6





 三浦と連絡が取れないまま冬になった。
 相変わらずメッセージアプリは退出状態のまま、SNSも何の動きもなく、メールの返事もない。そんな状態で会う約束を取り付けることなんて、勿論不可能だった。
 夏とは違って帰ってきた地元の駅のホームがくすんで見えるのは、冬の天気のせいだろうか。皮膚を刺す鋭い空気。この街は、一年の半分以上が雲で覆われている。








 年末年始の帰省の際に、約束していた通り大学入試を直前に控えた久川を除いた、いつものメンバーで会った。
 峰村とはSNSで繋がってるから、特別久しぶりという気もしない。どこにいたって味の変わらないハンバーガーショップでコーラを音を立てて啜りながら、思いついたことをべらべらと喋っている峰村に、オレは相槌を打ったり、時折声をあげて笑ったりしていた。昔怪我をしたって言う右手の甲の消えない古傷を撫でながら、明石は時折そんなオレたちを言葉少なに見つめている。ここに久川がいたら、益々煩くなるのだ。一年前と変わらない。変化と言ったら、峰村の髪の色がちょっと奇抜な色になっていたことくらいだ。
 高校を卒業して別々の進路に進んで、だけどオレたちは気が合うからこうして今も尚繋がっていて、それは何も不思議なことじゃない。
 昼飯を食い終わった後はカラオケに行って、そこでも喋って、笑って。カラオケにした意味ねえよなって峰村が気が付いて、最近のお勧め、なんて言いながら一年前にあいつが好んで聞いていたグループの新譜を入れてくるから、ほんとに変わり映えねえなって、悪い意味ではなくそう思う。居心地は良かったはずだ。だけど、どうしたって三浦の存在が脳裏を過ぎる。相談してもよかったのかもしれない。だけど、オレはどうしたってこいつらに三浦の話を切り出せなかった。
 なあ、実は今、こういう状況なんだよ、どうしたらいいと思う? その言葉が、誰に向けても吐き出せない。同情されるのが恐ろしかった。現実を突き付けられたくなかった。お前たちはもう終わっているんじゃないかと、オレたちのことを何も知らない奴らにも、ちょっとは知ってるこいつらにも、誰にも、否定されたくなかったのだ。笑顔の奥にしまいこんで、焦燥を飲み込む。
 冬は暗くなるのが早い。まだ遅い時間でもないのに店を出れば真っ暗になっていて、都会と違って少ない選択肢の中から、その辺のファミレスで飯を食うことにした。



「あと一年、いや、百田は四月生まれだっけ? そしたら居酒屋とか行けるもんな、来年はファミレスとかじゃなくてさ、そう言うとこ行こうぜ」

「ウオマスとか?」

「あ、言おうと思ったのに!」



 学校の最寄駅の目の前にあったチェーン店の居酒屋の名前を口にする明石と峰村に笑いながら、来年自分は、いや、オレたちはどうなっているんだろうと考える。何の答えも出ないまま、付き合っているんだかいないんだか分からないような遠距離恋愛を続けているんだろうか。姿の見えない相手とのそれは、果たして遠距離恋愛と呼んでもいいのか甚だ疑問ではあったけれど。
 帰る方向がまるきり真逆の峰村と手を振って別れた。自転車を引いて歩く明石と並んで帰路につく。三浦と幼馴染なんだと告白された夜からたった四カ月しか経ってないのに、あの時とは随分状況が変わってしまった。
 明石は相変わらずそんなに口数が多くなくて、二人でいると会話が途切れがちになってしまう。店から流れる音楽や、すれ違う人たちの会話でオレたちの隙間は埋まっていく。このまま家に帰って、年末年始をだらだらと過ごして、そうしてオレは東京へ帰る。だけど、どうしてオレはすれ違う女の子の中に三浦の姿がないかを探しているんだろう。



「最近、三浦とはどうなの?」



 だから、不意に明石がそう切り出したとき、オレは何の心構えもしていなかったのだ。
 動揺を顔に出さないように努めた。だけど、すぐに声が出ない。一瞬、やましい考えが浮かんだ。三浦の家がどこにあるか知っているはずのこいつに縋りついたら、会うくらいは出来るんだろうか、と。だけどこいつは、三浦とは距離を置いているみたいだった。三浦に対して、と言うよりは彼女の母親に何かしら思うところがあるのは目に見えていて、そんな奴に間を取り持ってもらうことなんて出来ないだろうし、頼めない。
 三浦とはどうなの。明石の、抑揚のない、何てことないように形作られた声音がオレを容赦なく殴ったけれど、オレの答えなんて決まっていた。



