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八月の上旬にお姉ちゃんは姿を消した。
手紙一つを置いたきり、一切の連絡がなかったから、お母さんは酷く怒っていた。心配もしていたとは思う。でも、なんていうか、自分を心配させていることに対して怒っている、という表現がきっと的確で、お母さんはものすごくイライラしていた。
「ちょっとしたら帰ってきます。心配しないで」
その「ちょっと」がどれくらいかを、きちんと書いておいてくれればこんなことにはならなかったんだろうけれど。
警察に連絡して大事になることは避けたかったらしいお母さんは、何度も何度もお姉ちゃんに連絡をしようと試みたけれど、失踪した人間のスマホに電源が入っているわけがない。交友関係から洗おうとしても、お姉ちゃんと仲のいい友達を、私もお母さんも知らなかった。
せめて何か他に痕跡はないかと部屋に入ろうとしたから、必死で止めた。さすがにそれはプライバシーの侵害だよって言ったら物を投げられたけど、それでお姉ちゃんの誇りが守られるなら安いもんだ。なんて綺麗言を言っているけれど、今後同じように私の部屋に入られることを避けるためだ。お母さんは、一週間経っても連絡が来なかったら部屋に入るって私に宣言した。心配していることも含めてお姉ちゃんにメッセージを送ったけれど、既読マークはやっぱりつかなかった。
お姉ちゃんの不在の間、私はその代わりのように縛り付けられた。どんなにこれまでが従順であっても、この状況下ではそれがプラスに働くことはほとんどない。
サークルもバイトも認められていなかったから、大学が夏休みに入ってしまえば家にいるくらいしかなかった。本屋に行くってだけでもお母さんは私を自分の運転する車に乗せた。助手席では延々とお姉ちゃんの愚痴を聞かされた。もしもその辺を歩いてたら言うのよ、なんて言われていたから歩道を眺めるふりをしていたけれど、こんなところでうろうろしてるわけがない。少なくとも、私だったらもっと遠くに行く。例え「ちょっとしたら帰ってくる」ものであっても。
部屋に籠っていれば呼ばれる。居間にいらっしゃい。良いお茶があるの。なんて言うお母さんは、その暗い眼球をじっと私に向けていた。スマホが振動するだけでお姉ちゃんかと尋ねられるのは本当に煩わしくて、私はSNSもメッセージアプリも、全部通知を切った。
私がお姉ちゃんの居場所を知っては居まいか、直接的にも聞かれたし、遠回しにも聞かれた。一日に何回も。だけど、知らないし、連絡だって一度もないのだ。息苦しくなって逃げたに違いない。夏休みだから余計に。
お姉ちゃんは多分嫌になっちゃったんだよ、お母さん。真面目な人だから、大学が始まる前には戻ってくる。もたつくどら焼きを咀嚼しながら、細切れにした怒りの行き場を探しているお母さんを視界の端に入れる。
これじゃあ駄目だなと私は思った。
もうすぐ百田くんが帰ってくる日だ。だけど、どんな嘘や建前で固めても、私は今、この家を出られる気がしない。
お姉ちゃんが家に戻ってきたのは、失踪から四日目の夜だった。
まだ玄関の扉が半分は開いていたっていうのにお母さんはお姉ちゃんの首を絞めかねない勢いで飛びかかって、私は慌ててそれを引きはがす。待って、お母さん、ほら、まず話を聞かないと。そう言って落ち着かせて、お母さんの頭越しにちょっとだけ日焼けしたお姉ちゃんを見た。
「ごめん、ごめんねお母さん、芙由子。ちょっとね、友達のところに行ってきたんだ。お土産買ってきたから、ね?」
そんなので機嫌を取れるわけがないと知っているはずなのに、お姉ちゃんは笑っていた。なんていうか、こう、健やかな、いや、達観したような? 良くわからない。お姉ちゃんが取り出したバームクーヘンは、お取り寄せできないと買えないようなやつで、多分、東京とか、そういうところに行ってきたんだろうなってのが分かる。
でもお母さんは、どこに行ってたの、とは言わなかった。自分がどれだけ怒っているかを、喚きながら訴えた。これはご近所さんにあとで謝りに行かないといけないかな、と、私はぼんやり考える。お母さんの怒りを受け止めるお姉ちゃんは、気持ち悪いくらいに穏やかだった。どっちが親でどっちが子どもか、分からないくらいに。私はその二人をどこか他人事のように眺めながら、小さくため息を吐く。
あと一週間、この失踪事件が起きるのが遅かったら、きっと百田くんとも会えた。
昼間に百田くんからこっちに着いたって連絡があったし、SNSには峰村くんや孝介くんたちとご飯を食べてる写真が投稿されてたから、まだみんなと一緒にいるんだろう。きっと今頃、笑ってるんだろうな、一年前の電車の中みたいに。
会いたかった。ふと、張りつめていた心の隙間から、半固形のそれがぬるりと滑って落ちていく。会って、百田くんに私のドロドロを拭ってほしかった。でもお母さんの怒りは、きっと一晩じゃ治まらない。
私は百田くんには会えない。
