凪斗くんがついてきているらしいことは、薄々感じていた。
 散歩をしているだけなんだから、そこまで過敏に心配する必要はないのに。心強いと言えばそうなんだけど、ちょっと落ち着かない。



「唯吹ちゃん、行ってみたいところはある?」



 今日のジャバウォック島は暑い。暦の上ではもう、夏だ。
 プログラムの中にいた頃晒されていた、容赦の無い日差しを思い出す。帽子を被っているとはいえ、日焼け止めを塗るのを忘れていた。唯吹ちゃんの白い肌が焼けてしまっては申し訳ない。なるべく建物の影になっているところを歩くと、雑草がちくちくとむき出しの足首を刺していった。
 唯吹ちゃんは私の質問に返事をしない。眠っているのだろうかと思って顔を覗き込んだら、白い帽子のつばの下で彼女はしっかりその目を開けていた。瞬きをほとんどしないことが、少し気になった。情報の整理をしているのだろうか。良い方に転がればいいんだけど、と、念じるように思う。
 唯吹ちゃんを外に連れ出してみたらどうかと私に提案してくれたのは、苗木くんだった。



「もしかしたら、彼女にとって何かいい刺激になるかもしれないし」



 通信室の液晶の向こうで、彼は言う。穏やかな目は、だけど私の背を押すような強さがあった。私はいつも、彼の言葉や、存在そのものに支えられている。
 話を聞いた凪斗くんは自分が行くと言ってくれたけれど、真昼ちゃん以外で、今の彼女が一番心を開いているのは自分だと思ったから断った。唯吹ちゃんは、本人が意識しているのかそうでないのか定かではないけれど、男の人よりも女性に懐いている。最近は病室でも、日向くんよりソニアさんが傍についていることが多いくらいだった。
 唯吹ちゃんで、あのプログラムから目を覚ましたのは三人目だ。もう、と捉えるべきか、やっと、と捉えるべきかは分からない。
 本当は、紐山さんや本部が強く忠告しているように、次の被験者に時間を割くべきなのだろう。目を覚ました唯吹ちゃんのケアに注力を入れるのではなく、同時進行、或いは他の七十七期生を優先すべきだ。――頭では分かっているのに、どうしても、何をしていても唯吹ちゃんのことが引っかかった。データをまとめながらも、伊吹ちゃんの青白い顔が脳裏にこびりついていた。なんとかしてあげたかったのだ。快活で、良く笑って、たくさん歌って、突拍子もないことを言ったり、突然走り出したりする唯吹ちゃんに、やっぱり私はどうしても会いたかった。絶望の影響を、少しでも多く唯吹ちゃんから取り除きたかった。
 どれくらい黙っていただろうか、唯吹ちゃんはやがて橋の向こうを指差した。潮風に晒されて塗装が剥げたあの橋は、中央の、公園のある島へと続いている。



「公園に行きたい?」



 そう口にした私に、唯吹ちゃんは、小さく頷いた。
 その小さな頭蓋に、私は触れたくてたまらない。撫でてあげたい。そのまま泣きついて、縋りつけたらどんなに楽だろう。唯吹ちゃんがそんなだと、何だか調子が狂ってしまう、って。だけど、私がそうしたら唯吹ちゃんはきっと困ってしまうから、だから私は気丈に振舞うしか道がない。



「よし、行ってみようか」



 唯吹ちゃんは、返事をしない。








 ちゃんは唯吹の乗る車椅子を押しながら、ゆっくりと話してくれた。それは思い出話でも、質問でもなんでもなくて、ほとんど独り言のようなものだった。



「あの雲、歯ブラシみたいだねえ」「ぎゃ、虫だっ」「あんなに建物が小さくなったね」「唯吹ちゃんの部屋はあのへんかなあ」「ちょっとお茶飲むね。唯吹ちゃんもこまめに飲んでね」



