5
「ここにいたんすね」
墨のように重い色をした長い髪は、白いセーラー服に良く映える。
その白と黒のコントラストを一階の教室で見つけたのは、偶然ではなかった。ここにいたんすね、も何も、ここにいるだろうと踏んでやって来たのだ。定規で測ったように正確に並べられた机と椅子、昔ながらの黒板に、花の活けられた花瓶が置かれた教壇。昨日はなかったものだ。もしかしたらこれは、そこに蹲る彼女が用意したのかもしれない。
窓際の壁に背を預けて座る少女は俺の声に小さく反応する。自分を守るように膝を抱えた、その指に視線を落としながら、俺は顔をあげようとしない彼女に小さくため息を吐く。
俺を含め、十六人の高校生が馴染みのない学校に監禁されてから、今日で五日目だ。
「ここから出たければ殺しあってください!」
それぞれが特別な才能を持った特殊な高校生たちは、突如として現れた白黒のクマの言葉に耳を疑った。この学校に出口はない。唯一の脱出方法は、ここにいる生徒を殺し、そのあと開かれる学級裁判での追及を振り切り逃げることだけだ。うぷぷ、と不気味な笑い声をあげるモノクマに、俺たちは言葉を失った。
そんな馬鹿げたことを一体誰がするものか。そう思って逃げ道を探した。通気口に潜り、窓をこじ開けようとした。地下に怪しい抜け道があったので全員で向かってみると、そこは巨大な迷路になっていて、罠にはまって汚泥を被る羽目になった。どのルートに向かってもその全てが行き止まりだった。出口がないということを、俺たちは自ら証明してしまったのだ。
そしてモノクマの言葉通りに殺人事件は起こってしまう。一人の女子生徒が、とある教室で男子生徒の首を絞めて殺したのだ。入念な下準備を経ての犯行というよりは、突発的な殺人であるように思われた。犯行に使われた道具が、制服のスカーフだったのだから。
学級裁判を経て彼女は「おしおき」された。あれは、直視できるものではなかった。生きたまま無数の鰐に四肢を食われたのだ。ここでは命は随分と軽いものとして扱われるらしい。劈く悲鳴に、誰もが耳を塞ぎ、目を背けた。その中で、彼女だけが崩れ落ちて、人目も憚らず声をあげて泣いた。襟元のスカーフを両手で抱きしめるように、縋るように。
。彼女は処刑された辻伊織さんの、幼馴染でもあった。
一夜明けた今朝、モノクマに与えられた鍵によって地下のさらに下へ続く道が開いた。他のメンバーは各々探索に向かったけれど、一人だけその場に現れない生徒がいた。――さんだ。新しく開けた世界に冒険家の血が騒がないわけではなかったけれど、姿を現さない彼女が気にかかって、俺は傍に居た新堂くんに断りを入れてから一階に戻った。そしてさんの姿を見つけたのだ。この、昨晩一人の男子生徒が死んだ教室で。
細い格子によって封鎖された窓から漏れる日光は、彼女の頭上に影を落とす。細かな縞によって刻まれたその黒髪は、しかし俺の存在に気が付いていながらも、微動だにしない。立ちあがる気配もなければ、顔をあげる気配すらないのだ。
床に座り、揃えた両足を抱えて膝に眼球を押し当てる彼女のその隣に腰を下ろし、その名を呼ぶ。
「さん」
いくら待っても返事がないのは、参った。友人を失った女の子の慰め方なんて、俺は知らない。
彼女を刺激することのないように、慎重に言葉を選ぶ。
「あの、地下に倉庫があったでしょう。奥に南京錠のかかった扉があったことは知ってました? モノクマに貰った鍵でさっきあそこが開いて、また下に続く階段が出てきたんです。皆、そこを探索しているところっすよ」
「…………」
返事はないが、指がセーラー服の腕のあたりを握りしめたところを見ると、聞こえていないわけではないらしい。彼女の様子を逐一確認しながら、俺は言葉を続ける。
