エンドロールが終わるまで
「すっかり夏になりましたね」
「そうですね。あれから半年は経ちますから」
「……あっという間でしたね」
纏わりつくような熱気に、並木道の緑が目に痛い。通話中のスマホを落とさないように耳と肩で挟みながら、銀行帰りに寄ったコンビニで買ったばかりの緑茶のキャップを緩める。店を出てから、結露が出るまではほんの一瞬だった。濡れる手指を無意識に服にこすり付け、再び通話に神経を張り巡らせる。
彼からメールが届いたのが、昨夜。それに気が付いたのが今朝で、返信したのがつい先ほどのことだった。
話したいことがあるから電話番号を教えてほしいという旨のメッセージに警戒をしなかったわけではないけれど、私は逡巡の後、結局彼に自分の番号を送ってしまった。ダンガンロンパV3が終わってから数カ月が経っていることを思えば、彼からの連絡は私にとって思いがけないことだった。メールアドレスを教えたからと言って、天海くんから連絡が来ることは今までずっとなかったから。
「すみません、突然電話なんて」
低いその声に、私は記憶の底に折りたたんでおいた何かが呼びさまされるような感覚に襲われる。ふつふつと体の奥から何かが湧き上がってくるような心地に、ともすれば泣きたくなった。彼女が目覚めてくれるなら全てを委ねてしまいたくなった。だけどもうあの子はいない。
私はあの仮想空間での日々のことに折り合いをつけたつもりでいた。私がだった頃のことを、噛み砕いて飲み干した。天海くんの存在にも。
彼はこれまでは無名に近い俳優だったけれど、ダンガンロンパに二作続けて出演した効果か、彼の名前を聞くことが増えた。私が発売してすぐ購入した、来週から始まる舞台のチケットはV3の放送直後に完売したと言う。
「いえ、私は、全然」
天海くんの方がきっと忙しいでしょう、と言いかけた言葉を飲み込み、私は彼の出方を窺った。何を考えているのだろう。声だけでは、判断がつかない。
現実の天海くんのことは、良く分からない。だけど、思ったほど抵抗感はなかった。同じ人だと思えたから。彼に背を向け、モノクマビルに飛び込んだあの春よりは、確かに。
それは、彼がV3でも私の良く知る天海蘭太郎で居てくれたからかもしれない。超高校級の生存者として私や新堂くんの代わりにV3に出てくれた彼は、隣に立つ人間が誰もいなくとも、皆のために危険を承知で行動した。コロシアイが始まる前に、首謀者を暴こうとした。その姿は間違いなく天海蘭太郎だった。
しかし天海くんは、多くの人間の予想を裏切って早期退場することになる。彼を殺した犯人が意外な人物であったのも手伝ってか、あの時の掲示板の盛り上がりは異常なほどだった。
がいたら違ったかもな。不意に蘇る書き込みに、私はスマホを耳に当てたまま小さく首を振る。
私が経験したダンガンロンパと同じように、多くの犠牲を経てV3は終わった。劇的な終焉だった。彼らは本当に、ダンガンロンパそのものを終わらせてしまったのだ。私たちが成しえなかったことを、彼らはやってのけた。
だけど天海くんは、そのことについては一切言及することはなかった。
彼は不意に口火を切る。「あの」と、どこか気安い、砕けたような声で。
「実は俺、来週舞台があるんですよ」
「あ、はい」
知っています、と言おうとしたけれど、それが正解なのか分からず言葉に詰まる。おかげで随分と素っ気ない言葉になりはしなかったかと、私はペットボトルを頬に当てながら大いに後悔した。
夏の日差しは容赦なく、じりじりと皮膚を焼いていくから、私は近くの公園に立ち寄った。夏休みらしい子供たちがはしゃぎながら遊具に向かっていく姿を視界の端に留め、木陰の下にある、小路沿いのベンチが無人であることを確認して腰を下ろす。
「それで、あまり興味ないかもしれないんすけど、もし都合が悪くなければ」
「ん、あ、えーと、あれ? あれですよね、あの……土曜日の……」
「ああ、そうです、もしかしてご存知でしたか?」
トートバッグから通帳ケースを取り出して、無造作に投げ入れたままになっているチケットを確認し、自分の記憶と天海くんの言葉を照合させ、無意識に頷く。
「はい、チケット取ったので」
考えなしに呟いた言葉に、電話の向こうの天海くんが殊更驚いたような声をあげたから、私はまた対応を間違えたかとひやりとした。
