オレは悪くないとどこかで思っていた。あのプログラムから目を覚ましてもなお。
あのカプセルから起き上がったときに一番最初に思い出したのは何の記憶だっただろうか。思案してみても、オレはそれをはっきりとは思い出せない。だけどそれが、希望ヶ峰学園での記憶でもなければ江ノ島の犬に成り下がっていた日々でもなく、あの南国の島で過ごした記憶だったことは確かだ。景色だったか、一緒に過ごしたあいつらの顔だったか、それとも誰かの死体だったか。楽しかったことも二度と思い出したくないことも混ざり合ったそれは熱を持ったヘドロのように体の内側にへばりつく。
ぼやけていた記憶が徐々に鮮明になっていく頃、不意に自分が作り続けた白黒のクマを思い出した。オレが生み出したあいつらは、オレの知らないところでどれだけの命を奪ったのだろう。恐ろしくなって叫ぶ。違う、オレじゃない、オレのせいじゃない。そう言って泣くオレの傍にいてくれたのは、だった。
「左右田くん、トランプしよ! 神経衰弱!」
はオレがおかしくなる周期というのを知っているとでもいうかのように、オレの部屋を訪れた。夜中だって言うのに日向を連れて、まだ貴重品である菓子を持って、罪を犯したオレに屈託なく笑いかけるあいつにどれだけ救われたか。
目覚めた絶望の残党のケアもあいつの仕事の一つだと分かっていたけれど、が本気でオレたちに向かい合ってくれているのは伝わってきた。オレたちに付き合って長い間眠り続けていただって、本当はまだ調子が戻っていないというのに。実際、日中に事務作業の途中で椅子に座ったまま眠りこけているあいつを見かけた回数は、片手では足りない。
オレと日向と、夜通し三人で喋ることは少なくなく、時折メンバーが増えたり減ったりしたけれど、しかしソニアさんは決してそこに混ざることはしなかった。と言っても、避けられているわけではない。と、思いたい。挨拶をすれば眉を寄せるでもなく丁重に返してくれるし、食堂ですぐ傍に座っても立たれるようなことはないのだから。
「ソニアさんは今日も美しかった……」
ある日の前で不意にそう漏らしたら、あいつは目を数度瞬かせて、それから笑った。
「左右田くんがソニアさんのことを口にするなら、もう大丈夫だね」
その言葉に面食らうのはオレの方だった。
大丈夫。そう言われて、いつの間にか自分がぐらつくことなくこの足で立っていることに気が付く。誰にも責められることのないこの島では、自分が犯罪者だという自覚は薄い。誰も口火を切ったりはしないが、日向たちだってあの絶望に染まった世界で何か罪を犯していたことは間違いないのだ。九頭龍は自分の組を滅ぼし、ソニアさんだってそうだ。彼女が生きているということはそういうことだ。
オレたちは運命共同体だ。共に罪を背負い、世界から切り取られた孤島で生きる。
左右田くんは大丈夫。それはまるで甘い蜜のようだった。江ノ島の声が聴こえなくなったこの耳に、の言葉は魔法のように染み込んでいく。
がオレの部屋を訪れる回数は減った。オレたちのケアを終えたあいつは、今度は眠った連中を起こすつもりらしい。途方もない計画に、オレの方が心配になる。
罪と向かい合う必要がオレたちには、いや、オレにはあった。
自分のエゴだと言い切って小泉たちを目覚めさせていくの後ろ姿を見つめながら、いつまでも逃げていた自分自信を自覚していたはずなのに、それでも怖かった。
目を覚ました澪田は嘗ての面影のないまま子供のように振舞った。あいつも自分の過去と向かい合う気がないのだと思った。だけど、澪田は今、短くなった髪の毛を振り回さんばかりの勢いで「おはようございまむ!」と未来機関から派遣された職員に挨拶をして回っている。をライブハウスに連れまわしてピアノを教わっているとまで言うのだから、単純に、すごいと思う。