 唯吹はそのひとつひとつに、曖昧に頷く。こうしていると、唯吹はどんどん小さな子供になっていくような気がした。まだストラトを手にする前のおかっぱ頭の小学生の頃でもなく、耳鼻科の診察室を凍りつかせた幼児の頃でもなく、もっと小さい、赤ちゃんくらいに。
 唯吹が座っているのは車椅子ではなくてベビーカーで、押してくれているのはちゃんではなくて、おかあさん。ひとつひとつ、丁寧に、読み聞かせをするように、おかあさんは唯吹に話をしてくれる。首を絞めたことなんてないですよ、唯吹を実家に預けっぱなしにして働いてなんていませんよ。家に帰ればおもちゃがいっぱいあって、ミルクを吐き戻したらすぐに着替えることができるくらいにたくさんの肌着が準備されていて、夜になればちゃんと名前のあるおとうさんが帰ってきて唯吹を抱っこしてくれる。唯吹はそんな夢を見る。
 だけど、そんな唯吹を誰かが頭の中で殴ってる。背の高い唯吹だ。耳にたくさんの穴を開けて、奇抜な髪型で、大きな声で、「しっかりするっすー!!」って唯吹の肩を掴んで揺さぶるあの唯吹は、なんだかとても憐れだった。誰からも遠巻きにされたから、遠巻きにされて然るべき唯吹になろうとしたあの唯吹は、今の唯吹から見たら滑稽で、唯吹は目を閉じる。耳を塞ぐ。
 しっかりするっす。しっかりするっす、って、おかしいな。「私」を殺したのは唯吹じゃないか、ならばしっかりするっすじゃなくて、消えてしまえと言えばいい。かつてのように。
 この「唯吹」は、一体何がしたいんだろう。子供の頃、クソ真面目な「私」を殺しておきながら、唯吹はあの絶望だらけの世界でもう一度「私」を呼び戻した。それがまたいらなくなったんなら、私をもう一度消せばいいのに、そうしない。一つの身体を分け合う私たちは、どうしようもなくいびつだ。
 クソ真面目なだけのどうしようもない私の消し方を、唯吹は忘れちゃったのかな。
 次の瞬間だった。唯吹は指を差していた。それが「唯吹」の意思だったのか「唯吹の殺した昔の唯吹」の意思だったのかは、わからない。わからないのだ。ちっとも。



「――え?」



 唯吹の爪の先には、三番目の島に続く橋があった。今まさに公園に向かおうとしていたちゃんは、困惑した声を出す。



「え、でも唯吹ちゃん、あっちは……」



 分かっている。ちゃんが戸惑うのも無理はない。だってあの橋の向こうには病院がある。ライブハウスがある。唯吹の死んだ島がある。唯吹は行きたくない。あっちなんかいきたくない。怖い。ぞわぞわする。蜜柑ちゃんがいるかもしれないから。
 唯吹は、目を覚まして、真昼ちゃんに蜜柑ちゃんがどこにいるのか尋ねたとき、真昼ちゃんが言葉を濁した瞬間、少しだけほっとしたのだ。ああ、いないんだ。良かった。そう思った。だけど蜜柑ちゃんはまだ眠っている。いつか起きる。唯吹たちのように。そして唯吹をまた殺す。
 唯吹はあの子がこわい。あの子に殺された場所がこわい。
 なのに、唯吹の中の唯吹があっちに行こうと主張する。唯吹はもう、高校生の唯吹を追い出したくてたまらない。お前は死んだだろ。蜜柑ちゃんに殺されただろ、大人しく出ていけと、小さな唯吹は大きな唯吹を押し出すのに、馬鹿な唯吹が叫ぶ。「絶対、行くっす、あっちに行くっす」脳内で喚くその声に、唯吹は堪えられない。
 やまない声に、唯吹はとうとう諦めた。だったら勝手にしてよと吐き捨てて、躊躇っているちゃんに「つれてって」と伝える。ちゃんは考え込む様に目線を彷徨わせたけれど、やがてその唇を緩く噛んだ。








 唯吹ちゃんが行きたいと言った先は、ライブハウスだった。
 確かに苗木くんの言うとおり、そこに行けば「いい刺激」にはなるだろう。だけど、その刺激は彼女に与えるものとしては少し強すぎるんじゃないだろうか。
 躊躇ったけれど、強い声で「お願い」と言われてしまって覚悟を決めた。いざとなったら、凪斗くんがいる。勿論唯吹ちゃんに何かされる可能性を考えたわけではない。私ではなくて、彼女の方に何かが起こった場合の話だ。もしも唯吹ちゃんの脳や体に何かが起きたときのことを考えると、凪斗くんの存在は心強かった。
 唯吹ちゃんは、子供のようだった。幼くて、力がなくて、受動的で、こわがりで。島での唯吹ちゃんと重なる部分はたくさんあって、だけど、やっぱまるで別人のようでもあった。
 ライブハウスで、彼女は私たちに歌を聴かせてくれた。そして同じ場所で罪木さんに首を絞められて殺された。唯吹ちゃんにとっては色んな思い出が混ざった場所だ。 これで唯吹ちゃんが何の反応も示さなかったら、もしかしたら本当に、もう唯吹ちゃんが元の彼女に戻ることはないのかもしれない。
 私がそんなことを考えているとも知らず、車椅子の唯吹ちゃんは、静かに目を閉じている。








