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「ダンガンロンパのキャラクターとして存在していた姉の、あの遺影の方が、ずっと生き生きとしているの」



 皮肉なものでと前置いた、あの日の彼女は抜け殻のような目をしていたくせに、目の前にある笑顔だけは穏やかだった。その指先が細かに震えていたこと、目元に酷い隈があったことを除けば、彼女はその死をもう受け入れたのかもしれないと、そう思い違えてしまえただろうくらいには。
 その遺影を見てもピンとこなかったのは、もう十年以上前に会ったきりの年上の幼馴染のことなんて思い出す機会もほとんどなかったせいだろうか。三浦小春は、黒く縁どられた遺影の中で、陰気な目を細めていた。俺の記憶の中では、彼女はもっと美しかったはずだった。
 スマホを操作した彼女の妹は、その画面を俺に見る様に、その華奢な人差し指で示す。三浦本人も、一月に本屋で偶然会った時よりはよほどやつれた面立ちをしていた。
 スマホの画面の中では、セーラー服を着た少女が顔面に大きなバツを描かれて、けれど、その奥で歯を見せて笑っている。見たことがあるな、と思ったのは、峰村が良くSNS上にスクショをあげているせいだろう。なるほど遺骨の手前に置かれた三浦小春の遺影よりも、それはよほど健康的で、幸福を体現したような笑顔だった。
 三浦小春は死んだ。俺は今でも、あの骨壺に彼女が収まっていることを信じられずにいる。








 告別式から二週間経った頃、突然チャイムを鳴らした俺に、三浦は酷く驚いていた。目線を動かして俺が一人かどうかを確認したのは、多分、彼女の中で先日の葬儀での出来事が酷く鮮烈だったせいだ。呼ばれてもいないのに葬儀場に現れて出棺を見送った俺と百田は、彼女からしてみたらきっと相当目を引いただろうから。
 外廊下のどこにも百田の姿がないことに安堵とも落胆ともとれる表情を浮かべてみせた三浦は、「あがっていく?」と、以前の彼女なら到底口にしないだろうことを尋ねてみせた。三浦を縛り付けていたあの母親の影は、このマンションの一室に今はない。二週間前も彼女の母親の姿を見かけなかったが、どうやら小春さん、の死を知って倒れたらしい。



「その時に頭を打っちゃってね、ずっと入院してるの」

「……お父さんは、離婚したんだっけ?」

「うん。葬儀には来てくれたけど、新しい家庭もあるからあんまり頼れなくて。まあ、なんとかできてる」



 祭壇に手を合わせた俺が顔をあげるのを見計らったように、彼女は「良かったら」と続いているリビングに俺を手招いた。遺影と見比べてみても、似ていない姉妹だった。面立ちが母親に似ているのは、妹の三浦芙由子の方だと記憶していたから、小春さんは父親似だったのかもしれない。しかし、離婚したことは聞いていたが、再婚までしていたとは知らなかった。二人の父親のことは、小春さん以上におぼろげだ。
 思ったより元気そうだった、と言うのが、三浦を見ての感想だ。葬儀から二週間が経ったとは言え、もっと悄然としているものだとばかり思っていたから。
 珈琲を俺の前に置いた三浦は、俺が言葉少なであることに多少ならず動じているようだった。会話がほとんど続かないのだから当たり前だ。
 そもそも俺は、三浦とは妙な縁があるというだけで、特別親しいわけではない。高校でその存在を認めたときはそれなりに驚いたけれど、そうして意識してみれば彼女の方だって俺の存在を異物として取り扱っているように思えた。俺のことを避けているのは明白だったから俺もそうしたのに、皮肉なもので、百田と俺と三浦は高校の三年間を同じ教室で過ごすことになる。
 幼馴染として仲が良かった時期がある一方、引っ越してからの数年はなんの音沙汰もないまま、そうして偶然高校で再会しただけの俺達は、最早ただの他人と言って差し支えない。小学生以来一切接点がなかった小春さんが相手なら、なおさらだ。俺が今更死を悼んで手を合わせに来ること自体、三浦に不信感を抱かせるには充分だっただろう。懐かしくも、俺が遊びに来ていた頃の面影の無い部屋。なんでこんなところに居るんだろう。百田に頼まれなければ、こんなことはしてはいまい。








