act03.東条斬美
あなたのために生まれてきました。
あなたの産声を幼い私は聞きました。命の誕生の瞬間、本当は少し怖気づいたのです。隣の母に手を繋いでほしかった。けれど母はあなたをとりあげるのに必死だった。血にまみれた赤子。へそから伸びる緒。胎盤の形。蝉の音。皮膚の赤、薄く伸びた血、泣き声にも色があることを私は知らなかった。
焼け付くように暑い、夏の日でした。
「男の子ですよ、奥さま」
あなたは、待ち望まれた長子で、それも男児だった。
窓からの光は燦々とあなたを照らしました。薄い毛髪はけれど柔らかく日の光に透け、小さな手足は意志を持ちもぞりと動きました。聞きなれた幼児の泣き声とは明らかに異なる嬰児の叫びにも似た声。それでもそれはまるで世界中の尊いものが自然と集まってできたなにものかであるように見えました。
神様からの贈り物だ。幼い私は心の底から、そう思ったのです。
このときの私はあなたのお母様である「奥さま」の涙の真意を知りませんでした。無事に子供が生まれたことの喜びか、安堵か、想像できたのは、せいぜいそれほどでしょう。
奥さま。赤ちゃんが元気に生まれて、良かったですね。体液をきれいにふき取られた赤ん坊は、奥さまの胸の上でその手足を動かす。
初乳は早い方がよいのです。むき出しになった奥さまの乳房を、そこに吸い付く赤子の後ろ頭を、幼い私は震えながら見つめている。その震えが一体何からくるものかを、知りもせずに。
だけど、奥さまがあなたに乳を与えたのは、あの一度きりだったのではないでしょうか。
真実のほどは、知りませんが。
目が覚める。壁にかかってあるはずの時計を探して少し手間取った。見慣れない壁紙に、大量生産品と見て間違いない家具の類。調度品の一つもないシンプルと言えば聞こえの良い部屋は、見様によっては殺風景だ。
そう言えば、私は拉致監禁されているのだった。もうこの学園に閉じ込められてから随分経つと言うのに、朝が来るたびに、自分がどこにいるのか分からなくなる。それは毎夜のように夢を見るからだろうか。取り留めのない、過去の日々の夢を。
体を起こして毛布を畳む。途端に襲ってくる眩暈に、自分の低血圧を呪う。とは言え、ものの数秒目を閉じていれば耐えられるほどだ。
肺にたまっていた二酸化炭素をゆっくりと吐きだすと、私は備え付けてある洗面所へと向かった。顔を洗うついでに掃除も済ませてしまう。王馬君や入間さんなんかはきっと床まで水を飛び散らせても構わずにいるに違いない。いくらでもメイドとして掃除をすると言いたいところだけれど、王馬君の方はのらりくらりと私の申し出をかわす。
「ええっ、いいよいいよ。そこまで頼めないって! 自分でできるしさ!」
コロシアイをしろと言われている中、他人を部屋に入れるなんてとんでもないよね。両手を振って断る彼の顔にははっきりとそう書いてあったけれど、あれは隠そうとして滲み出た真意ではなく、彼の故意によるものだ。放っておけば実際に口にされそうだったので、私は大人しく引き下がった。彼の部屋の様子は気になるけれど、せめて共有スペースだけでも清潔を保持していれば、健康への影響もそう多くはないだろう。
クローゼットから服を取り、着替えを済ます。まだ早朝と言っても過言ではない時間であるが、今から食堂に行ってみんなの食事の支度をする必要がある。誰が何を食べたいと言い出しても即座に対応できるように、様々なパターンを考えて準備をしておかなくてはならない。パンケーキやサーモンのガレットなんかはどうだろうか。茶柱さんあたりは和食を好みそうだから、お味噌汁やおにぎりも作っておいた方が良いだろう。少しでも、食事を摂ってもらわないと。
何せ、昨日は大変なことがあったのだから。