「開いて、って言っても、南京錠に鍵を差し込んだ瞬間に扉が発光してはじけ飛んだんすけど。……ほんと、どういう原理になってるんだか」
今頃この足の下の階では、皆が躍起になって探索をしているのだろう。奥へ進むことに怯えている女の子もいたけれど、まあモノクマの様子を見るに、俺たちに害が及ぶという意味での危険性は地下にはないはずだ。
モノクマは、どういうわけか俺たちの内輪もめを望んでいる。「ボクがオマエラに何かすることなんて、ありえないね」と胸を張って言うくらいだ。何かコロシアイが起きるためのきっかけになるようなことが待ち受けていたとしても、直接的に命を奪われるような罠などはないと見てもいい。
そこにあるのは、俺たちに関わる重大な情報かもしれないし、はたまた出口へのヒントかもしれない。外の世界と連絡が取れる可能性だって、ないわけではない。
だから、いつまでもここに居たって仕方がないのだ。
「さん」
もう一度、確認するように彼女の名を呼ぶ。
「俺と一緒に行きませんか」
だから、前を向いて、今は一緒に、一時的にであってもいいから、せめて蹲るのをやめて、顔をあげて。そう願った瞬間、本当にさんは顔をあげた。涙で濡れた重たい目は、彼女の幼馴染みが人を殺したらしい机の上のあたりを彷徨う。
どきりとしたのは、俺の記憶よりも、という人間が酷く大人びて見えたからだ。
超高校級の図書委員であるは、その才能の通りに読書の虫だった。学校なのにどうして図書室がないのだと文句を言いながら、各教室の棚にあった学級文庫から進学情報誌までを脇に抱えて、「本が足りない」と嘆いた。暇があれば文庫を開き、「ド定番だけどやっぱり傑作だね」と呟いては凄まじい速度で眼球を動かし次々に読破していった。
子供の様に目を輝かせながら本を読みふけるさんの隣には、いつも穏やかに彼女を見守る辻伊織さんの姿があった。幼馴染で、腐れ縁。辻さんは、さんの肩を、親愛というには少し情感のこもった手のひらで撫でながらそう言ったけれど、さんの方は読書に熱中して気にも留めてはいなかった。彼女の体に軽々しく触れる存在は、もういない。
「伊織ちゃんは」
さんは、突然その名を呼んだ。昨日俺たちの目の前で、オシオキと称されて巨大な鰐に四肢を食いちぎられ死んだ、幼馴染で腐れ縁の少女の名前を。
「……伊織ちゃんは」
顔をあげたその少女の瞳は、真っ直ぐ俺を射抜いた。泣いたせいで腫れぼったくなったそれは、決して彼女の本来の魅力を引き出すには至らない。涙の痕が残る頬、明らかに色濃く残った疲労と、後悔。
だけど、ああ、と思った。殴られたようだった。決心したように吐き出した彼女は、後にその時のことを「狡かった」と振り返る。
「本当は天海くんにだけでなく、きちんと皆の前で伝えるべきだった。裁判のときに何も言えなかったのなら、せめてその後にでも」
だけど俺は嬉しかったのだ。さんがその秘密を打ち明ける相手に俺を選んでくれたことが。さんは言った。聖職者へ懺悔するように、項垂れて。
「伊織ちゃんは、私を守ってくれたの」
指の震えを堪える様に握りしめた、セーラー服の袖には皺が寄っていた。俺は体の細部まで女の子らしくできていると思っていたその少女の、意外なまでの指の関節の太さを、その骨の形を、ただじっと見つめている。
モノクマビルから飛び出すように外に出て、生温い風を頬に感じた瞬間に視界に飛び込んできた女性は、目が合うよりもずっと早くに、確かに俺の名を呼んだ。
見知らぬ女性だった。背があまり高くなく、やや猫背。薄い化粧は慣れていないのか少し浮いていて、体のラインが出ないような野暮ったい服を着たその人は、目を見開いて、俺の名を口にしてしまったことを後悔するようにその口元を手で押さえた。