「オレの代わりに、行ってきてくれねぇか」



 バイトのために東京に帰った百田の声が震えていたのを、俺は今でも覚えている。はぐらかすように「どこに」と聞いた。「オレが行ったら、迷惑だと思うから」続けた百田の、答えにもならない曖昧な言葉にため息を吐く。
 年末に、百田は三浦とまだ付き合っていると話していたが、もう随分前から連絡が取れなかったらしい。ごたごたしてるから、って言われたんだけど、あれは多分家のことだったんだな。出棺を見送った帰り道、雪の中を項垂れながら呟いたその言葉に、曖昧に頷いたことを思い起こす。
 これが百田じゃなければ、断った。いや、百田じゃなかったら、或いはその恋人が三浦でなければ、そもそも友人の恋人の姉が自殺したことにすら気が付かなかっただろうし、気が付いたところで俺には関係がないものだと線を引いて連絡を取ることすらも思いつかなかった。だけど、百田だから。腐ってた俺に何の打算もなく声をかけてくれた百田だったから、だから俺は、あの夏に俺の知る限りのことを教えたのだ。苦悩などないまま、百田に幸せになってほしい一心で。つまり、別れるなら早い方がいいという算段の下。
 正直、何も三浦でなくたってとは思う。面倒な家庭だ。俺の手の甲を見た親が時折あの人を思い出して苦い顔をするくらいには。だけど、俺達は間もなく成人する。親の呪縛から解き放たれていい頃合いだし、百田がそこまで執着するなら、三浦に責任を持つ覚悟すらもあるというのなら、俺は止めない。百田の満足がいくまで、その助けくらいはしてやりたい。



「分かった。まあ母親に追い返されるかもしれないけど、三浦の顔くらいは見れるだろうし。……百田が心配してたって言えばいい?」

「……あ、いや、オレの名前はいい、出さなくて」



 歯切れの悪いその言葉に頷いた。だけど、三浦のことだから俺が百田の代理であることにはすぐに気が付くだろう。百田もそれを、察していたはずだった。








「明石くんのお母さんは元気?」



 沈黙から逃れる様に三浦が尋ねる。俺が曖昧に頷けば、会話は終わる。俺のマグカップにちらりと目線をやって、珈琲がほとんど減っていないことを確認した三浦は、そのまま小さく息を吐いた。気持ちを切り替えるためだったのだろうと気が付いたのは、その唇がやがて重々しく開き、双眸がぎこちなく俺を見つめてからだ。
 三浦小春の死から二週間。母親は倒れ、父親もいない、そんな中一人で必死に色んなことを片付けてきたのだろう。姉の死と向き合いながら。



「明石くん」



 親戚や、姉の友人、勿論あの母親は論外だ。きっと彼女は、誰にも打ち明けられなかった。自分や姉に近ければ近いほど慎重にならざるを得ない。その点で、俺と言う存在は恐らく最適だったのだ。
 自分が抱えたものを吐き出すための穴として。



「独り言だから、気にしないでほしいんだけど」



 だけど俺は彼女に恩義を感じているわけではないから、立てる操もない。三浦が意を決したような表情で語りだしたその話を、俺は悉く百田に伝えることになる。
 誰にも言わないようにと念を押さなかった彼女に責任があるとは言わないが、もしも三浦がこの時もう少し冷静であったなら、きっと名前を出して、百田には伝えるなと言ったはずだ。いや、わざわざ口にせずとも、事の大きさに他言無用であることを察してもらえると思ったのかもしれない。
 三浦はぽつりぽつりと語りだした。一人で抱えるには重すぎる現実を、まるで俺に半分預けようとでもするように、慎重に。








 わかるよ。と建前で口にすることは出来るし、実際そう思っている部分が少しもないわけではない。そりゃあ、逃げたくもなる。二十一年と少し。その年月は姉の身体を擦り減らし、とうとう最後の芯を折ってしまったのだろう。頑張った方だ。
 お姉ちゃんが本来どれだけの熱量を抱えて生きていたか、そして、ダンガンロンパをどれだけ愛していたか、そういうことを知っていたからこそ、さもありなん、と思う。どこか他人事のように。そうやって線引きしていないと、私まで狂ってしまいそうだった。ふとした時に口を吐いて出てしまいそうになる「いいなあ」は、まるで呪いだ。
 東京の警察からの報せを受けた母は倒れた。その時に強く頭を打ったから、今も意識は戻らないままだ。このまま姉のところに行くことになるのかどうかは分からない。私は一人になるのかもしれない。実感はなかった。
 明石くんが家を訪れたとき、私はそれまでの弔問客と同じような対応をするつもりでいた。
 なのに、なかなか帰ろうとしなかった彼に、秘めていたことを打ち明けてしまったのはなぜだろう。
 場を持たせるためだったのか、救いを求めたのか、自分の苦悩を知ってほしかったのか、関係のないこの人に。
 明石くんの双眸は相変わらず低い温度をしていて、この時ばかりは、私はそれを、何よりも今の自分に必要なものだと感じていた。