「……付き合ってるよ」



 例え連絡が取れなくても、オレは別れたつもりはない。明石は「へえ」と言ったきり、何も言わなかった。見透かしたような瞳から逃れる様に目線を道路標識に向ける。一方通行の矢印にすら、過去には戻れないと言われているような気になって、じくりと腹の底が痛む。
 帰りの電車の中で、返事は来ないと知りながらも三浦にメールを送った。年明けの、五日まではこっちにいる。もしだったら、飯でも行かないか? 何度も作りなおして出来上がったのは何とも素っ気ない文面だったけれど、勢いで送ってしまった。宛先不明でそれがそのまま戻ってくることはなかったけれど、返事は東京に戻ってからも、ないままだった。








 あの日のことは良く覚えている。
 一月の終わりで、朝から小雨が降っていた。「ちょっと出かけてくるね」そう言って私の部屋をノックしたお姉ちゃんに、「うん」と目も合わせずに返事をした。私はこの時、一カ月前に届いた百田くんからのメールをぼんやりと眺めていたのだ。彼から届いたメールに返事が出来ないまま、一カ月も経ってしまった。有効期限の切れたチケットをいつまでも捨てられない私はきっと滑稽だけど、手放すことはまだできそうにない。
 私が握っていた糸の先が地面に落ちたかどうかを私は知らない。SNSだけは定期的に覗いていたのは、もしかしたら、自分自身にとどめを刺すためだったのだろうか。女の子と一緒に映っている写真がアップされていたら、そういうことだ、諦めろと、震える指でフリップした。年末に、孝介くんと峰村くんと会ったと言う記事から、更新はされていなかった。安堵している自分自身に何とも言えない気持ちになる。未練は、焼いて殺すべきだ。
 お母さんの私たちへの執着がやや軟化したのはこの少し前のことで、一言断れば休日の外出にもさほど文句を言われなくなっていた。だから気を紛らわせるように、お姉ちゃんが出かけた日の午後、本屋に出かけた。
 そこで、孝介くんに出会ったのだ。
 偶然だった。駅の中の本屋で、会計を終えた男性に、鞄がぶつかってしまった。謝ろうと顔をあげたとき、それが孝介くんだと気が付いたのだ。
 孝介くんとは大学は同じだけど学部が違う。キャンパス内でも何度か見かけていたけれど、私も彼も、わざわざ話しかけることはしてこなかった。今だって、もしもお互いのどちらかが先にその存在に気が付いていたら、ばれないようにそっとその場を立ち去ったのだろう。孝介くんは、私のことを避けている。高校生から、いや、もっと前から、ずっと。
 だけど、至近距離で目が合って、「あ」と言ってしまった。孝介くんは一人で、私もそうだった。
 孝介くんは眼鏡の奥の双眸をすっと細めた。その目が、高校のときから苦手だった。まるで他人との間に膜を張ったように、嫌悪や拒否といった色をその瞳に滲ませるのだ。でも、百田くんはその膜を、上手く壊さないように、厚くしないように、本当に上手い距離を保って彼に接していたと思う。そこには同情もお節介もなかった。それを感じ取っていたのは、きっと私だけではない。
 声をあげてしまったけれど、そのまま小さく会釈をして立ち去ろうとしたのだ。だけど、孝介くんが「ねえ」と、彼にほとんど背を向けていた私に声をかけた。
 何を言われるのか見当もつかなくて、恐る恐る振り向く。視線の先の孝介くんは、やっぱり感情が読み取りにくい、かたい表情をしている。



