傲慢だったのでしょうか。
 わたくしのしてきたことは正しくはなかったのでしょうか。ええ、現状を見れば、そうなのでしょうね。結果が全てなのは、何も勉学に限った話ではありません。わたくしは大罪人です。左右田さんに伝えたように、わたくしたちは、わたくしは、多くの命を奪い踏みにじった人間だったのでしょう。償いきれるものではありません。たとえ、わたくしに強い贖罪の意思があろうと、わたくしの人生をそれに賭したとしても、報われ満たされるのはわたくしの心だけです。
 ですがそれでも、わたくしはこの手で奪ったものに償いたい。赦されようとは思いません。これはわたくしが、わたくしの独善で行う罪滅ぼしです。






ソニア・ネヴァーマインドの場合




 頭がおかしくなりそうでした。
 目を覚ましたときに視界いっぱいに入ったのは緑みがかった半透明の膜、甲高い機械音はもしかしたら耳鳴りだったのかもしれません。動けと命じた手足は微動だにせず、わたくしはまるで深海生物のように目だけを見開いたまま、放心するほかありませんでした。ああ、ここはどこでしたっけ。かさついた唇の端が、ぴしと切れたのは生まれて初めての経験でした。
 そのままどれほどの時間が経ったのか、一分に満たなかったのか、それとも十日であったのか。
 茫漠とした脳がやがて映したのが、直前まで自分が閉じ込められていた島での記憶であったのは幸いでした。絶望的な経験であったことに違いはありませんが、それでも、わたくしはあの世界のなかで、皆さんと共に真実を受け入れたのです。それだけで随分マシだったのです。取り返しがつかない、それがわたくしにとって、一番の恐怖であったのですから。
 そしてその膜は、彼女によって破られました。
 もしも、もしもあともう少しだけ彼女がこの膜を破るのが遅かったら。そう考えると、ぞっとします。一人で受け入れることなど、できようもありませんでした。ボロボロの姿でわたくしに手を差し出したそのひとは、さながら、英雄とは程遠く、けれど穢れがないものでした。今でも目に焼き付いています。薄暗い地下の、温度の低い、生き物の音がしない部屋、そこであなたは確かにわたくしの名前を口にしましたね。



「……ソニアさん」



 美しいままに生きて来られたさんを憎む気持ちはわたくしにはありません。彼女とわたくしでは、あまりに立場が違いすぎます。彼女にはわたくしの知らない苦悩があったことは間違いありませんし、逆に言えば彼女もまたわたくしの絶望を、恐怖を、完全には理解することはできないでしょう。
 水分の少ない指でした。








「ソニアさんと田中くんはプログラムの中で仲良しだったけど、やっぱり希望ヶ峰学園に居る頃からそうだったの?」



 談話室に現れたさんは、わたくしと些細な会話をした後にさり気なくそう切り出しました。
 西園寺さんをプログラムにかけてから数日が経ちますが、彼女はまるで拒否するように眠り続けたまま。微動だにしないその脳波に紐山さんが「どうも深いとこにいるみたいだ」とデータを指して呟いたのは、つい昨日のことです。



「つまり、田中さんをプログラムにかけようとお考えなのですか?」



 なるべく感情を悟られないようにしたかったのに、少し体が前のめりになってしまったのは失態だったかもしれません。さんは食後のお茶がまだ半分は残ったカップに両手を添えると、「正式に決まったわけじゃないんだけどね」と申し訳なさそうな薄い笑みを浮かべました。その指先は繊細で、華奢で、まるであの日わたくしの頬に触れたそれだとは思えません。
 時が、経ちました。あのころとは随分状況が変わりました。わたくしたちだけだったこの島は、今は他の未来機関の方々や目覚めた七十七期生で賑々しいです。
 それでも彼女がいつもよりもどこか頼りなげに見えるのは、目の下の隈が色濃いせいなのかもしれません。さんは小泉さんや花村さん、澪田さんと違ってすんなりと目を覚まそうとしない西園寺さんに、酷く心を痛めているのでした。



「日寄子ちゃんは後にして、次の被験者に進むべきだって紐山さんが言うから。だから今急いでデータを集めてるんだけど……。ソニアさんも良かったら協力してくれないかな」

「モチのロンです! わたくしにできることがありましたら、何でも申し付けてください」

「わ~ありがとう! あ、じゃあ今からちょっと時間もらってもいい?」

「ええ、よきにはからいなさい!」

「やったあ、はからわせてください!」



 頷くわたくしに慌ててお茶を飲み干すと、さんは準備をしてくると言って談話室を飛び出して行きました。廊下に出た直後に職員の方とぶつかりかけ、大仰に謝罪をしてまた駆け出す彼女は今日もスニーカーを履いているようです。
 少し前に日向さんに切ってもらった髪を一つに結んで、前だけを見て走り続けるその小さな背中が背負うものの大きさをわたくしは理解しているつもりでいました。
 彼女が去ったことでわたくし一人になった談話室は、それでも嘗てより音が増えました。向かいの食堂から食器を洗う音が聞こえますがあれは恐らく花村さんです。談話室の前を、調子を取り戻した澪田さんがスキップしていきました。日向さんは手に大量の資料を持っていて、器用にまとめながら澪田さんを追いかけます。部屋の中からは窺うことができませんが、どうやらその先で小泉さんと鉢合わせたらしいです。