 お姉ちゃんが死んで、母が倒れた。お父さんが駆けつけて色んな手続きをしてくれたけれど、おかげで張りつめていた糸がぶつんと切れてしまった。あんな人でも、長い年月を生きているだけあって頼りにはなるのだ。通夜や葬儀、母の入院の件で父に動いてもらっている間、私は何もできずにお姉ちゃんの部屋でぼんやりとしていた。湯灌なんか見たくなかった。お姉ちゃんの遺体は、思ったよりも綺麗だったけれど。
 殺風景な部屋。ダンガンロンパに関するファイルは、一見授業か何かのプリントに見える様にまとめられてファイリングされていたから、クローゼットの中の段ボールにしまいこんでしまいさえすれば、母に見つかることはない。お姉ちゃんが内緒話をするようにそう言っていたのを、ふと思い出す。
 そこを開けたのは、どうしてか。
 吸い寄せられるようだった。そこには何らかの意志が働いていたと言ってすらよかった。果たして私はそれを見つけることになる。



「芙由子へ」



 開いた瞬間そう書かれた紙切れを見つけたときは第二の遺書かと思ったけれど、そこに書かれていた文章は、遺書と呼ぶには随分と素っ気ないものだった。だけど、故人の遺志が残されているという点で言えば、それは遺書に相違なかったのだ。息が止まる。



「このファイルを全て処分しておいてください」



 ダンガンロンパなんか好きじゃなかった。
 友達の会話に入るためのネタでしかなかったし、私はもう、あの頃の友達が好きだった超高校級の何とかくんの名前も覚えていない。ただ鮮明なのは女の子の首を飛ばしたギロチンの、あの鈍い光だけ。趣味が悪い、酷い番組、あんなの好きな人の気がしれない。クラスメイトの輪の中で笑いながら、本当は、そんなことを思っていたのだ。
 全て処分しておいてくれと、その言葉が引っかかって、スマホを開いて調べてみたら、52作目となるダンガンロンパV2は、つい半月前にスタートしたばかりだった。それを見て、頭の奥でぴんと糸が張られたような気になる。家を出たお姉ちゃんが戻らなかったのが一月の終わり。その数日後に、V2は始まっている。
 放送開始から程なくして、姉は死んだ。死ぬだろうか? あれだけ好きだったダンガンロンパの新作の、放送後でも前でもなく、始まったばかりのタイミングで。
 他殺と疑ったわけではない。実際、自殺現場にはこれよりももう少し長い遺書が残されていた。間違いなく姉の書いたものだった。



「……え?」



 不信感を抑えることができないままに公式サイトを眺めて、息を飲んだ。
 突発的にダンガンロンパのファイルがまとめられた段ボールを漁る。紛れ込んだ一冊の大学ノートを開いた。ダンガンロンパに出るとしたら、なんていう姉の空想が、そこには詰まっている。こんな才能を持って、制服はこう、異性の好みや食べ物の好き嫌い、足のサイズ、瞳の色、顔の傷は猫に引っかかれたせい。そこには不必要なものまで仔細がしっかり描かれた、架空の超高校級の少年少女たちがいる。
 私は既視感を覚えたのだ。
 V2の公式サイトにあった「キャラクター」の一人、「辻伊織」
 ノートの後ろから五枚目、まるでコピーでもしたかのようにそっくりな少女が、そこにいる。



「おねえちゃん」



 どっちを撫でたらいいのかわからない、私の指は、姉の部屋のカーペットの端を握りしめていた。








 ダンガンロンパは最終回でもない限りは多少の編集を行った上で放送される。
 そのせいで、収録から放送は大体半日から二日くらいずれてるって言われてるけど、そういうのは中の人じゃなきゃわからないよね、と生前の姉が言っていた。その噂が正確だったなら、計算は合う。姉の死から一日遅れて、辻伊織は死んでいた。
 明石くんは相槌すらも打たなかった。テーブルに肘を乗せて、私の話を聞いているんだかいないんだかも分からない。感情の薄い双眸が無機物のようで、だから、私は淡々と話すことができたのかもしれない。



