世界の終わる音を知っているか。






 一体いつからこんなことになったのかは定かではないが、どうやら既に世の中は駄目になってしまっていたらしい。
 あんなに煩かったはずの予備学科たちによるパレードは学園の外へと波及していったのち、役目を終えたとばかりに静まった。二千人あまりの生徒が全員死んだのだ。あんなに待遇改善だ、贔屓だ、詐欺だ、って威勢よく訴えていた連中が、腹の中の灯火に微かな風を吹きつけられただけで電源が切れたように動くのをやめた。傍から見ていたらそれはまるで異様な光景だった。
 まず教室から消えたのは罪木だったか、狛枝だったか、いや、ほとんど同時期だったか。澪田が頭痛が酷いからと言って地下にある自分の研究室に籠り、西園寺が半月ほど学園を休んでいたあとのことは、今でもよく覚えている。
 小泉が去り、九頭龍と辺古山が消えた。他の連中はどうだったのか知らないが、オレは外の世界の惨状に頭がついていけずそれどころではなかったから、他人を心配している余裕もクソもなかった。いつの間にか教室に戻ってきた西園寺は、小泉がいないことを知ると表情を消した。あいつが怒鳴らなくなったのは、いつからだったか。童貞、キモい、と罵られていたのは、もうずっと昔のことのように思えた。
 九頭龍組の内部抗争、新聞に載ったあいつの写真を撮ったのは小泉らしい。西園寺は口を噤む。机に突っ伏すあいつの表情を読み取る術はオレにはないし、かける言葉なんかも持ち合わせてはいなかった。
 こんなときでもずっと研究室でなんかの料理を考えていたらしい花村も、いつの間にか外の世界に出ていった。風の噂では地元に帰ったらしい。マジでヤバくなったのはこの後だったか。終里を追って弐大が消えた。田中が人知れず去った。
 そしてオレと西園寺、ソニアさんだけが教室に残されたのだ。



「大丈夫です、きっと皆さん戻ってこられます」



 オレたち二人を勇気づけようと力強く微笑んでくれたソニアさんは神々しく、オレはほとんど気が狂いそうになりながらもなんとか笑った。西園寺は何も言わず、伸びた手足を丸めて座った。西園寺はもうほとんど口をきかなくなっていた。普段からソニアさんに悪態づいてたやつだ。それでもこんなときくらいは、残された三人でどうにか、力を合わせて。言いかけて言葉に詰まった。西園寺の目が、生気を失いながらも、オレを射抜く様に見つめたからだ。
 校舎の窓から見える景色は、いつ頃からか、赤黒くくすんでいた。
 学園長たちは、対応に追われているらしい。全員が命を絶った予備学科、次々と学園の外に出ていく本科生。時折数日分の食糧を持ってオレたちの様子を見に来るが、学園長が後手に回ってしまっていることはその顔色から見ても明らかだった。



「……田中くんもか。そうか」



 二日前までこの教室にいた田中の名前を口にしながら、学園長は目頭を抑え俯く。自信に溢れ、精悍だったその顔付きに諦めの色はなかったが、それでも学園長の言葉は縋るには足りなかった。



「もう少し、辛抱してくれ。きっと何とかしてみせるから」



 元々信頼していた人物であったかどうかというのは重要だ。オレは学園長が去った後、ソニアさんがフォローするように「わたくしたちはできることをしましょう」と柔らかく微笑んだことに、救われる。西園寺の舌打ちが聴こえる。あいつの苛立ちは、それだけでも十分すぎるほどに伝わってくる。








「でもソニアさんはキミたちを置いていなくなったわけだ」

「……何で知ってるんだよ」

「与えられた情報で推理すれば簡単でしょ? ソニアさんの祖国で起きた事件は、さんたち七十八期生が旧校舎に籠城することになった少し前のことだったはずだ」

「日付けまで覚えてるのかよ!?」

「大体だけどね」



 さっきまでオレが眠っていたソファに体を沈めながら、淹れたコーヒーを一口飲む狛枝の顔はまだどこか眠たげだ。完全には覚醒していないはずの脳でそこまでの推理が出来るならば、こいつはひょっとしたらオレのしでかしたことなんか御見通しだったのかもしれない。言葉に詰まったオレに、狛枝は「まあいいから続けなよ」と水を向けた。
 狛枝がオレのために淹れたコーヒーは、手をつけられずにテーブルの上に置いてある。黒々とした液体はなだらかで、そこだけ時が止まったかのように静かだ。「どうせブラックなんか飲めないでしょ」と狛枝が馬鹿にしたような言い方で置いていったミルクを手に取る。手のひらの中に収まるそれは、確かめるまでもなくやわく、形を変える。