だって、ある意味ストーカーのようではないだろうか。勝手に出演する舞台を調べて、こっそりチケットを取るなんて、美人がやるならともかく、私のような地味な女がしていい行動ではない。反省すると同時にどう言い訳すべきかで思考が絡まる。あ、あの、ええと、と場を持たせるための句を使い切ったところで、私はとうとう「すいません」と謝罪した。
「き、気持ち悪いですよね、でも、えっと、天海くんの出たドラマ、たまたま見て、びっくりして」
「えっ? ああ、もしかしてあれっすか? 叩かれたやつ。はは、なんか恥ずかしいっすね」
「いや、そんな叩かれるほどではなかったんじゃないですかね……って上から目線みたいですみません……」
「まああの評価は概ね正しいんすよ、悔しいっすけどね」
言葉とは裏腹に比較的穏やかな口調に、私は幾分かほっとする。
「あの、それで舞台があることを知って、すぐにチケットをとっちゃったんです」
「なんだ。それじゃあ俺が準備してた分は無駄っすね」
「え?」
気持ち悪がられても仕方がないと思っていたのに、天海くんはまるで全く意に介していないとでも言うように軽い口調で続けた。
「チケット、送ろうと思ってたんす。でも良かった。断られたらどうしようと思ってたんで、嬉しいビックリっす」
その言葉に体温が一気に上昇したのを感じる。ただでさえ暑いのに、私はぬるくなり始めたペットボトルをぎゅうと握りしめる。その指の関節は、相変わらず、女性らしさからはかけ離れている。片方の手を、覆い隠すように重ねる。そうしたところで私の凝り固まったコンプレックスは解消されはしないけど。
「わ、私もそう言う風に思っててもらえたのは、嬉しいです。……でも、何で……」
思い切って口にしたその疑問に、電話の向こうの天海くんが小さく苦笑した。切り出すように呟かれたその声は、低く掠れている。
「……ずっと、後悔してて」
「はい?」
「あの日、モノクマビルの前で見かけたとき、どうしてもっと早く振り向いて、ちゃんと声をかけなかったんだろうって」
息が止まる。
白銀さんに呼び出されたあの日、待ち合わせの時間よりも早く来てしまったせいで、本来バッティングするはずがなかった天海くんとすれ違った。咄嗟に名前を呼んでしまった私は、それでも私の前を横切った彼に自分を見てほしくなかった。ではない私を認識してほしくなかった。
急いでビルの中に駆け込みながら、それでも思ったのだ。分かるはずがないと。私は彼女のように可愛らしい顔立ちをしていない、セーラー服なんか着てはいない。面影一つないこの体で、どうして天海くんが私の正体を知ることがあるだろう。
そう思っていたのに、彼は、なんて残酷なのだ。
「なんで」
なんでわかったの。ベンチに座って俯く私の脚は、彼女のものよりずっと肉付きが良い。量販店で買った安物のパンツ、サンダルの飾り部分が取れかけていることに、今気が付いた。地味な女だ。女であることが恥ずかしいくらいに。だからあの子になった。馬鹿にされたって仕方ない。
私は確かにだったけれど、もう彼女はどこにもいない。彼が追い求めているものがはっきりと彼女であるなら良かった。そうしたら、思い切ってチケットを破くこともできたはずだった。だけど、こんなになりきれない生き物をそうだと知って、それでも彼は私の連絡先を知りたいと白銀さんに申し出た。実際にメールを送ってきてくれたのは昨日が初めてだったけれど、今は、こうしてその声を聞かせてくれている。――分からなかったのだ。彼が何を求めているのか。
だけど彼は言った。
「名前を呼んでくれたのもそうなんすけど」
あのとき、つい彼の名を口にしてしまった私に、一瞬だけ彼が目線を投げたのは覚えている。もしもあの瞬間、彼が私をそうだと認識したのなら。私は。
「指の形が一緒だったから」
ひ、と喉の奥にはりついたような痛みを感じた。
目の奥が熱い。薄いブルーのパンツに、濃い色の染みが落ちる。
「感謝してるんすよ」
その言葉を選んでくれたことがありがたかった。だけど、伝えたいのは私の方だ。
「キミがいたから、頑張れたんすから」
私の方がそうだった。あなたが居たから負けずに済んだ。あなたの存在が現実と仮想空間を繋いでくれた。私は首を振る。それが、電話の向こうの彼に伝わったのかは分からない。むせ返るような夏の匂いは、ここが公園だからなのだろうか、子供のはしゃぐ声、色の濃い影、蝉の音、どこを切り取っても、ここは現実だった。私たちが望んだ外の世界だった。