「姉の鞄の中に遺書があって」



 そこに書かれていた言葉を、私は空でも言うことができる。「どうか世界がこれからも連綿と続いていきますように」。最初は意味が分からなくて放っていた。だけど、お姉ちゃんにとってダンガンロンパが全てだった。それを踏まえてみれば、その「世界」がどこを指しているのかなんて明白だ。
 世界が続きますように。ファイルを処分しておいてほしい。二つの遺志が伝えるのは、「自分の死をきっかけにダンガンロンパが終わることがありませんように」と言う願いだ。姉は、それを私に託した。
 ダンガンロンパに出演した女性の自殺。マスコミが食いつかないわけがない。その結果ダンガンロンパ自体が終わってしまうことだってあり得るだろう。お姉ちゃんはそれを危惧していたのだ。自分の愛した世界が、自分のせいで消えることなどあってはならないと。
 私が処分したファイルは、これまでで半分くらいだ。日々の生活を送りながら、ファイルの中からプリント然としたそれを一枚ずつ抜き取り、まとめてシュレッダーにかける。濃い色の袋に一度入れてから、ゴミの日に出す。ファイルの方もそうした。何度かこの部屋で見せてもらったことはあったけれど、見覚えのあるものが紛れこんでいたとしても、それに思い出なんていうほどの大層なものはない。だけど、姉の書きこみを見るたびに、眼球の奥がはっきりと痛む。
 それを飲み込むように、馬鹿みたいだと思う。何で私がこんなことを。
 ダンガンロンパが終わろうが終わるまいが私にはどうでもいい。だから、このまま放っておいたって良かった。いつか誰かに、姉と辻伊織が等式で結ばれたところで痛くもかゆくもない。
 私はダンガンロンパが嫌いだ。終わるなら終わればいい。だけど、考えてしまうのだ。
 そのためにお姉ちゃんの死が掘り起こされるのは、嫌だな。



「……おい」



 明石くんが、ぱ、と目を見開いたような気がした。良く見えなかった。ただ、今まで微動だにすらしなかったその頭蓋が、僅かに上を向いたのだけはその輪郭の挙動で分かったのだ。
 手の甲の上に、生温かいものが落ちた。何かが天井から降ってきたのだろうかと思ったけれど、違った。私は泣いていたのだった。
 姉の死を聞かされたときも、その遺体を見た時も、仮出棺も、通夜も葬儀も、火葬のときだって。
 私は泣かなかった。実感がなかった。骨になった姉を見たとき、これが誰のものなのか分からなかった。美しい遺体だった。大動脈の破裂と腰骨の骨折。眠っているようだった。美しい肌をしていた。紛れもない姉だったけれど、自分が何を前にしているのか分からなかった。
 遺影を持った。膝で叩き割りたくなった。もっときれいな写真があったのに。お父さんが勝手に選んだ。自分と一緒に映っていた最後の写真から。自分勝手な連中ばかりだ。わたしたちはいつも奪われる。母から、父から、大人から。なんでこっちが隠れなきゃいけないんだよ、そう思うのに、私はお姉ちゃんの遺言通り、今日もファイルを燃やしている。



「ダンガンロンパなんか終わっちゃえばいい」



 父にも母にも大人たちにも復讐できない弱虫の私は、いつも自分以外の誰かが何かを変えてくれることをばかり望んでしまう。
 明石くんは、私の言葉に何も答えてくれなかった。それで良かった。だから私は、彼を選んだのだから。物言わぬ彼を受け皿にして、私は呪いの言葉を吐き出し続ける。お姉ちゃん、お姉ちゃん好きだったよ。死んじゃってから思い出すなんて、馬鹿だね。
 ダンガンロンパに出演したことで、お姉ちゃんの望みが叶ったというのなら、やっぱりそんなもの、最初からなければよかった。
 壊れてしまえ、誰か、どうか、壊してくれ。
 本当に壊してほしかったのは、果たしてダンガンロンパだったのだろうか。私はその答えから、目を逸らし続けている。








 だけど、あなたを巻きこむつもりなんて、ただの一度もなかったのだ。
 そのために私は、あなたの連絡先を消したのだから。


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