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「本当にありがとうございます。天海さん」



 安堵と喜びの入り混じった声音で白銀さんは微笑んだ。余程切羽詰まっていたのだろう。何せ、五十三作目となるダンガンロンパの新シリーズは来週からスタートする。予定よりも前倒しになってしまったとは言え、身体や精神面の最終検査を済ませていないのは、最早俺くらいだ。
 インターネットでは、既に大々的にダンガンロンパの最新作であるV3の告知が始まっている。
 数日前、重大発表と銘打たれた特別番組が配信されたときは「まさか中止?」という不安の声も上がったが、蓋を開けてみればそれは「予定していたダンガンロンパV3の放送日を前倒しします」なのだから、ファンが熱狂の声をあげるのも無理もない話だった。
 普段の作ったような笑みとは明らかに異なる種類の表情に、つい「あなたのためじゃない」と一言加えてしまいそうになるのを飲み込む。代わりに吐き出した息は、随分と自嘲気味な乾いた笑いに似てしまったが、今更この人の前で取り繕う必要性も感じなかった。
 見覚えのある同意書を流し読みし、最後のチェック項目に印をつけた瞬間、見計らったように彼女は言った。



「天海さんに出演を快諾していただけたおかげで、V3も素晴らしいものになりそうです」

「それはそれは」



 快諾をした覚えはないが、チームダンガンロンパとしてはそういう方向で認識したいのだろう。適当に返事をしながら、最後に自分の名前を記名する。天海蘭太郎。それが最近は、二十年余りを連れ添った自分の名という気がしない。
 同意書のサインを終えると、もう一枚書類が重なっていることに気が付く。アバター作成のための手順と記されたそれに視線を落とす俺に、白銀さんはさりげない仕草で「失礼しますね」とそれを引き抜いた。手違いで紛れ込んでしまったのだろう。「天海蘭太郎」としての出演を望まれている俺に、アバターに関しては前作からの変更点は認められない。



「さて。ありがとうございました。天海さん」



 俺の差し出した同意書を、彼女は命よりも大事なものだとでも言わんばかりに、仰々しく受け取る。



「それでは来週十日にまたお会いしましょう」



 眼鏡の奥で細められるその双眸。首から下げられたチームダンガンロンパのネームプレートの、ストラップ部分につけられたモノクマのクリップに、俺は浮かんだ笑みを殺さない。
 ダンガンロンパV3、同意書にサインを残した俺は、また超高校級の何者かになる。








 さんはV3の出演依頼を拒否したと、白銀さんからの電話で聞いた。
 さんがどんな拒絶の仕方をしたのかは定かではないが、どうしても頷いてはくれなかったと白銀さんは困ったような声で呟いた。
 あの壁一面をポスターで埋めつくされた部屋で、向かい合って座る白銀さんに頑なに首を振り続ける像として脳裏に浮かんだのは、セーラー服を着たさんではなく、大きめの地味なパーカーを着た、流行がどこにあるのかも知らないような顔をした女性だった。
 上手く断れたのなら、良かった。どこかでほっとした自分に気がつく。
 しかし、だからと言って俺も出演を承諾する気はそうそうない。いくら役者としての才能がないことを思い知ったとはいえ、与えられた役を簡単に降りるわけにはいかないのだ。
 前回「考えさせてほしい」と言ってしまった手前、今日はきちんと断らなくてはいけない。スマホの向こうの彼女の言葉に相槌を打つ俺に、白銀さんは「ところで」と唐突に切り出した。



「天海さんは、前回ご自分が首謀者と共に、具体的にどんなおしおきを受けたのかは覚えていらっしゃいますか?」

「は?」



 言われて、脳内を探る。俺の反応に、表情も見えないのに白銀さんが笑みを深めたのが分かった。
 首謀者を問い詰めた裁判で、卒業できるのは二人だけだとあの女は言った。乃木と言う、短い黒髪の、利発な少女だった。信頼を裏切られたことへの絶望は計り知れなかったが、それでも残された三人で目を合わせるよりも先に、俺はこの手を挙げたのだ。
 乃木さんは、自分の敗北を認めながらも、泰然と笑っていた。背後から、俺の名を呼ぶさんの声が聞こえた。彼女を抑える新堂くんの声も。
 振り向くことは出来なかった。代わりに言った。安心してください、二人とも。



