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そもそも、私は一体何のためにダンガンロンパに出演したいと思ったんだっけ。
薄いグリーンの膜につつまれたカプセルの中は薄暗い。浅い呼吸を繰り返していると、不意に、小さいときに遊んだ祖母の家の離れの小屋を思い出した。少し気を抜けばどこかに連れて行かれてしまいそうなほどに静かで、けれど皮膚に重く纏わりつくような闇だった。
自分の呼吸音と、鼓動が煩わしく耳につく。汗がじわりと滲んでくる。
数度の改良を経て軽量化されたらしいヘルメットの形状をした機械は、それでも装着すれば想像以上に重く、横にならなければいつまで支えていられるかもわからないくらいだった。その重みに神経を研ぎ澄ませながら、私は意識的に、呼吸を整える。
プログラムの起動まで、三分。精神を安定させるためか、合成された小鳥のさえずり音が耳の傍から流れ出した。川のせせらぎ。幻の木漏れ日。踊る影。腹の上で手を組んだ。ごつりとした、女にしては太い関節。とろとろした微睡に目を閉じると、私は自分が誰なのか分からなくなる。
何もないのだ。私には。何もないから、ダンガンロンパに出てみたかった。私ではない誰かになりたかった。遠のく意識の中、私は自分が作り上げた「私ではない誰か」を夢想する。
私が作り上げた永遠の少女。あの子は幸せになるだろうか。生きたいと願ってくれるだろうか。
けれどそれは果たして本当に私なのだろうか。
そして目を覚ました私は、まるであれから何百年も経ったかのように錯覚する。眠りにつく前、私は私ではなく、期待と不安に満ちていた。十年近く前、自分が真に高校生だった頃のように。けれど、今はどうだろう。「おめでとうございます」 という機械音声が、あの日延々と響き続けていた小鳥の声のように止まない。
「ご気分はどうですか」
不意に開いたカプセルの前に、その人は立っていた。
視界がぼやける。薄暗いはずの室内なのに、虹彩が光の量を調整できない。起き上がることのできない私に手を差し伸べた眼鏡の女性の胸には、ネームプレートがぶらさがっていた。ブランコのように揺れるそれを、私はまるで催眠か何かにかけられた稚児のように、ただ、見つめている。
チームダンガンロンパ。
口の中で呟いてようやく、私はどうして自分がここにいるのかを思い出したのだった。
非公開とされていたダンガンロンパの優勝賞金は、莫大な借金を返せるほどの額ではないらしい。
「少し休んで行かれたらどうですか?」
まだ覚束ない足元の私を心配してくれたらしい女性に首を振り、私は一人、チームダンガンロンパの所有する建物を出た。白と黒の、一目見てそうだと分かるあのビルの地下一階から四階は、某番組の制作のために使われている。見学も可能だが、一介の見学希望者が見ることができるのは一階と地下のシミュレーションルームくらいだということを、私はつい先日まで知る由もなかった。
最寄駅に着いて、電車が来るまでのわずかな時間にそっと封筒の中身を確認する。何となく厚さから想像はついていたけど、「優勝賞金」とやらはたったの十万円だった。むしろ、本当に価値があるのはこのトロフィーの方か。とは言え、対価としては足りない気がすると、まだはっきりとしない頭で考える。あんなにしんどい思いをしたのに。
友達を裏切り、見捨て、裏切られ、騙され嵌められ、仲間はどんどん死んでいき、最後に残ったのはたったの四人だけ。そのうちの一人が首謀者だなんて、私一人だったらきっと気づくこともできなかっただろう。
あの世界の真実を知ってもルールと言う名の校則は私たちを絡め取った。あそこから「卒業」できるのは二人だけだった。それを知り、言葉を失った私の前で、「だったら、俺が犠牲になるっすよ」と言い、そう手をあげた人。首謀者の元へ向かうその後ろ姿に手を伸ばした。最後まで共に生き抜いた、もう一人の仲間である新堂くんが私の体を羽交い絞めにした。待って、行かないで。そう叫んだ私に、彼は振り向いてくれただろうか。その部分の記憶だけが、塗りつぶされた様に脳から消えている。
だけど、一体何を悲劇のヒロインを気取っていたのだろう。目が覚めた私は思う。私たちは、望んであの世界に入った。自らが志願して、あんな趣味の悪いコロシアイの世界に身を投じたのだ。
一番線に、間もなく電車がやってくるというアナウンスが入る。人の声だ。耳にこびり付く様に残った「おめでとうございます」という機械音声が、ここにきてようやく薄れる。生ぬるい春の風。雑踏の中に紛れ込んでも、私は指を差されることも振り向かれることもない。
「ダンガンロンパV2は未だかつてない反響だったんですよ」
嫌みのない様子で微笑んだ、あの女性の顔が脳裏にちらつく。確か名前は、何と言ったか。苗字に白がついたことは覚えているけれど、何の才能もない平凡な成人女性の記憶力は、ちょっとの摩擦で呆気なく剥がれ落ちていくほどの軟弱さしか持たない。私はあの子とは違う。だから、電車に乗っても私は簡単に埋没する。車窓からの景色を眺めるふりをしながら、そこに僅かに反射する自分の瞳をじっと見る。
。賢く優秀だったあの少女は、もうどこにもいない。
こんなもんかとぼやいた優勝賞金の十万円は、しかししぶとく生き抜いていた。そもそも出て行く理由がないのだ。胸を張れるような趣味もなければ、友達もいない。大学に通いバイトに行くだけの日常。地味で、騒がしい場所が苦手で、吃音気味で、間違ったって彼氏なんかいない。こんな私でも、ダンガンロンパに出たら少しは度胸がつくと思いました。なんてそんなわけがない。