寄宿舎を出ると、早朝の、やや冷たい風が頬を撫でた。朝の五時、しんと静まり返ったそこは、まるで生命の気配が薄い。ここは、こんなに静かだったろうか。
記憶は曖昧だけれど、校舎と一部の空間を囲う檻の向こう、あの外の世界に、私は超高校級のメイドとして受けた依頼を置いてきていると見ていいだろう。私の気を焦らせるのにそれは充分過ぎたけれど、でも、「みんなでここから出る」という赤松さんの思いを受け継いだ以上は、自らのためだけに行動を起こすのは私の流儀に反する。
滅私奉公。私はみんなのために。記憶の中に蘇る、神から授かった赤子の影を振り払う。
昇り始めた太陽に目を細めていると、視界の端で何かが動いたことに気が付く。夜は明けたとは言え、今は実質夜時間だ。朝のチャイムが鳴るまでまだ随分と時間があるはず、そう思いながらその人影を視界の中心に据えると、そこに居たのは、超高校級の植物学者である神代昴君だった。
校舎のエントランス前でしゃがみ込む彼は、どうやら何かの花を見ているらしい。食堂へと向かう道すがら集中している様子の彼に声をかけるのは聊か気が引けたけれど、「おはよう。神代君」と簡単に挨拶を済ませた。
「東条か。早いんだな」
突然声をかけたにも関わらず、彼が特に驚いた様子はない。神代君は特別表情を動かすこともなく、エントランス前に咲いた、手のひらの大きさほどの橙色の花を細部まで確認していた。
こんな花、昨日まで咲いていなかった気がするけれど。私の考えたことを見透かすように、神代君は「この辺の雑草、結構きれいになってきたみたいだ」と半ば独り言のように呟いた。背の高い雑草に埋もれて、この鮮やかな色の花弁が目に入らなかったのかもしれない。
早朝であるせいか、普段喧しくこのあたりを整備していたエグイサルの姿はない。だからあまりにも静かだと思ったのだろう。とは言え未だ雑草の生い茂るエントランス前はまだ整備が済んだとは言い切れない状況であることは間違いなく、日が昇れば、またここはエグイサルによる手入れが始まるはずだ。
エグイサルの出す騒音を避けるために、彼はこんな時間にこの付近の花を観察しているのかもしれない。
思案を重ねる私に、彼は不意に尋ねた。
「ところで東条。今は何月だと思う?」
「……体感的には、五月と言ったところかしら」
唐突に思える質問に、少し考えてから答えを返した。しゃがみ込んだまま目線をこちらに向けることもない神代君の後ろ頭を眺める。時計回りの旋毛。そこから伸びる毛髪は、黒と言うよりも僅かに灰がかっている。
緩く結ばれた彼の髪を靡かせる風の冷たさ、日の出や日の入りのタイミング、温度や湿度、そう言った条件から、カレンダーやそういったものの類がなくても何となく今が五月の下旬あたりでないかと推測することはできた。
しかし、神代君は煮え切らないように「うーん」と唸った。切れ長の瞳が、さらに鋭く細められる。
「やっぱりそれくらいだよなあ」
「それがどうかしたの?」
「東条はこの花、知ってるか? 」
彼の指差す先にある橙の野花の名を、脳内で探る。
「……ヤブカンゾウだったかしら」
「そう、ヤブカンゾウ。開花時期を考えたら、ちょっと今が五月とは言い難いんだ」
「……そうだったの。それは不思議ね」
彼の指摘に一瞬考え込む。
「でもこの花の名前なんて、この中じゃ、あんたとゴン太くらいしか分からないんじゃないのかな」
と遠回しな褒め言葉を呟きながら、不意に彼は立ちあがった。そうしてみて、初めて私と目が合った。思考が固まる。細身の体に、女性のような面立ちをした彼は、珍しく表情を緩ませた。あまり身長が変わらないのだと知った。遠目から見たら、彼はきっと華奢な女性に見えただろう。
「ユリ科で、ワスレグサ属の多年草。葉はおひたしにできる。酢味噌で食べると結構美味い」