「俺が何とかするんで」



 あのとき彼女が叫んだ悲鳴が、俺が聞いた最後のさんの声だった。
 そして視界は暗転し、俺はあのカプセルの中で目を覚ます。








 自分がどんなおしおきを受けたのかは知らない。動画を漁った。俺と乃木さんはその後輪郭がモザイクになって溶けて消えた。四肢を食いちぎられ絶命した少女を思えば、それはまるでおしおきとしては足りないように思えた。



「そう、具体的なおしおきはなかったんですよ。それが物足りなかったという意見もありましてね」

「……はっきり言ってください」

「――次回作への出演」



 白銀さんの言葉に俺は目を細める。



「これが、あなたへのおしおきです」



 なるほど。と、思う。
 随分考えたじゃないか。俺が断ることができないように後出しでルールを作り上げ、強制させるとは。



「そうっすか……。でも、俺だってそう暇じゃないんすよ」



 無駄な足掻きと知りながら、舞台があるのだと続ける俺に、白銀さんは「ならお仕事の都合に合わせてこちらが日程を調整します」とのたまうのだから、閉口してしまう。チームダンガンロンパは何が何でも俺を「生存者」として使いたいらしい。
 ダンガンロンパの収録日数はどんなに長くても二十日程度。仮想空間内であると言っても、現実の時間の流れとはそう差はない。最終回間際になればほとんど生放送と言ってもいいくらいになるのだから、スタッフの苦労は計り知れないだろう。
 前回は終盤まで生き残ってしまったおかげで拘束時間が長かったが、舞台を直前に控えた状態で何日も現実世界から離れるわけにはいかない。筋肉の衰えや脳への負荷は洒落にならないのだ。
 まだはっきりと返事はしていないというのに、彼女は勝手に話を続ける。



「公演が終わった後ですと、少し期間が開きすぎてしまうので難しいです。本格的な舞台の稽古に入る前……予定していた収録日よりも随分前倒しすることになってしまいますが、それならいかがでしょうか」

「……そっちは間に合うんすか? 世界の構築とやらだったり、各々の才能の設定だったりは、一朝一夕でできるもんじゃないでしょう」

「正直、きついですね。ですが最悪、構築に関しては収録と同時進行で行うという手もありますので」

「はは、そんな危うい世界で大丈夫っすか?」

「はい」



 鼻で笑ってそう返した俺に、しかし、スマホの向こうの白銀さんははっきりとそう言った。



「ダンガンロンパが作り上げてきた歴史は、その程度では揺らぎません」



 まるで信望しきったその声に、一瞬、尊敬の念すら抱きかけた。その熱意に屈服する未来が、視界の端に映った。
 スマホを持つ指先に、ほんの少し力を込める。



「……俺が拒否したら、さんにもう一度頼むしかないとあなたは言うんでしょうね。それこそ、おしおきではなく本当の生存者特典だと言い張って」



 あの日、一度だけすれ違った彼女は、きっとさん本人だった。指の形が同じだった。俺の顔を見て、「天海くん」と名前を呼んだ。それだけで、確証はないに等しいけれど。
 意を決して振り向いたそこに、彼女はもういなかった。ただ、俺が出てきたばかりの自動ドアが誰かを飲み込んでいくのだけが視界に入った。自動ドアに描かれた白と黒の市松模様の柄のせいで、それが誰だったか、男性であったか女性であったか、職員であったか見学者であったかも、俺には判別がつかない。だけど、さんだと思った。あれはほとんど直感だった。
 白銀さんは、俺がさんに執着に似た感情を持っていることを知っている。
 彼女は「さんを使うのだろう」と言う俺の問いかけにたっぷりとした間を開けて、はっきりと「はい」と言った。
 俺はこの人が好きではなかった。張り付けたような笑みを作り、自分の意思がないように、チームダンガンロンパの歯車として動き続ける。その姿は傍目から見て実に滑稽だったし、薄気味悪さすら感じさせた。だが、ここまで盲目的にダンガンロンパを愛するこの人は、今はっきりと俺を脅した。「お前が頷かなければが犠牲になるのだ」と。
 吐いた息は、思った以上に大きなため息になった。