街中で名前を呼ばれることは何度かあった。とは言え天海蘭太郎が生身の人物で実在する人物であることは、心配するほど広まっているわけではないらしい。コアなファンは俺が役者であることを知っているし、叩くことも平気でする。だけど多くのダンガンロンパファンは、終わったシリーズやキャラクターにさほどの興味を持たない、刹那的な楽しみ方をする層だ。彼らの意識は最早来たるべき次回作に寄せられている。俺は天海蘭太郎に良く似たそっくりさんとして、好意的な視線や言葉を向けられるばかりだった。
だけど、この女性はそれとは違う。興味でも、好悪でもない。俺を俺と知っていて、自然と名前が口から漏れてしまった、そんな様子だった。すれ違いざまに、彼女と目が合う。いや、俺が本当に見たのは、彼女の瞳ではない。
あの指の形。
「さんとはこの後約束をしておりますので」
不意に蘇った白銀さんの言葉に、俺は女性とすれ違った数歩先で、とうとうその足を止める。
辻伊織さん。ダンガンロンパV2で一番初めに殺人を犯した彼女の動機は、実に単純明快だ。彼女には一刻も早く外に出なければならない理由があった。
ドナー提供。病気の双子の妹のために、彼女は近々手術を受ける予定があったのだ。いつまでもここに閉じ込められていては、妹が手遅れになってしまう。焦った彼女は仲間を手にかけた。制服のスカーフで首を絞めて殺したのだった。
本当は、完全犯罪を行うつもりだったと、さんは言った。
「私と伊織ちゃんで、複雑なトリックを使って、そして伊織ちゃんを生還させるつもりだった」
彼女はぽつぽつと語る。
「……だけど辻さんが裁判を逃げ切った時点で、残った俺たちはおしおきされてしまう。勿論、さんだってそうですよね? それで良かったんすか?」
「それで良いも何も、最初からそのつもりだったんだよ。被害者と加害者が手を組んで初めて、完全犯罪は成り立つんだから」
早口でまくしたてるように続けた彼女の言葉に、俺は目を見開く。被害者と加害者が手を組む。それでは、辻さんが殺す予定だった人物は。俺の思考の先を繋げるように、さんは床の木目に視線を落としながら呟いた。
「……私が殺されるはずだった」
それは、皮の中に空気をいれただけの、ほとんど質量のない声だった。
「決めてたの。地下にある巨大迷路が罠でしかなかったら、こうしようって」
「……そうだったんすか」
全てのルートを潰した昨日の午後、さんたちは一体どんな顔をしていたのだろう。もしもその時に二人の異変に誰かが気が付いていれば、こんなことにはならなかったのではないか。悔やんだところでもう遅い。
「二人を助けるためにはそれしかなかった。私から言い出したの。伊織ちゃんは、ここから出て美織ちゃんを助けてあげてって。でも、そのための仕掛けを作っている途中で冠木くんに見つかっちゃった。……冠木くんは頭がいいでしょう? だから、この教室の様子を一目見て全部察しちゃった。焦った伊織ちゃんは、それで、近くにあったスカーフで」
さんは、制服のスカートの裾を握りしめる。黒に近い濃紺のそれは、彼女の不格好な指によって呆気なく皺を作る。このスカートは、血が目立たない。それを知っているのは、目の前で同じ制服を着た少女が足を食いちぎられたからだ。
「一緒に事件を企てたことがみんなにバレたら、私の居場所がなくなるから、だから、伊織ちゃんは裁判で私の名前を出さなかった。最初から一人でこの教室にいたことにした。二人で作った仕掛けは全部処分したよ。首を絞めるのに使ったスカーフだってそう」
「……」
「でも天海くんは、それに気が付いたね。犯行に使われたのがスカーフだってことも、捜査をしているときから伊織ちゃんがスカーフをしていなかったことも。替えのスカーフは迷路の罠のせいで汚れちゃってたから、あのとき伊織ちゃんは、あれ以上予備のスカーフを持っていなかった。だから、スカーフをしてない伊織ちゃんが冠木くんを殺したんだって。それで、正解。でも、ねえ、気が付いてた? 天海くん」