私はを捨てなくてはいけない。だけど彼女の残滓を、腹の底に塗りたくって置くくらいは許してもらえるだろうか。あの時作った繋がりを、ここに持ち込んでもいいだろうか。天海くんは、私が泣いていることを察しているのだろう、柔らかな声で、言った。
「さん、とは、もう呼べないんで」
あの日々が遠く、輪郭を失っていく。
「オレはキミのこと、なんて呼んだらいいっすか」
は、少しでも、何かを残すことができたのだろうか。
私は溜まった二酸化炭素を吐ききると、一度洟をすすった。
自分の名前を告げるとき、声が震えなかったのは初めてだった。
天海くんが私の名前を小さく繰り返す。その音の響きが奇妙なもののように聴こえる。けれどそれでも、彼はきっともう、の名前を呼ばない。だけど、それでいい。手の甲で拭った涙は、酷く熱かった。
「あ……すみません、そろそろ時間で。……時間を割いてくれてありがとうございました」
「い、いえ、こちらこそ、どうもありがとう」
「……はは、なんか、変な感じっすけど。……えーと、じゃあ、また来週」
「はい、また来週」
図々しくも名残惜しさを覚えながらも、私は震える指で通話を切る。液晶がホーム画面に戻り、やがて暗転するのを、私はぼんやりと見つめている。
先日久しぶりに髪を短くしたせいで、首の裏はすっかりと日光に負けてしまったらしい。だけど、さっぱりしたと思う。前髪が短くなっただけで、世界は明るく開けて見えたのだから、私も大概単純だ。
まだ心臓の鼓動が聞こえる気がした。天海くんの声が、鼓膜に張り付いているような気がした。それらは私の身体に枷となってくくりつけられた。
銀行から下ろしてきたばかりのお金を持って、私はこれから、来週、天海くんを見るための服を買いに行くつもりでいた。だけど、それが「見る」ではなく「会う」という形になる可能性があるのならば、私は想像していた以上に今日の買い物で悩まなければいけないかもしれない。それが分かっていても尚、私はまだここから動けそうもない。それは、今まで感じたことのない、穏やかな倦怠感だった。じわじわと指先まで侵食するそれが、分不相応な多幸感であると察してはいたけれど。
「ねぇ、聞いてる?」
明朗な女の子の声が聞こえて、私はふと顔をあげた。私の座るベンチの前を、私と同い年くらいのカップルが歩いていく。
男の子の方は、件のV3に出ていた男の子と背格好が似ているように思えた。
「ほんとにゴキブリがいたら任せるからね、私は逃げるからね」
女の子の方がその彼氏に向かって言うものだから、私はつい目を見張ってしまう。大きな荷物を持った男の子はうんざりしたように何か答えているようだったけれど、その声は私には届かなかった。
会話の中身はともかく、すらっとした女の子だから、ああいうパンツスタイルが似合うのか、と、私は初めて意図を持って他人の姿を眺めた。街中だったら情報過多で目が回ったかもしれないが、幸い、公園内は人通りがそこまで多くはない。
彼らが去っていった方向から、花束を抱えた女性がこの暑さの中特に顔色も変えずにやってくる。日焼けを気にしているのか、彼女は長袖のカーディガンを羽織り、大きな帽子を被っていた。この公園を横切った先に大きな病院があることを思えば、彼女は見舞いにでも行くのかもしれない。
柔らかな生成りのブラウス、膝丈の小花柄のスカートといった出で立ちは少女然としていたが、私よりも年上に見えるその女性に良く似合った。不意に小走りになった彼女は、先の小路で男性と合流していた。
「坊ちゃん、お待たせしました」
そう聞こえた気がするが、今時そんな風に呼ばれる成人男性なんてそういないだろうから気のせいかもしれない。病院の方に向かう二人の後ろ姿を見届けて、私はようやく足に力を入れる。
どんな服を着て、どんな顔で会えばいいんだろう。
たった一週間でコンプレックスの元である体型を変えることは難しいかもしれないけど、彼を前にしても消えてしまいたいと思わなくても済むくらいには、変わっていたい。のように彼の隣を歩くことは出来なくとも、胸を張って、きちんと笑えることができるように。
私は立ちあがると、背筋を伸ばして一歩を踏み出した。
木陰から出た私の影は、黒々と地面に残る。
置き忘れてきたあの子の、の影は、今ここでようやく私のものと重なった。