「……仕方ないっすね。負けました」



 スマホの向こうで、白銀さんが分かりやすく息を飲んだのが伝わってくる。今すぐにでもお礼の言葉が飛び出てきそうなのを察し、「でも」と先手を打つように強い言葉を吐いた。



「一つだけ取引をさせてください」



 そう言ったのは自分の方なのに、脳の芯が痺れる様に疼いたのを感じた。



「取引……ですか?」

「そう、人間らしく、取引で」



 白銀さんは、その後に続いた俺の言葉を聞いて、上に確認をしてくると言い一度電話を切る。
 チームダンガンロンパは、俺の取引に簡単には頷くことはしないだろう。だけど最終的には受け入れてもらえるはずだ。何せ、V3には華が必要なのだから。天海蘭太郎という、「超高校級の生存者」が。








 果たして、俺は正式にダンガンロンパV3に出演することが決まった。
 数日後に必要書類を書きに行くという約束をして、白銀さんから折り返された電話を切る。俺は暗くなった液晶に自分の顔が映るのを、漫然と見つめた。
 俺の居る薄汚れた六畳間には、今もあのトロフィーが転がっている。埃をかぶっていた梱包を解いて、テレビの前に立てた。
 ダンガンロンパV2生存記念と書かれたプレートも、こちらに指を向けてポーズを決めているクリスタルでできたモノクマも、俺の感情を凪ぐのには充分で、だけど、それでもどこかにいる彼女もこれと同じものを持っているのだと思えば、存外、喉の奥が痛くなるものだと知った。
 さん。
 心の中で、彼女の名を呼ぶ。
 俺の隣に居てくれた人。友人を失っても、泣くことになっても、それでも前を向くことのできた人。俺に前を向かせてくれた人。
 この世に実在しないと知ったときの絶望は、言葉にはできない。だけど彼女だった人は、俺を呼んでくれた。見つけてくれた。俺は欲を持ってしまった。だから、白銀さんに付きつけたのだ。俺の欲求を、それらしく、美しく飾りたてて。



「俺が超高校級の生存者になります。その代わりに、さんだった彼女の連絡先を教えてください」



 繋ぎ止めておきたかったのだ。それがどんなに細い線だったとしても。
 俺はあの教室で、辻さんを失って泣きじゃくる少女を守りたいと思った。あれが恋だったとは、言わない。ただ、彼女は俺にとって特別な人だった。
 彼女がいたから生き抜けた。裏切りも絶望も後悔も全てを飲み干して、俺はV2を生きた。
 白銀さんが送ってくれたさんのメールアドレスを、部屋にあったメモ帳に写す。本当に連絡する気なんかなかった。そこに彼女がこの世にいるという証がある。同じ記憶を共有し、恐らく同じだけの絶望と後悔を背負った彼女は確かにどこかにいる。それだけで俺は、ダンガンロンパに飲み込まれた自分と向かい合うことができるような気がしたのだ。
 ダンガンロンパを見た人の数だけ、きっと天海蘭太郎は存在する。それはきっと、さんの中にだって。ならば、現実の俺が打ちのめされたくらい、なんだ。彼女のアドレスを眺めていると、不思議とそう思った。
 才能がなくても、売名だと罵られても、それは事実だ。負けてしまった。認められなかった。俺はそれでも生き抜きたい。超高校級の冒険家の口からはみ出た誰かの手首に、俺は手を伸ばす。思い出せよ。そう呟く。演じるだけで楽しかった日々を。思い出せ。
 俺は役者だ。
 例えダンガンロンパという存在が俺の背に重くのしかかることになったとしても、いつか、俺は役者としてそれを食う。
 そのとき、どこかで俺のことを見ていてほしい。
 そう思うのは贅沢か。








 ダンガンロンパの公式サイトに登録を済ませた私は、ヘッドフォンをつけてノートパソコンの前に座っている。
 じっと時間が過ぎるのを待っていると口の中が乾いてきて、隣に置いたペットボトルのお茶を呷るように飲み干した。かつてモノクマのシールが貼られていたカバー部分には、好きなアーティストのステッカーを貼った。クマのマークがあるというだけで捨ててしまったペンケースは、きっと今頃灰になっている。それで誤魔化せたとは思っていない。目につくものを除外しても、私があの世界を生き抜いた過去が消えることはない。
 白銀さんと約束をしたあの日、私は天海くんを見かけた。彼もまた白銀さんに呼び出されていたのだと気付いた時には、私はモノクマビルに飛び込んでしまっていた。
 約束よりも随分早い時間であったけれど、白銀さんは私を快く迎え入れてくれた。



