱気も、体中から際限なく流れる汗も、額に張り付く前髪も、確かにこの体で感じているはずのものなのに、完成された作り物のように、何もかもが美しく、遠い。
私はこの方を守りたい。そう思ったのだ。それは恐らく、もうずっと前から。
神様からの贈り物だった、血まみれのあなたの、何者かになりたいと。
途方もない倦怠感に、嫌気が差す。
元々寝起きは良くはない。こんなこと、超高校級のメイドとなってしまった今誰にも漏らすことはできないけれど。だけど、それにしても最近は酷い。ここに来てからずっと、私は寝付きも悪ければ爽快な目覚めを迎えることができずにいる。
どんなに夢見が悪くとも、頭や体が重くとも、関係なく朝は来る。きっちり五秒だけ目を閉じてから、起き上がるための力を確保したうえで再び瞳を開ける。髪を片手で梳かせながら、果たして自分の髪はこんなに短かっただろうかと考えて、嫌になる。夢のせいだ。あの夢の中で、私は長い髪を一つに結んでいた。
どうしてあんな夢を見るのだろう。あれが私の過去だとは、到底思えない。
ここに来た時の記憶は確かにないけれど、それ以前の私の生活というものは、自分が超高校級のメイドと評価されるようになるまでは至って平凡なものだった。自分の家族も、住んでいた街も、通っていた学校の名前も、私は全てを羅列することができるし、そしてそれはあの夢のものとは確実に違う。私は子供の頃、どこかの屋敷に住み込みをしていた経験はないし、あそこまで年の離れた男の子と仲良くした記憶もない。共通点は、私が実際にメイドで、夢の中の彼女がメイドを志していたこと、くらいだろうか。
そこまで考えてようやく、なぜこんな夢のことを気に病む必要があるのだろうと思いなおす。やはり、知らないうちにストレスになっていたのだろう。拉致され、コロシアイを強いられ、ここから出られなくなってしまったことが。私が今思い悩む必要があるのはこれからのことであって、夢のことではない。
ため息を吐きながらベッドから降りたときだった。テーブルの上に、見慣れない派手なパッドが置いてあったのを見つけたのは。
私が無警戒にそれを手に取ってしまったのは、それまでの思考の積み重ねにより精神がやや疲弊していたせいもあるのかもしれない。それは、画面に触れた瞬間、勝手に再生を始めた。
「さーて、大好評につき復活した、動機ビデオの時間だよ~」
場違いに明るいモノクマの声音に心臓が凍る。画面に映し出されたそこにあったのは、私自身の名前だった。
見てはいけない。そう思ったのに、私は瞬きを忘れる。自分の呼吸の音が遠い。入れ物だけになったような感覚だった。日の昇りきらないせいで薄暗い室内で、身体から分離した私は自分の横顔を眺めている。そんな錯覚を覚えた。
動画に、あの赤子の影はどこにもなかった。
「東条。おはよう」
今朝も草木を観察していたらしい神代君は、今日は自分の方から声をかけてきた。
彼があのパッドを持っている様子はなかったけれど、深刻そうな表情から、恐らく彼もあれを見たのだと推測される。私と彼の間にある、昨日と変わらずに咲いたヤブカンゾウの橙が、場違いなくらいに明るい。
誰とも話をしたくなかったけれど、ここで素通りするのは不自然だ。観念して彼の方を見ると、神代君の顔色が普段よりも悪いような気がした。
「……貴方もあれを見たのかしら」
「ああ、パッドだろ? 東条の部屋にもあったのか」
「ええ……」
目を合わせることが億劫だったが、ここで逸らせば自分の中の動揺を見透かされかねない。手袋をはめた手でスカートを握りしめ、耐える。
恐らく、あれを準備したのは私たちにコロシアイをさせようと目論んでいるモノクマだろう。
部屋に置かれていたあのパッドは、動機ビデオと銘打った映像が保存されていた。思い出すだけで、動悸がする。シャワーを浴びて何とか冷静を取り戻そうとしたが、完全に平生を取り戻せたかは定かではない。メイドとしての稼業をこなす上で自然と身についたポーカーフェイスが、一介の植物学者でしかない神代君に見抜かれるとは思えなかったけれど。
私はあの映像を見てしまった。
そして思い出したのだ。本当は自分が何者であったのかを。
あの時の衝撃は、とてもじゃないけれど簡単には言い表すことができない。まさか、私がこの国を任される立場にあっただなんて。そして私が姿を消してしまったことで、この国が、国民の皆様が、大変な目にあっているだなんて。自分が投げ出してしまった依頼が孕んでいた責務の想像以上の重さを実感して、超高校級のメイドである私が冷静でいられるはずがない。
再生が終わった瞬間、叫びだしそうになるのを堪えた。飲み込んだ悲鳴は、どうしてか血の味がした。落ち着け、そう言い聞かせる。狂うのは今ではない。冷静な自分がそう言う。
ここから出なくてはいけない。何が何でも、ここから外に出なくては。滅私奉公。この私が、皆様を守ると言う責任から逃れるわけにはいかない。
だけど、本当にそれでいいのかと、どこかから声が聞こえる。皆でここを出てほしいという赤松さんの言葉が、体の内側にこびりついているのだ。だけど、それでも。私は秤に、一つ一つを慎重に乗せていく。
どちらにせよ、今動き出すのは時期尚早だ。言い聞かせるように胸を撫でる。
まずは皆の出方を窺う必要がある。皆が自分の過去を思い出したら、きっとコロシアイを目論む人だって出てくるはずだ。それくらいの効力が、あの動機ビデオにはあるのだから。どうするかは、それから決めても遅くはない。
覚悟を決めて寄宿舎を出た私は、そしてここで彼と出会ったのだ。
私の探るような視線に、しかし神代君はどこか他人事のように目を細めると、小さく息を吐いた。風が吹く。ヤブカンゾウの花は、一輪も萎れてはいない。
「しかし、どうしてわざわざ入れ替えたんだろうな」
彼の瞳は、日光の下では僅かに灰がかって見えることを、私はこのとき知った。その髪と同じ色だった。
「他の奴の動機ビデオをわざわざ見せることに何か意味があるのか? まあ、間違いなく一悶着はあるだろうが、まどろっこしいとは思わないか?」
どうやら。
「なあ、東条」
どうやら、私以外の人は皆、他人の動機ビデオが回っていたらしい。
後に食堂に集まってきた皆が話す内容を聞いて、私はそれを確信した。キーボ君がこのまま見ない方がいいと主張したのに対し、星君が反対する。協力をしようとするからモノクマが邪魔をしてくるのだという主張から、王馬君がどうすればこの動機を皆が交換するだろうと、獄原君を連れて作戦会議に行ってしまったのは気になるけれど、どうやら今の段階で自分の動機を確認したのは私だけで間違いないと見ていいだろう。
食事の支度をしながら、私は体が震えそうになるのを堪える。
どうすれば良いか迷っていた。ここに残された皆と、外の世界で私を待つ老若男女の国民の皆様を私は再び秤に乗せる。ああ、そうだ、答えなんか決まっていたのだ。
これは、神の啓示に違いない。
夢の中赤子が泣いた。あのときの産声を、蝉の音を、私は何故か今、この食堂で聞いている。私が救う国民の中に、あの子は果たしているのだろうか。いや、いない。だってあれは、私が作りだした幻だ。
神代君から注がれる視線に、私が気付くことはない。