「どうか恨まないでください」



 ソニアさんがその日最後にオレたち二人に向けて言った言葉は、懺悔というよりは、餞と言っても良かった。
 ソニアさんの金色の髪は窓から差し込む夕日にきらめいて、冗談のように美しかった。オレにとって彼女は女神に違いなく、その思いはこのときに尚加速したのかもしれない。一年半を共に過ごした連中が、一人ひとり消えていく。九頭龍は何があったのか自分の家族を殺し、小泉はそれを広めた。今やあいつの写真を目にしない日はなかった。テレビやネットにあがる世界の現状を知らせる写真のほとんどが小泉のものだった。「おねぇの写真だ」ぽつりと西園寺がつぶやくから、オレには判別がつかなかったが、そういうことだったのだろう。あいつは外の惨状を見せる写真を眺めているときだけは、柔らかな目をしていた。空恐ろしかった。
 ソニアさんは、オレたちを置いて去った。



「速報です。ノヴォセリック王国にて、昨日――」



 彼女の祖国で起きた出来事をテレビが伝えたとき、オレは教室でたった一人になっていた。西園寺もまた、どこかに消えてしまっていたのだった。
 何が起きているんだろう。教壇の下に潜り込んで震える膝を抱えながら思う。
 先日、学園長に一年の連中と一緒に旧校舎に籠城することを勧められた。二、三年の本科生でこの学園に残っているのは、最早オレだけだと。澪田の存在が脳裏をちらついたが、あいつはオレが何度研究室の扉を叩いても出てこなかった。最新の防音設備が整っているあの研究室は、いくら扉に耳をつけたところで何の音もしない。いくらスゲー技術を使ってるからって、少しくらい音漏れしてたっていいはずなのに。それに気が付いた瞬間、澪田もまたこの学園を出て行ってしまったのかもしれないと思った。他の皆のように。



「ひとりになっちまった」



 厳密に言えば。
 きっとオレは一人ではないのだろう。学園長の言うように、一年の連中はまだ大勢学園に残っていると聞く。桑田怜恩とかいう超高校級の野球選手は懐っこくて、オレに馴れ馴れしく話しかけてくるし、狛枝と仲のいいとかいう女子生徒はなんかの流れでオレにイルカのマスコットをくれたこともある。あいつらのところに行けば、少しはこの孤独も紛れるのではないか、そう思っても、震える膝が言うことを聞いてはくれない。
 同じことを繰り返すのではないか? 今は大勢いるっていう一年の連中も、明日になれば分からない。全員が一斉に外に出ていくようなことはないと、誰が保証してくれるのか。
 オレはもう誰かに置いて行かれるのはいやだ。
 これ以上の孤独を味わいたくない。置いて行かれるのは嫌だ。どこに行ったんだ狛枝。九頭龍は何を考えていたんだ。今も生きていると分かるのは、写真を取り続けている小泉だけ。西園寺はどうしていなくなったんだ。祖国に戻ったソニアさんは無事なのだろうか。もしもソニアさんが死んでしまったなら、オレは一体何に縋って生きていけばいいんだ。
 教壇の下で丸くなるオレは、誰かの足音を聞いた。心臓が縮まった。



「あっれ~? 誰もいない」



 良く通る女の声だった。このクラスの誰のものでもないそれに、手汗が滲む。
 誰だ。誰だ? 分からない。こつこつと響く固い靴の音は、段々近づいてくる。息を殺した。こんなに音がしない世界を、オレは知らない。きんと鳴る耳鳴りすらも、自身の鼓動がかき消してしまう。教壇の端にかけられた、作り物のように細く美しい繊細な指の先に塗られた赤い色。覗き込まれたとき、どうしてオレはほっとしたのだろう。



「みぃつけた」


 
 非の打ちどころのない整った顔面が笑みの形に歪む。媚びる様に囁かれた「左右田センパイ」の声に、オレはほとんど反射的に「はい」と答えていた。
 超高校級のギャル。江ノ島盾子。
 世界がこんな風になってしまった今でも笑っていられる、こいつはきっと頭がおかしい。


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