「……そうなのね。朝食に作りましょうか?」
「いや、葉って言っても若葉なんだ。これはもうだめだな。花、咲いちゃってるし」
「そうなのね。残念だわ」
「いつか頼むよ。ここを出た後とか」
あまりにも当然のように続けられたその言葉に、私は一瞬面食らう。
なぜだろう。私は、皆のために、赤松さんのために、彼の言葉通りに皆でここを出ると誓ったのに。どうして、当然のようにそう呟いた彼を受け入れがたく思っているのだろう。
相槌すらも打てなかった私を不審に思ったのか、神代君は私に視線を向ける。
「東条の作る食事は美味いから」
だけど、不審がられたと思ったのは私の勘違いだったのかもしれない。神代君は目を細めたまま、そう続けた。
彼は、あまり表情を変えない人だと思っていた。誰かと一緒に居ること自体が少なく、口数もあまり多くなければ、何を考えているのかも分からない。
昨日の裁判だって、自分の命がかかっているということを理解していないのではないかと思うほどにほとんど上の空だったし、赤松さんがオシオキされたときですら、泣き叫ぶ仲間を薄皮一枚隔てた安全地帯から漫然と眺めているだけだった。
王馬君とは違う意味での不気味さ。人間性の希薄な人。そしてそれを隠すこともしない。そう思っていたからこそ、私はきっと驚いたのだ。彼の言葉を飲み込むことのできなかった、自分自身にではなく、彼に。
「朝食は、何が良いかしら」
薄く微笑むことで自らの中に芽生えた不信を殺した。尋ねる私に、彼は柔らかな表情のまま、「魚がいい」と続けた。
もしかしたら、彼の表情が穏やかで口数も多かったのは、このとき彼が花に触れていたせいなのかもしれない。
朝食の時間になって他の人たちに紛れる様に食堂にやってきた神代君は、いつもの仏頂面に戻っていた。彼は、獄原君が見つけた石について皆が話し合っている最中も、我関せずと言うように実に丁寧に魚の身を解していたのだった。
私はその横顔に、夢の中の彼を重ねている。
ヤブカンゾウ。別名ワスレグサ。八重咲きで赤に近い橙色の花を咲かせるキスゲ亜科の多年草の一種。開花時期は夏。早朝に咲く。
午後、古いインクや紙の香りが充満する図書室にいた私は、誰かの気配に慌てて眺めていた図鑑を閉じた。もしかしたら神代君かもしれないと思ったが、姿を見せたのは星君だ。
小さく吐いた息は、安堵の色をしていなかっただろうか。私の存在に気が付いた星君と目が合う。
「……あんたがこんなところにいるなんて、珍しいな」
「そうでもないわ。知識の吸収は私の仕事に欠かせないもの」
言いながら、星君の視界に入らないように慎重に植物図鑑を元に戻す。こんなものを眺めていたら、彼は神代君の姿を思い浮かべるに違いない。けれど星君は私に近づかず、別の本棚へと足を向けた。天海君の死体が横たわっていたあたりへ向かうその横顔には、今朝神代君に抱いたほどの既視感はない。
「そいつは悪かった。……俺は、あんたくらい優秀な人間に調べものなんて今更必要ないんじゃないかと思ったんだが、そういう問題でもないんだな」
むしろ向上心ってやつか。そう独り言のように続ける星君は、自然に、しかし確実に私の視界から遠ざかろうとしていた。
人と関わりたくない。そういう態度を取るのは何も、神代君だけではないのだ。星君は他人との接触を極力避けようとして、こうして人気のない所を探す。
本棚の影にすっぽりとその小柄な体を隠すのを見届けてから、私は「お先に失礼するわね」と声をかけて図書室を後にした。背の低い本棚の上で、彼が私に向かって振った小さな手のひらだけが見えた。夢で見た赤子のそれとは似ても似つかないのに、どうして私はあの夏の日に取り残されたような気持ちになるのだろう。