「天海くんが、いましたね」



 そう呟いた私に彼女は否定も肯定もせずにただ淡い笑みを浮かべるだけだったから、私はすれ違った彼が天海くん本人で間違いないことを認めてしまう。
 振り向く勇気がなかった。彼がそのまま歩いていく後ろ姿を眺めることに耐えられそうもなかった。だから、私は走ったのだ。モノクマビルの中に。
 そして私はその日、白銀さんからの依頼を断った。「生存者として再びダンガンロンパに出演してもらえないか」と言う頼みを。もう一度コロシアイをしなくてはいけないなんて冗談じゃないと思ったし、もしかしたら口にしたかもしれない。白銀さんは思いの外あっさりと引き下がってくれたから、助かった。新堂くんは入院中で、天海くんにも断られたという話を聞いたときは、そもそも生存者という案自体をなくした方がいいのではないかと提案したくらいだったが、驚いたことに、結局天海くんはV3に出演することを承諾したらしい。
 いや、「承諾したらしい」と言うと、それには語弊がある。私は彼が決断に至った過程を知っているのだ。








「白銀です。突然申し訳ありません」



 講義を終えた私が白銀さんからの着信に気が付いたとき、嫌な予感はした。もしかしたらまたV3への参加を打診されるのではないかと思ったのだ。だけど、それは私の杞憂に過ぎなかった。
 折り返した先で、白銀さんは私の連絡先を天海くんに伝えても構わないかと尋ねた。全く唐突で、意味がわからなかった。



「な、なんで私の連絡先が交換条件になるんですか」

「それはわたしにも……。ですが、こちらとしても天海さんには是非ともV3に出演していただきたいのです。なので、連絡先を天海さんにお教えする許可を頂ければと」

「え、ええ……」



 なんで。どうして。
 頭の中でそんな言葉がぐるぐると浮かんだけれど、困りに困った私は、白銀さんからの懇願に負けて最終的に「じゃあ、アドレスだけなら」と答えていた。白銀さんは、大仰にお礼を言って、通話を切った。
 天海くんから本当に連絡が来ると思ったわけではない。期待なんかしていなかったし、実際に何かメールが送られてきたところで、私は対応に困ったはずだ。だって私は、彼の思い描くではない。
 それなのに連絡先を教えることを許可したのはなぜか。
 あの日すれ違った天海くんの瞳を思い出す。女の私よりもずっと長い睫毛に、大きな瞳、何も変わらなかった。超高校級の何者かとして過ごした日々を嫌でも思い出した。だけど私は、彼に嫌悪を覚えなかったのだ。ペンケースやシールのように、捨ててしまおうとは思えなかった。むしろ、懐かしかった。凝り固まっていた心臓にこびり付いていた錆が、ゆるゆると溶けていくようだった。
 私はではないから、あの人に会うわけにはいかない。
 だけど、それでももしも繋がりを許してくれるなら、仮想空間ではない、現実の世界で、目に見えない糸を持っていてもいいと言ってくれるなら、私はそれだけで前を向ける、そんな気がしたのだ。
 結局、天海くんから連絡は来なかった。








 V3の放送が始まる直前、私は初めて、あの日白銀さんから渡されたトロフィーを手に持った。
 クリスタルでできたモノクマ。ダンガンロンパV2生存記念と記されたプレート。同じものを彼も持っている。そう思うと、すかすかの睫毛が重くなったような気持ちになる。
 ダンガンロンパV3の放送開始まで、あと五分。
 私は目を閉じる。セーラー服を着たは、親友のイニシャルが刺繍された赤いスカーフを抱きしめて、彼の隣で泣いている。



「天海くん」



 最後に、乃木さんと共にあの世界から消えた人。何とかすると言って、本当に何とかしてしまった。あの時の私の声は、彼に届いていただろうか。



「あなたは私のヒーローだ」



 その声は、私が設定した少女のそれと混じりあって、静かに溶けていく。関節だけが太い不格好な指を絡める。
 あるはずのない手のぬくもりを、私は自分の頭蓋に感じている。


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