小泉は元々要領のいい奴だから、体調のいい日は単純な事務作業をこなしているらしい。が澪田に付き合う余裕ができたのは、きっと小泉のおかげだ。花村も料理の下ごしらえを手伝っていたが、最近では包丁を使うようになったらしい。勿論、未来機関の職員からの徹底した監視があるのは言うまでもないが、それでも時折食堂で顔を合わせるあいつは嬉しそうに皿を指差して、「ふふ、これね、ぼくが切った野菜」と教えてくるから、オレはその度に、自分が抉られていくような気になる。
喜ぶべきだった。仲間が目を覚まして、罪を受け入れて、前向きに生きていこうとしているその姿に。
だけどどうしても居心地の悪さを感じてしまう。その理由をオレは知っている。
「お前もいい加減腹くくりなよ」
「あなたもわたくしも間違いなく、大量殺人者なのですから」
脳内で再生される紐山とソニアさんの言葉が、突き刺さったまま抜けない。
「キミの作った多種多様のモノクマが、多くの命を奪ったのをこの目で見ていた」
オレは悪くないと思っていた。だってそうしなければオレが殺されていたのだから。そう言い聞かせることで自分の罪から目を背けていた。
顔をあげたオレに、狛枝はどこか冷めた目を向けている。だけどそこに侮蔑の感情は少しもない。狛枝はただ、事実を並べているだけだ。「勘違いしないでほしいんだけど」そう前置きをして語る、その口調はどこまでも平坦だ。
「ボクは別にキミを責めているわけじゃないよ。そりゃあ、輝かしい才能を持った七十八期の後輩たちを失ったのは手痛い損失だと思う。だけど、その他大勢の才能のない人間の命がいくら失われても世の中はそう変わりはしない」
いつもの語り口に返事が思いつかず、冷めきったコーヒーの入ったマグカップに目を落としたオレに、「……と思っていたんだけど」と狛枝は続けた。だから、顔をあげる。
「さんのせいかな。最近、どうもボクは感化されたみたいでね。そんな無価値な人間も、誰かにとっては価値があるんじゃないかって思い始めてるんだよね」
「……は? お前が?」
「そう、このボクが」
気持ち悪い話だと思わない? 同意を求める様に自嘲気味に笑みを浮かべた狛枝は、マグカップを流しに置く。
「人って変わるものだね。本来なら、ボクは絶望に染まった過去を持つキミたちとなんか一分一秒と一緒にいたくないと言ったっていいはずだった」
「……お前だって絶望してたんじゃないのかよ」
「え、ボクが? 心外だなぁ、ボクは素だったけど」
「いやいやいや、素で手首切ったのかよ、やべえだろ!」
「うーん、まあボクの話はいいじゃない。キミに話したって理解してもらえるとは思えないし」
馬鹿にされているような気がするが、話が逸れるのはお互い本意ではないようだ。「まあだけどさ」と狛枝は続ける。
「さんが大切にしてるキミたちのこと、一緒に信じてみてもいいのかなとは思い始めてるのは本当」
まあ、本当に信じきることはできないけど。
そう言いながら、狛枝はオレの隣に座った。なんだそりゃ、と言いたくても、声が出ない。狛枝の重みでソファが引っ張られ、やや体が傾く。そこに人がいることを、こんなことですら嬉しく思う。オレは大罪人なのに、それでもここ生きて、仲間がいることに安堵している。大切だと、誰かに思われていることがたまらなく嬉しい。
ああ、ずりいな。喉が痛んで、皮膚がびりびりと痺れる。泣いてしまう。そう気が付いた瞬間には、ツナギを捲った腕に涙が落ちていた。
「だからやっぱり、キミは自分の犯した罪と向き合うべきだ」
言葉とは裏腹に、酷く優しい声だった。
わかってる、そんなこと、鼻水を啜りながら言葉にならない嗚咽を漏らす。いや、ちがう分かっているのではない。認めたのだ、オレは。オレは自分の罪とやっと向かい合った。オレは大量殺人者だ。大罪人はオレだ。今になってやっとそれが骨身に染みる。ぐずぐずと泣き続けるオレに、狛枝は小さく息を吐いた。
プログラム室の扉を叩くと、中から煩わしそうな紐山の「開いてるよ」という声が聴こえてきた。