さんは、自分の胸元のスカーフに両手で触れる。彼女はそう言えば、昨晩、目の前で辻さんが死んだときも、同じようにスカーフを抱きしめていた。
スカーフを解く。さんと辻さんは、幼馴染で、腐れ縁。だから、幼稚園から高校までずっと一緒だったと笑っていた。彼女らは、同じセーラー服を着ていた。スカーフだって。
「伊織ちゃんが冠木くんを殺すのに使ったスカーフって、私のだったんだよ」
解かれたスカーフに刺繍されたイニシャルは、彼女のものではなかった。
息を呑んだ俺に、彼女は俯く。さんの不格好な指が、震えている。
「昨日は二人でスカーフを外して作業をしていたの、だから、伊織ちゃんが咄嗟に手に取ったスカーフが私のだってことに、私も伊織ちゃんも気が付かなかった。冠木くんが死んで、それでようやく刺繍に目がいったんだね。伊織ちゃんは、私に自分のスカーフを渡した。ごめんねって言って。でも私は、いらないって言ったの、だって私がスカーフをしていない方が、私が犯人だってみんな誤解するかもしれないでしょう? 私はまだ、伊織ちゃんが帰るべきだって思ってた。作戦は駄目になっちゃったけど、裁判でみんなを誘導すれば、まだどうにかなるって、言ったのに」
段々と早口になっていく言葉の最後に、紛れる様に、「でも」と、さんは呟いた。
「伊織ちゃんは最初から、私を殺す気なんかなかった」
世界中の推理小説からかき集めて作った自信作のトリックだったと彼女は言う。誰にもばれない自信があった。これで殺せば絶対に外に出ることができるからと胸を張ったさんに、だけど辻さんは一度も頷きはしなかった。一人で突っ走ったのだ。
さんは続ける。
脳から麻薬物質が出ているかのように、あの時の私はどうかしていた。本で読んだトリックを実際に作ることが楽しかった。夢中になることで、いつも纏わりついていた死への恐怖を紛らわせようとしていた。全てを他人に押し付けることで、逃れ得ない恐怖を終わらせたかった。私は伊織ちゃんにすべてを任せたかったのだ。
それに彼女が気付いたとき、既にこの教室に死体があった。
「伊織ちゃんは、私に自分のスカーフを結びながらこう言ったんだ」
部屋の中央を、彼女は見つめる。数時間前に、恐らく二人が立っていた場所。その幻影を追うように、その目は優しい。
「こんなこと言ったらは私を薄情だって思うかもしれないけれど、私は、別にこの学校から出て行かなくたって良かったの」
さんの声が掠れる。
「ドナーは探せば他にもいるかもしれないけれど、はひとりしかいないじゃない」
さんの口から辻さんの言葉を聞いたとき、俺は彼女の肩に愛おしげに触れていた辻さんの姿を思い出していた。
辻さんは、さんを大切に思っていた。たった五日間を共にしただけの俺たちと違い、二人には、十五年あまりの月日がある。辻さんにさんを殺すことは出来なかった。きっと、どこかで止めようと言い出したはずなのだ。冠木くんが偶然この教室を覗いたりしなければ。
「私、何も、考えてなかった、押し付けてばかりで、これが最善だって決めつけて、伊織ちゃんの気持ち、知ろうとしなかった」
彼女の頭に、無意識に手を伸ばしかけて、やめた。さんが、ぎゅうと自分の両膝を抱えて、絞り出すような声で泣いたからだ。
この髪に躊躇うことなく触れても良い存在は、辻さんだけだ。
「ごめんなさい」
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。さんは膝に額を押しつけながら、何度も何度も懺悔した。その手の中には、彼女のものではないスカーフが握られていた。