ヤブカンゾウ。開花時期は夏。階段を昇りながら、今自分がこの目で見た花の詳細を思い浮かべる。夢の影を振り払うように。そこから逃れる様に。
あの図鑑にあった写真と、今朝私が見た花は確かに同じものだったように思う。葉の形も、花の色も。勿論、植物学者である神代君がそうだと言うのならばそれは疑いようがないのだろう。
問題は彼も言ったように、開花時期だ。あの本には、開花は七月から八月とあった。五月とは言い難い、そう言った神代君の顔が脳裏を過ぎる。
獄原君はここには虫がいないと言った。そして、神代君は季節外れの花に疑問を抱いている。これらはこの世界について何かを暗示しているのではないだろうか、例えば、例えば? 深く考えようとすると、途端に不気味に思えてくる。
こういう時は何か作業をしている方が、気が紛れる。誰かしらが小腹を空かせる可能性を考える。軽食の準備か、もしくは夕飯の仕込みをするか。いずれにせよ、私が向かう先は食堂だ。
そう考えながらエントランスを横切る際、しかし私はつい視線を外に向けた。そこには数時間前のように、エグイサルの騒音を気に留めることもなく、あの花を具に観察している神代君がいた。
結局その日、最初に軽食を求めに食堂にやって来たのは神代君だった。
以前、彼が甘いものは好きではないと言っていたのを思い出して、コーヒーとサンドイッチを準備する。
彼は、男性にしては食が細い。というか、一口が小さい。のんびりと咀嚼している彼がこの食堂を出て行くのは随分先のことになりそうだ、そう考えると何故か徒労感に襲われる。メイド失格だ。
気を取り直そうと自身を叱責するように一度強く目を閉じ、それから開けると、彼が広げたノートが視界に入ってしまう。そこにはヤブカンゾウのスケッチが、実に繊細なタッチで描かれていた。
一瞬息を飲んだが、彼が何かメモを取っているようだったから、邪魔をしてはいけないと、私は彼の前にコーヒーの注がれたカップを置く。
「……砂糖はいらないわよね。ミルクはどうする?」
「ミルクだけ。ああでも疲れたし、砂糖も入れようかな。……自分でやるよ」
そう言いながらも、彼はまず一口だけブラックのままのコーヒーを口にする。喉仏が上下する様を、見てはいけないと思いながらも見てしまう。
それから神代君はシュガーポットに手を伸ばすと、専用のトングを使って中から一つだけ角砂糖を取り出した。それを一度スプーンの上に乗せてから、琥珀色のコーヒーの中にそっと入れる。くるくるとスプーンでかき混ぜると、ごく自然な所作でそれをカップの奥に置き、それからミルクピッチャーを傾け、今度はスプーンで混ぜずに水流に任せる。自然に混ざり合ったコーヒーに、彼はノートにメモを取りながら口をつけた。
マナーとしては完璧だ。普通の高校生ならば、礼儀としての一口も飲むことをせず、砂糖やミルクをまとめて入れる。シュガーポットを開ければ、トングで取った砂糖を直にコーヒーカップに落とす人だっているだろう。そしてスプーンで混ぜ、ソーサーに立てかける様に置く。だけど彼は、そのどれもをしない。
慣れているのね。そう言いたいのを飲み込む。私は、どうしてか、彼に対してだけ言いたいことを言えない。
「……しかし、変なとこだな」
独り言と、私への語りかけの、丁度あわいにいるような、そんな声音だった。
よく見ると、彼のノートには今朝の花だけでなく、他にもいくつかスケッチとメモがされているようだった。この学園の敷地内に咲いた花や草木の数々を、彼は一つ一つ描いているのだろう。そしてそれらは、恐らくすべての季節から外れている。
おかしな話ね。他の人であるならば、私はきっとそうやって声をかけ、様々な仮説を立て論じ合うことをしたのだろう。
だけど、神代君が相手ではそれができない。その理由を、私は知らない。