扉を開けると、データを確認していたらしい紐山がパソコンから顔をこちらに向けて、「なんだお前か」と眉を寄せた。その目の下には消えないくらい深い隈が出来ていて、かつて学園に在学していた頃の面影が消えていることを今更思い知る。
「寝てきた? もしだったらこれ変わってくれない? 徹夜したせいで意識飛びそう」
「さすがに二日連続徹夜はきついな」と欠伸を噛み殺しながら言う紐山は、自分の話をほとんどしない。
紐山が使うテーブルが、一部歪んで変形していたことに気が付いていなかったわけではなかった。ただ目を逸らしていただけで。
かつてはこのプログラム室には日向もいた。紐山が一方的に日向を嫌ってここから追い出したようにも見えたが、もしかしたらそれはオレがそう思い込んでいただけに過ぎなかったのかもしれない。何か、紐山の思惑があったのだろう。それがなんだったのかはオレには分からないし、きっと紐山も話してはくれない。
「紐山」
散々泣いた。もう涙なんか出ない。
オレの声に、けれど紐山は何かを察したように顔をあげる。腫らした目のオレに僅かに眉を寄せたのを、頭を下げる直前に確かに見た。
「ごめん」
紐山嵐。七十六期の超高校級の幸運。バイクが好きで、在学中にはそれなりに言葉を交わした。可愛がっていてもらった自覚はある。だから再会したときは嬉しかった。生きていてくれたことが奇跡だと思った。さすが幸運なだけあるなと笑ったオレに、だけど紐山はどう思ったのだろう。
「紐山さんっているでしょ? ボク、あの人が気になってね、調べたんだ」
嗚咽を漏らして泣きじゃくるオレの背中をぽんぽんと叩きながら不意に狛枝が漏らしたのは、思いもよらない人物の名前だった。鼻を啜りながら「紐山ぁ?」と尋ね返す。
「だって優秀な人材じゃない。『島流し』される必要がないくらいに。ということは彼は自ら望んでこの島にきたんだよ」
「……自分から? なんで」
「ほとんど面識のない第十四支部のためではないことは確かだね。じゃあどうしてだと思う?」
質問しながら狛枝は立ちあがる。背表紙の揃わない本棚から一冊のファイルを引き抜いて戻ってきた狛枝は、口を引き結んだままのオレの前に開いて見せた。
紐山嵐。七十六期生。超高校級の幸運。恐らく狛枝自身がまとめたのだろう。ちょっとしたプロフィールのあとに、紐山の家族が全員死亡しているとの旨が記載されていた。絶望の残党が製作したと思われる「通称モノクマ」により死亡を確認。そう注釈がなされていたが、そんなものがなくてもオレの背筋を凍らせるには充分だった。
「彼は本当は復讐に来たんだよ」
狛枝の声は、もう耳に入らない。
「分かってて謝ってるわけ?」
どれくらいの沈黙が流れていたのか分からない。時折コンピュータの動作音が微かに耳をつくくらいの静けさだった。同じ姿勢で頭を下げ続けていたせいで、眩暈がし始めていた。
それくらい、紐山はずっと黙っていた。それは普段口数の少なくないこの男を知っているオレだからこそ分かる、不自然な沈黙だった。頭を下げたまま頷くわけにもいかず、床の木目を穴が開くほど凝視しながら、掠れる声で「ああ」と言った「……多分、全部」と先回りするように続けたのは、これ以上質問されるのに耐えられる自信がなかったからだ。
「そう。……あ、頭あげていいよ。苦しいでしょ」
言われてゆっくりと上半身を起こすと、覚悟していたのに、紐山は責めるでも怒るでもなく、組んだ足に肘をついて目線を空中に投げていた。
「……どうしてバレたんだろう。……さんがそこまで視野が広いとは思えないし、勘のよさそうな日向は早々に追い出した。……ということは、狛枝凪斗?」
「……」
「厄介だなあいつは。何か言ってた?」
「……あの」
「だったらそれが正解だよ。もーいいんだって。めんどくさいしこの話」
くるりと椅子を回転させて、紐山は再びパソコンに目を向ける。しんどそうに目頭を抑えながら、データのチェックに戻るその横顔は、まるでオレに敵意があるようには見えなかった。