世界は何も変わらない。巷で人気のあの番組に出たって私の人生になんの影響も及ぼしはしない。
「ちゃん、死ぬと思ったけど生き残ったね」
V2の収録を終えて翌日には行った大学で、同じ教室の女の子がそう話しているのが聞こえた。約二十日ぶりに構内に現れた私に、声をかけてくれる存在なんていない。
ダンガンロンパはほとんどリアルタイムの放送だ。最終回近くになると、生放送になるのが定番だと言う。多少の編集が加えられるが、視聴者は自由にコメントを投稿しながら、追体験が出来る、ドッキドキでワックワクの絶望エンターテイメント。まだネットだと反応すごいよ、興奮したような声音で語る彼女たちの声に、つい耳をそばだててしまう。
「ほんと、死ぬと思ったよ。あの子、ちょっと鈍くさそうだったしね」
うん、私もそう思う。頭の中で同意しながら、私は鞄の中から筆記用具の入ったポーチを取り出した。隅に描かれたクマは白黒のあれとは全く違うデザインであるにも関わらず、眉が寄る。あんなに可愛いと思っていたデザインなのに、今は嫌悪感しか湧かない。帰りに新しいペンケースを買って帰ろうと胸に誓う。
「あ~でも、まさか天海くんが犠牲になっちゃうなんてな~」
「いや、でもすごくなかった? 自分が死ぬっていうのに、あの決断力やばくない?」
「ホントに。最後までかっこよかった……」
天海くんって、本当に目の保養だったよねと笑い合う彼女たちを、私はもう視界に入れることもしない。
天海くんは、今頃何をしているだろう、そう思ってしまう自分を殴りたい。だって、天海蘭太郎なんていう人間はこの世にいないのだ。が現実に存在しないアバターであるように。
私は自分の姿を見下ろす。いつも同じような色合いの地味な服に、つま先が傷んでしまったスニーカー。最後に美容院に行ったのはいつだったか。伸びた髪はそれでも一つに結ってしまえばそこまで見苦しくは見えない気がした。
要するに、私はあの子にはなれない。私が作り上げた、。派手さはないけれど良く見たらちょっとだけ可愛くて、朗らかで、枝毛の一つもなければ肌荒れもしなかった小柄な女の子。あの子なら、完全無欠の天海蘭太郎の隣に立っていても、かろうじて許された。
セーラー服から伸びた手足は細くて、眼鏡がなければ、目の前で人が死んでいようが何も見えなかった。そのせいで死体の発見者にカウントされず、犯人に間違われそうになったこともあったっけ。あのときは危なかった。あそこで間違った投票をして、皆がオシオキされたっておかしくなかったのだから。
あのときに私を助けてくれたのは。いや、もっと前、誰もいない教室の隅で蹲っていた私を見つけてくれたのは。
私のヒーローは。
「でも、ちゃんと天海くんってかなりいい雰囲気だったよねえ」
教授が教室の扉を開ける音は、彼女たちの声をかき消すには足りない。
ダンガンロンパはファンタジーだ。フィクションだ。今いる「ここ」とは別次元の世界の話だ。コロシアイを強要する白黒のクマも存在しなければ、仲間を殺さなければ出ることのできない学園なんていうのも存在しない。
スマホを開いて、検索画面にダンガンロンパと打ちかけて、やめる。
放送が終わったV2の総まとめページはもう完成しているはずだ。だけど、それを客観視できるだけの余裕が私にはない。
勿論、理解はしているし受け入れている。呑み込んでいる。私は私自身が望んでダンガンロンパに応募した。生き抜いてみたかった。生を実感したかった。それでは望みが叶って満足か、答えは出ない。
夢を見る。悪夢を見る。私はその中で、友人を裏切り、見捨て、のうのうと生き、天海くんに救われ、器用に歩いていた。記憶はある。何を思っていたかも覚えている。私はあの子だったし、あの子は私だった。だけど本来の私ならしないようなことを平気でやってのけるは、本来の意味では私とは言えない。
目を覚ました私の中には、彼女の残滓がある。眼鏡なんかかけていないのに、俯くたびに耳元のつるを探してしまう。スカートなんか穿いてないのに、座る度に裾を押さえようとする素振りをしてしまう。普段は発しない声量で、会釈だけですませていたやり取りに「ありがとう」と言ってしまう。彼女のように。
一体私は誰だ。答えてくれる人は、どこにもいない。
彼を見つけたのは、偶然だった。
ダンガンロンパV2から目を覚まして、一カ月が過ぎた。
夕飯の冷凍グラタンをレンジで温めているとき、聞き覚えのある声がつけっぱなしのテレビから流れた。録画してあった刑事ドラマの第三話、殺人事件の犯人と思われる男性の友人を演じている俳優が、長い台詞のあとに言葉を詰まらせる。その声に聞き覚えがあった。画面に映り込んだ、その男性。顔をあげて、目を見開いた。
呼吸ができなかった。
私の勘違いでなければ、今画面に小さく映っていたのは。確認するためにリモコンに手を伸ばした。役目を終えたレンジが、しつこく機械音を鳴らしている。
「叶うなら、あいつの代わりに祈りたい。あいつが失ったものを知っているのは、俺だけだから」
ありきたりな台詞を並べる彼は、私の記憶よりも、髪の色が少しだけ暗くなっていた。トレードマークと言っても過言ではないアクセサリー類はすっかりなくなっていたけれど、たれ目がちの瞳や、長い睫毛はそのままだった。感情が昂ぶったのか、言葉が続かずに、顔を覆うその役者の指は細く長い。何度も私はあの手に触れた。いや、違う、触れたのは、だ。
「天海くん」
そこに居たのは、間違いなく、天海蘭太郎その人だった。