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くだらない人生だったと思いたくなかった。
七十億も人間がいる地球で一億そこらの人口しかない、平和ボケしたこの国のこの時代に産まれたこと自体がソシャゲのガチャで言うSSRだって思うけど、親を選べないのは痛恨の極みだ。世の中にはうちよりまともな親の方が多いはずなのに、よりによって、私は病的なまでに子供に執着するような母を引いてしまった。病的というか、そもそも病気なんだと思う。それに関してはまだ抵抗の意志があった中学の時に指摘したら吹っ飛ぶほど殴られたから、放っておこうと決めたけど。
私に比べれば、妹の芙由子はまだ利口だ。私と言う存在を反面教師にして、母の地雷がどこに埋まっているのかをきちんと把握している。たまに不慮の事故で踏み抜いてしまうことはあれど、その回数は私よりもぐっと少ない。要領のいい子なのだ。私と違って。
高校生になって明らかな反抗心を見せることをやめた私は、何も母の思い描く「良い娘」になったわけではなかった。絶望したのだ。芙由子は知らなかっただろう。高校に入学した当時の私に付き合っている人がいたこと。母にバレて、ものの二カ月で別れさせられたこと。
だから、まあ、芙由子が高校を卒業したくらいに恋人ができたとき(勿論芙由子はそれを私や母に漏らしはしなかったけれど、そういうのって、雰囲気とかで分かるものだ。あの子は気が付いていなかったかもしれないけれど、たまに、夜に誰かと話している声が聴こえていたから)母が私の時とは違ってその関係をすぐに破壊しようとしなかったことは、今でもちょっと恨んでる。
この八月に、芙由子がようやく「あんたも彼氏に騙されてるんだよ」って噛みつかれたときはちょっとざまあみろって思った。でも、思った自分が情けなくなった。だって、悪いのは私でも芙由子でもなく母だ。そんなことないよって庇ってあげたかったけれど、直前に四日ほど家を無断で出てしまった手前、面倒事は避けたくて飲み込んだ。今でもあの時のことは、後悔している。少しだけ。
母への反抗心を諦めに変換したわけではない。私はあの時私が別れるに至った彼のことを、子供なりにではあったけれど、愛していた。優しい人だった。こんな風に変形してしまうくらいに締め付けられた私を好きだと言ってくれる人だった。だから、その人に瓜二つの男の子をネットで見つけたときに、私はすっかり目を奪われてしまったのだ。
アイドルや俳優だったら、この恋は成就しないから、万が一母にバレても痛くはない。そういう腹積もりがなかったわけではないけれど、その子はアイドルでも俳優でもなかった。ダンガンロンパという、視聴者参加型のデスゲームの出演者だったのだ。そう言えば、クラスでも誰かが話していた気がする。ヒューマンドラマって感じで、たまにグロイけどめちゃくちゃ泣けるんだよね。本当は高校生とかは見ちゃダメなんだけど、見ようと思えばいくらでも見れるんだよ。得意の内緒話みたいに、まだ幼さの残る目元を細めて。
デスゲームという言葉の持つ残虐性に惹かれて興味本意で調べてみたけれど、ダンガンロンパは実際に生身の身体で殺し合うのではなくて、アバターを使った上で、仮想空間内で行われるものらしい。要するにゲームと一緒だ。自らが出演を志願したことすらも忘れて、彼らは作成したアバターを生身のものと思い込み、自らのため、或いはそこで出会った誰かのために殺し合う。最後の二人になるまで、もしくは、その中に紛れ込んだ「首謀者」を炙り出してその世界の真実を明らかにするまで。
ああ、いいな、と思ったのだ。
殺し合うこと自体がではなく、自分以外の誰かになれること。それに私は酷く惹かれた。登場人物はみんな個性的で、悲しい過去を持っていたり、明るい未来を夢見ていたりした。その世界で彼らは必死に生きていた。「ただの見世物じゃん」「結局虚無だよね」。アンチスレではそういう言葉が飛び交っているけれど、その虚無にこそ縋りたい。
私にとっては私の人生こそが虚無だ。
何か夢中になれることがあれば、母の呪いは蚊に刺されたくらいのものだ。時折思い出したように痒くなるけれど、刺されたってもう気が付かない。
母の望み通り地元の大学を受験した。私の影に隠れた芙由子が、二年後私の後を追うように。恨んでなんかいなかった。私はたった一人の妹を大切に思っていたけれど、でも、私が殴られた分、お前も殴られればいいと思ってしまうのも事実だ。
私の卒業から二年が経って、芙由子は私と同じ大学に入学を決めた。本当は東京に行きたかったんじゃないの、と、さりげなく聞いてみたら、うん、そうかな、なんでもいいやと、本当にどうでもよさそうな声で呟いた。芙由子に恋人ができたのはそのあとのことだったけれど、もしも東京に進学したらしい彼とあと半年早く付き合っていたら、生来の要領の良さでこの家を抜け出していたのかもしれない。それを母が許したかは分からないけれど。