狛枝の言葉が不意に脳裏を過る。
「ただ本気で彼に復讐するつもりがあったなら、プログラムに何かしかけていたはずだ。だけど彼の仕事ぶりは評価するに値するでしょう? つまり、もう彼自身にその気はないのかもしれない。その理由は分からないけれど」
狛枝が何か推理をしていたのなら、それが正解だと、半ば投げやりに紐山は言い放った。つまり、今の紐山は裏もなくオレたちに協力してくれているのだろう。だけど、ならばその復讐することを放棄した理由は何なのか。オレは何も分からない。こんなに近くにいたのに、何も見えちゃいない。悔しくてたまらなくて、そんなオレに諦めたように接する紐山に対しても、言いようのない不条理を覚えた。
言ってくれなきゃ、わかんねえよ、そう呟いたオレに、紐山はキーボードを叩いていた手を止める。
「……何?」
「言ってくれよ、罵って、憎んでるってはっきり言えよ、お前が殺したって言えばいい。だってモノクマを作ったのは、オレだ。やり返されたって、オレは、こええけど、文句なんか言えねえよ、それだけのことをしたんだ」
「あのさ、そうやってやり返してなんかある? お前は痛い、オレもすっきりしない、だってお前が死んだって両親も妹も帰ってこないんだから」
有無を言わさないような、強い声だった。見透かすようにその黒い瞳がオレを射抜く。腹をくくれと彼は言った。「短慮だよな」そのときと全く同じ声で、紐山は息を吐く。
「自分の死でしか償えないと思ってるなら、ちょっと冷静になりなよ」
立ち尽くすオレに、紐山は向き合った。
「お前が死んだら悲しむ奴っていっぱいいるでしょ? さんもそうだし、日向や狛枝凪斗もだ。折角目覚めた連中もそのショックで絶望に戻っちゃったら笑えない」
ぎい、と紐山の座る椅子が音を立てて軋む。「確かにさ」と吐きだす、その声はいっとう低い。
「お前を殺してやるつもりだった」
弾かれるように、俯きかけていた顔をあげる。脚を組んだまま、テーブルに肘をついてオレを見上げる紐山の表情は、どこか泣き出しそうにも見えた。
「自らこの島へ行くことを志願して、めちゃくちゃにしてやるつもりだった。眠ってるやつらにはプログラムに何か仕込むか、そんな回りくどいことをしなくても事故を装って生命維持機能を停止させればよかったし、さんには悪いけどさ、既に目を覚ましたお前たちにも一服盛るなりなんなり、なんだってできたんだよ」
「……紐山」
「でもできなかった。一番殺したかったお前が、涙でぐしゃぐしゃの馬鹿面下げて『生きてたんだな』なんて言いながらぼくにしがみ付いてくるんだから。毒気抜かれたよ。何が絶望の残党だ。お前は希望ヶ峰にいた頃のままだったじゃないか」
「……」
「だからさあ、もう腹くくれよ」
黒髪の下の、意地悪気な釣り目が細められる。
あれから何年が経ったのだろう。中庭でバイクの雑誌を広げていたオレを覗き込んで、「お前、バイク好きなの?」と声をかけてきた紐山は、老けた。苦汁を舐め、凄惨な世界を絶望することなく生き抜いた男は、立ちあがることもしないまま可動式の椅子を滑らせて、オレの元までやって来た。
「お前の才能はきっと、世界を少しは良くするよ」
だからお前たちを信じることに決めたんだ。
そう言われながら見上げられて、耐えられないと思った。
もう充分狛枝の前で泣いてきたはずなのに、呆気なく涙腺が決壊して目の縁を越えていく。ぼろぼろと泣くオレに、紐山は何も言わずに自分の定位置へと戻っていく。紐山がキーボードを叩く音だけが響いていく。江ノ島の声はもうとっくにオレの脳から消え去っていた。
オレは大罪人だ。誰のせいでもない、あれはオレの犯した罪だった。
嗚咽を漏らして泣いていたら、ティッシュの箱が投げつけられた。何とかそれを受け止めて、音をたてて鼻をかむオレに、紐山は声を殺すこともせず笑った。