百田くんには、ゴタゴタしてて会えなくなったと、それだけを伝えた。約束の前日にドタキャンなんて怒るかもしれない。
ちょっとでも悲しがってくれてるのかな、寂しいなって思ってくれてるかな。メッセージアプリじゃ、そういう感情の機微までは伝わらない。ましてや私と百田くんは遠距離恋愛だ。遠距離恋愛って、もっとこう、自分に自信があって、相手を信頼している同士じゃないと成り立たない気がする。
百田くんを信頼していないわけでは勿論ない。だけど、彼にはもっと、素敵な人が似合う気がするのだ。もっと身近で、きれいで、頭もよくて、こんな風に縛ろうとする親がいない、普通の女の子が。
百田くんからはすぐに返事が来ていたのに、通知を切っていたことを忘れていたせいで、気が付いたのは早朝だった。オレは大丈夫だって。そうか。と思う。私は大丈夫じゃないよ。だけどそんな本音を吐露したら、きっと百田くんは疲れてしまうな。
返事ができそうになくて、そのままスマホの電源を落とした。
お母さんの怒りは翌日どころか、半月も続いた。
お姉ちゃんがどこ吹く風だったのも良くなかった。本当に勘弁してほしい。何があったのか知らないけれど、こっちまでとばっちりを食らっているのだ。あれから十日も経ってるのに、お母さんは出かけるときはやっぱりついてくるし、スマホを見ているだけでもねちねちと小言が飛んでくる。誰のお金で使えると思ってるの? って、バイトをさせてくれないのはお母さんだ。
だけど攻撃対象のど真ん中として常に照射されてるはずのお姉ちゃんは、やっぱり気味が悪いくらいに機嫌が良かった。よっぽどこの家から逃亡した四日間が楽しかったんだろう。私は百田くんとのデートを諦めざるを得なかったのに。
そう思っているはずなのに、私を包んでいたのは怒りよりも諦めだった。
そう言う風に育てられたから、私はお姉ちゃんに対する苛立ちも、お母さんに対する不満も、全部ひとつの布でくるんで、ちょっとずつちょっとずつ溶かしている。
だって、仕方ない。仕方ないんだ。私はこういう人から産まれたし、あれだけ抵抗していたお姉ちゃんだって諦めた。これがうちだ。百田くんからは連絡がないまま、彼は東京に戻った。ゴタゴタが解決したら私から連絡するって言ったんだから、当たり前なんだけど、でも、一回でもいいから、何か、どうなった? とか、聞いてほしかったな、なんて、察してが過ぎるか。
八月の終わりに、お母さんにイライラをぶつけられた。お姉ちゃんは相変わらず静かに笑っていて、ちょっと気味が悪い位で、だから、私に矛先が向いたんだろう。きっかけは確か、恋人に騙された女子大生がテーマのバラエティ番組だった。私は彼氏がいるとは言ったことはなかったけれど、やっぱりこの人にバレていないわけがなくて、あんたも騙されてるんだよ、なんて、お母さんが言うから。テレビの中では笑いに昇華されてるはずの出来事が、この部屋ではまるごと毒の塊になってしまう。
絶対遊ばれてるからね。東京に新しい女がいるし、一回東京に出た男は帰ってこないよ、って、言うから、ああわかった、わかったよもう、って、答えたのか、どうだったか。お姉ちゃんは笑ってる。まるで聞こえてないみたいに、スマホを眺めている。私の隣に座っているのに。それがすごく、遠い。
私は上手くお姉ちゃんの影に隠れて、お姉ちゃんを盾にして上手く生きてきたつもりだったけど、全然上手くなんかなかったな。こういうとき、どうやって怒ったらいいのか分からないんだ。
助けて、って思った。助けて、百田くん。でも百田くんはここにいない。東京で、私のいないところで、私の苦悩を知らずに生きている。
それでも助けてほしかった。
スマホをテーブルの真ん中に置いて、ホームボタンを長押しする。この間、多分まともに息が出来ていなかったんだろう。指が震えた、視界もぐらぐらと揺れていた。それからぶるぶると震えていたメッセージアプリを削除する。
「消した」
それしか言えなかった。お母さんの顔も見れなかった。
スマホはそのままテーブルの真ん中に放置して、部屋に戻った。小学生のときから配置の変わらない自室の、ベッドに転がった。薄汚れた抱き枕を抱える。天井は良く見ると、キラキラしたドット柄が散りばめられている。私はあんな微かな光にすらなれないな。
百田くんは私を騙すような人ではないけれど、でもやっぱり、私は百田くんに釣り合わなくて、こんなぐらぐらの女の子は、きっと彼の未来を邪魔してしまうから、だから、だったらそう言う風になる前に、私からお別れをしなくちゃいけない。とは、ちょっと前から考えていたのだ。
だから、丁度いい。別れてくださいって言うのは怖いから、どうか、察してください百田くん。
こういう狡い逃げ方をした私を、でも、何カ月かの間でもいいから、気にかけて、どうしたんだろって、心配してくれませんか。
冬になった。
あの日電車で、百田くんが声をかけてくれた夢を、今も繰り返し見ているよ。
よう三浦、って。
吊革にぶら下がって私を見下ろした百田くんの細められたあの目が、今も私の希望だ。