「えっと、な、なに? こうす……明石くん」

「百田と会った?」

「え?」



 一瞬で身体が冷えたような心地になる。
 百田くんと会ったか、その問いに、なんと答えるべきかが分からない。孝介くんは百田くんと年末に会ってるはずだ。なら、そのとき、何かを聞いたのだろうか。身構えたまま、私は一歩だけ彼と距離を取る。
 もしもこのときスマホの振動に気が付かなければ、また、何かが変わったのかもしれない。孝介くんときちんと話が出来ていたら、かけ違えていたボタンは元に戻ったのかもしれない。だけどそんなの全部、仮定の話だ。
 三浦芙由子として生まれた私は、この枷を取り外す方法を知らない。あの巣を燃やすチャンスはきっともうない。
 だけど最後のチャンスがいつだったか、私は今もわからないのだ。



「あ、ごめん、電話」



 コートのポケットからスマホを取り出して、背を向けるのは気が引けたから、身体を半分だけ横に向ける。だけど、孝介くんは立ち去る気配がなかった。ちょっとした抵抗感を覚えながらも、スマホに浮かんだ母の名前にさらに気分が暗くなる。本屋に行くって言ったのに。苛立ちには何枚も布をかけて、なるべく小さな声で「はい、なに?」とスマホを耳に当てながら尋ねた。
 その先で、ヒステリックな声が響いていたのは、いつものことだった。
 いつものことだったはずなのに、私たちはいつから戻れなくなっていたのだろう。








 電話に出た三浦は明らかに表情を変えた。
 抑えていたはずの声は僅かに上擦り、雑誌を読んでいた女性がちらりと彼女に目線を向けたのが分かる。普段ならばそういうのを極端に嫌うはずの三浦は、しかしそれどころではなかったのだろう。「は?」と何度か繰り返した後、「いや、どこにとは聞いてない」と眉を寄せた。



「わかった、帰るよ。三十分後には家に着くから」



 ため息交じり彼女がそう言ったとき、薄々勘付いてはいたがその通話の相手が彼女の家の者、恐らく母親であろうことを察した。あの支配者は、俺達が大学生になった今も健在らしい。
 百田の態度の変化から、三浦と上手くいっていないのではないかとあたりをつけていたが、この調子だと当たらずとも遠からずと言ったところだろう。
 夏に、俺が余計なことを言ったせいだろうか。当人たちの問題なのに、三浦が自分の親について打ち明ける前に俺が口を出してしまったのはまずかったかもしれないと気にしていたから、年末に百田からまだ付き合っている旨を聞いたときは、多少なり罪悪感が薄れたのだ。だけど、このままでは時間の問題かもしれない。三浦は、去年の今頃より頬のあたりが痩せているように見えた。
 正直、俺は三浦のことはどうでもいい。確かに幼馴染ではあるけれど、仲が良かったのは十年も前のことだし、その頃の記憶なんて最早曖昧だ。高校に入って同じ教室に居た「三浦」があの「芙由子ちゃん」であることに気が付いたのだって、二学期が始まってからだったのだから。だけど、百田が彼女を大切にしたいというのだったら、百田のために自分に出来ることはしてやりたいとは思うのだ。
 通話を切ったスマホをポケットに入れた三浦は、俺の方に視線を向けると「じゃあ、私はこれで」とやけに強張った笑顔を浮かべた。それが何となく、まだ付き合っていると言ったときの百田が浮かべた表情に似ているような気がした。そうでなかったら、俺が三浦を呼び止めることなんて、きっとない。



「ねえ」



 一度は背を向けた三浦が振り向く。



「何があったの?」

「え?」

「電話」



 少し、踏み込みすぎただろうか。一瞬怪訝な表情を浮かべた三浦は、逡巡するように目線を俺の手の甲に落とすと、それから、「お姉ちゃんが時間になっても帰ってこないって」と口早に呟いた。まるで、恥じ入るような声で。
 帰ってこないって、まだ昼の三時だけど。疑問が顔に出てしまったのか、三浦は益々所在なさげに俯いた。だけど、彼女の羞恥が、帰ってこない姉と、電話の相手だった母親のどちらに向けられたものだったのかは、付き合いの長いようで浅い俺には分からない。



「ごめんね、急ぐから」



 三浦はとうとう踵を返して駆け出した。肩からかけたショルダーバックが跳ねる。雑踏と呼ぶには少し足りない通行人たちに飲み込まれて小さくなっていく。
 俺はその後ろ姿を見送りながら、数カ月前、百田が俺に送った猫だか熊だかも分からないスタンプの間抜けな笑顔を思い出していた。


PREV BACK NEXT