「あ、悪い小泉! これを紐山さんのところに持って行ってくれないか!」

「はぁ? またなの!? もー、たまには自分で持って行きなさいよ」

「いや、ごめんって、澪田が」

「創ちゃーん!! 早く早くー!!」

「わかったって! 小泉頼む、今度礼はするから」

「ああもう、わかったから早く唯吹ちゃんのとこ行って!」



 日向さんたちが向かって行ったのとは逆方向に向かって歩く小泉さんが、開きっぱなしの扉の先で見えました。眉を寄せながらも脇に資料を抱えた彼女は、目覚めた直後とは違いしっかりとした足取りをしています。ここで一人コーヒーを飲んでいるわたくしのことなど、彼女は気が付きもしません。
 すると食堂の方から終里さんが満足そうにお腹を撫でながら出てきました。日課のトレーニングに向かうのかもしれません。もしも弐大さんがいらっしゃったら、食べた直後は動かない方がいいとアドバイスをなさるのでしょうが、彼はまだ眠り続けたままです。終里さんは、皆さんより遅い時間に食事を摂る九頭龍さんとちょうど入れ違いになりました。二人は何言か言葉を交わしていましたが、生憎私の耳に二人の会話の仔細までは届きません。けれど、お二人は昔よりもずっと打ち解けた様子でした。九頭龍さんが躊躇いなく終里さんの肩に触れたのを、わたくしはただ、見つめています。
 わたくしたちは、もう何年を共に過ごしたのでしょうか。どれだけの時間を共に生きたのでしょうか。それは互いを信頼するに足る時間であったでしょうか。わたくしがわたくしとして見てもらえるにはそれでもまだ足りないのでしょうか。
 報いなければなりません。戦わねばなりません。わたくしは犯した罪の重さに負けてはならないのです。けれど時折、恐ろしい。わたくしは、この恐怖心を曝け出して良いのでしょうか。ここにはわたくしを、わたくしの苦悩を理解してくださるひとはいないのに。



「やっぱ血なんすかね」



 左右田さんの言葉が、不意に脳裏を過った瞬間、わたくしは。








「わたしはあいつが一番嫌い」








 気が付いたら、わたくしは飲みかけのコーヒーをそのままに、立ちあがっていました。
 窓から見える薄曇りの空は今にも雨が降りそうで、これでは今日の夕日は期待できないと、そう思って、そうしてようやくわたくしは、自分が上手く呼吸をできていないことを今になって、知ったのです。








「あれ?」



 保管庫から田中くんのファイルを持って談話室に戻ると、そこには誰もいなかった。
 ソニアさんがさっきまで使っていたマグカップは、中身を半分ほど残したままそこにある。お手洗いにでも行ったのだろうかと先ほどの席に腰を下ろすと、私は目頭の辺りをぐりぐりと揉んだ。最近は、少しだけ寝不足だ。欠伸を噛み殺しながらざらついたファイルの表面を撫でる。
 ソニアさんが戻ってきたら、空いてる部屋を探して色々話を聞かせてもらおう。鍵がかかって、あまり人の来ない部屋がいい。ああだけど、ソニアさんだったら私の個室でもいいな。ソファに座って、のんびりお茶でものみながら聞かせてもらえばいい。その方が私も彼女も気を張らなくてすむだろうから。夜が明けるまで二人でいたあの日のように。
 そう考えながらファイルのページを一枚だけ捲る。超高校級の飼育委員、田中眼蛇夢。私の記憶よりも大人びた目つきをした彼は、それでも絶望しているというよりはずっと強い意志をその瞳に宿らせているように思えた。








「おい、



 不意に肩を叩かれて、自分が今意識を飛ばしていたのだと知る。顔をあげるとそこにいたのは九頭龍くんだった。



「こんなところで寝るくらいなら自分の部屋に行けよ」

「……え、今私、寝てた?」

「ああ。つーかそれ、お前しか閲覧権限がない例のファイルだろ。それ持ったまま寝るってどういうことだよ、危機感ねぇ奴だな……」

「うわっほんとだ……起こしてくれてありがとう……」



 まだ朦朧とした頭でなんとかお礼を言う。ソニアさんがすぐに戻ってくるだろうと踏んで、気を抜いてしまっていたらしい。「そうだ、ソニアさん知らない?」尋ねながら顔をあげると、中身の残されたマグカップは私が意識を失う前と全く同じ場所に置かれたままであることに気づく。
 壁にかけられた時計を咄嗟に見るも、そもそも戻ってきたときに何時だったかを、私はきちんと見ていなかった。だけどさすがに、お手洗いに行ってこんなに遅いということはないだろう。マグカップに触れると、それはもはやひやりと冷たい陶器の感触しか残さない。



「なんだ? ソニア?」

「うん……九頭龍くん、見てない?」

「いや……。見てねえな。今昼飯を食って、食堂から出てきたら丁度テメーが寝てるのが見えたから声をかけたんだ」

「ああ、そっか……ありがとう」

「なんだ? 捜すか?」

「あ、ううん大丈夫。でももし見かけたら私が捜してたって伝えてくれたら嬉しいな」

「おお、分かった」



 九頭龍くんに手を振って別れると、私はファイルを抱えて談話室を出る。右足のスニーカーの靴紐が解けていたことを、私はこのときから気が付いていた。


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