でも、芙由子が残ってくれて助かった。これなら何があってもまあ、心配はいらないだろう。
届いたメールを、叫びだしたいほどの高揚を押し殺して、暗記したのち削除する。母に見つかる前に。
くだらない人生だったと思いたくなかった。
だけど私の人生は酷いもんだったな。やりたいことを否定され、殴られ笑われ、事情を知る近所の人たちからは遠巻きにされて、小中の子たちに合わせる顔がなくて成人式にも行けなかった。
私はだから、やっぱり私じゃない誰かになりたい。自分のためでもいい、誰かのためでもいい、命を懸けてもいいって思える位の強い衝動でもって生きたい。母の影などないままに。別の人生を歩みたい。作られたものでも構わない。
一度でいいから夢を見たいのだ。
その訴えが、私の合否を決めた。
あれは八月だった。モノクマビルと呼ばれる白黒の建物から外に出たとき、足元には蝉の死骸が転がっていた。なぜか私は、ありふれたその光景だけを眦に焼き付けていた。
「伊織ちゃん」
例え仮想空間であっても、自分の命を懸けても生かしたいと、そう思えた女の子に出会えたことは、だから、神さまからの同情だったんだろう。
「私」の名前を呼び破顔する、同じセーラー服を纏った。妹へのドナー提供を控えた辻伊織を逃がそうとしてくれた少女。私はあなただけは何があっても守ろうと思ったのだ。心の底から、心の底から。
鰐に四肢を食いちぎられ絶命した少女だった何かがカプセルの中で目を覚ました時、私は確かに泣いていた。
私はこの瞬間に至っても、何も手に入れられない三浦小春ではなく、親友を愛した辻伊織だった。
こちらが提示できるのは作り上げたアバターの容姿だけであって、生い立ちや性格と言った設定はダンガンロンパサイド一任される。もしかしたら、夏にあった面接から、多少は考慮される何かがあったのかもしれないけれど。私がに執着したのは、自分の中に孝介くんっていう、別れの手紙すらも渡せなかった幼馴染の存在があったせいかもしれない、とあり得ない空想をしながら、重たい身体を引き摺るように階段を上る。私が眠っていたのはほんの数日の間だけだったけれど、それでも体力は衰えているものだ。大したものの入っていないバッグすら、今は重い。
は今も生きている。モニターで、天海くんが彼女を気にかけてくれるところだけは見たから、とりあえずは安心だろう。ダンガンロンパファンとしては最後まで見届けたかったけれど、辻伊織としては、それはもうできないから。――だからこれでおしまいだ。最初からそう決めていた。
上りきったビルの屋上で、細く長い息を吐く。東京の空気は濁って汚いけれど、冬でも空が青い。逃げられなかったあの雪国とは、何もかもが違う。
スマホは電源を切ったまま、開けなかった。夏のときみたいに、メールも不在通知もすごい数になっているのは目に見えているから。書類審査を通って、理由も告げずに面接に行った半年前。それ自体は一日で終わったのに、帰りたくなくて、持ってきたお金がつきるまで東京で過ごした。帰った時の、安堵したような芙由子の顔が脳裏を過ぎったけれど、私はそれから目を逸らす。そんなふうに、逃げてばかりだ。不甲斐ないお姉ちゃんで、ごめん。
「それほどくだらない人生ではなかったな」
呟いた声は、スカスカで、思いの外中身がなかった。最後まで締まらない。そう笑いながら、私は靴を脱いで、鞄を隣に置く。
網膜に焼き付けるように、の横顔を浮かべる。それと同じくらいの濃度で、あの夏に見た蝉の死骸を思い出した。七年の間地面で眠りにつき、夢を叶えて地に落ちる虫。ああそうだ。あれは私の未来だったな。
辻伊織らしく乾いた笑いを浮かべたあと、私は乗り越えた柵の向こうに向かって、大きく飛んだ。
長い春休みを迎えて間もない頃だった。
「ニュース見た?」
明石から届いたそのメッセージの意図が掴めず、熊だか猫が首を傾げているスタンプを送って返す。明石にしては珍しく、既読がついた直後に返信が来た。「三浦小春で検索して。それ、三浦の姉ちゃんだから」色んなものを、多分、意識して削ぎ落としたのだろう。明石の指示に従って検索する。訳が分からなかったのに、嫌な予感だけは拭えなかった。何も知らないうちから腹が痛かった。
東京都××区の雑居ビルにて飛び降りか。死亡したのは行方不明となっていたA県の女子大生、三浦小春さんと見られる。
吸いこんだ冬の酸素が、肺に突き刺さる。
その日は東京では見ないような牡丹雪が降っていた。
大きな雪片は彼女の黒く長い髪に絡まるようだった。やつれた頬に窪んだ眼窩、身体のサイズに合わない喪服、遺影を胸に抱えた彼女は、告別式に呼ばれてもいないはずのオレと明石の姿を弔問客の中に見つけると、何も言わずに目を落とした。