 ちゃんがライブハウスの扉を開けたとき、埃っぽいにおいがした。
 白い帽子を頭から取る。あのステージの上で、唯吹は首を絞められて殺された。あの夜唯吹の首を絞めた蜜柑ちゃんの目は歪んでいて、頬は上気していた。口角のあがった唇で蜜柑ちゃんは唯吹の名前を呼んだ。恨み言も謝罪も続かないその柔らかな声は、おかあさんの感情に乏しい声とは全く似ていなかったのに、なぜかおかあさんと蜜柑ちゃんがダブって見えた。蜜柑ちゃんの頭の向こうで、まだ母と呼ぶには若すぎる女の子が、唯吹の首を絞めている。
 だけど、唯吹がそこで過去の記憶にとらわれずにすんだのは、ステージの上に見覚えのないグランドピアノがあったからだ。ステージの真ん中にあるそれのおかげで、ライブハウスは、唯吹が殺されたそことは全然違って見えた。プログラムの中にはなかったそれは、唯吹とちゃんの前で圧倒的な存在感を放っている。唯吹は目を覚まして初めて、楽器を見た。音は、出るのだろうか。あの白鍵に触れたい。音が聞きたい。
 電気と空調をつけて戻ってきたちゃんは唯吹の考えていることに気が付いたのか、一度その唇を引き締めた。



「ちゃんと音、出るよ。弾いてみる?」



 頷いたのは、どっちの唯吹だったんだろう。そもそも今唯吹は、どっちの唯吹なのだろう。分からない。
 ちゃんは唯吹の肩を持ち上げて、ステージの上に続く階段を上る。ふらついたし、二段目でつま先が引っかかったけれど、ちゃんが上手く誘導してくれたおかげで唯吹はすんなりピアノの椅子に座ることができた。
 ちゃんがピアノの蓋を開ける。白と黒のはっきりとした色彩の列に、唯吹は思わず息を止める。吸い寄せられるように右手を鍵盤の上に置いた、唯吹の指は、骨と皮だけで、化け物じみていた。
 ミ。
 一つだけ出した音は、人気の無いライブハウスに溶けるように消えて行く。唯吹は、そういえば隣にいるちゃんはピアニストだったと思い出す。在学中から声をかけたくて、ピアノを聴かせてほしかったけれど、いつもこの子は凪斗ちゃんと一緒にいた。
 完璧な球体に包まれた二人だと思った。唯吹がそこに突撃したら、その完全性が損なわれる気がした。多分、二人でいるのを見るのが、唯吹は好きだったんだと思う。凪斗ちゃんが教室では見せない目をしているのが、好きだった。でももしパレードが起きなければ、唯吹は我慢できなくなって、二人に話しかけたんだろうな。
 今、そのちゃんは唯吹の隣にいる。凪斗ちゃんも、きっとライブハウスの外にいる。ものすごく変な気分だ。こんなの、平和な世界が続いていたら、きっと有り得なかったのに。



「……なにか、弾いてみてほしいな」



 唯吹がそう口にすると、ちゃんは「いいよ」と快諾して、唯吹の隣に座った。密着するちゃんの体はぬくくて、柔らかい。
 ちゃんは何だか軽快な音を奏で始めた。スタッカートが多用されて、飛んだり跳ねたりする明るい長調。唯吹が右側に座っているせいか、少し低い音階のCメジャーで作られたその曲を、彼女はほとんど右手だけで弾き続ける。
 超高校級の、というわりには左手の形がおかしくて、そういえば、いつだったか、学園で誰かが話していた噂話を思い出した。七十八期のピアニストが退学になるかもしれないって。ちゃんは、きっと左手が動かないんだ。唯吹はぼんやりとそう考える。
 じゃじゃん、と和音で終えて、ちゃんは唯吹に微笑んだ。



「唯吹ちゃん元気になーれの曲でした」



 この子はきっと、唯吹の知らない人生を歩んでいる。つらいこともかなしいこともきっとたくさんあっただろうに、彼女は唯吹に、元気になーれって笑う。
 じわ、と、胸の中に水分が一滴、落とされたような気分になった。唯吹は、たまらなくなってちゃんの薄い肩に寄りかかる。ちゃんは、やさしい。なんてやさしいんだろう。こんな唯吹でごめん。言いたくても声が出ないのに、ちゃんは全部わかってるみたいに、唯吹の短くなった髪に自分の頭を傾けて寄せた。ちゃんの癖のあるふわふわとした髪の毛が、唯吹の頬にあたって、むず痒い。唯吹は。
 唯吹は。



「唯吹は」



 ちゃんが、うん、と、柔らかい声で返事をする。だけど、続かない。喉に何かがべとりと張り付いて、唯吹にそこから先を語らせてくれないのだ。唯吹はちゃんに縋りついて泣きたい。おかあさんじゃない。分かってる、ちゃんは、唯吹よりも年下の女の子だ。唯吹のほうがお姉さんだ。分かっているのだ。
 唯吹は、ギターを手にした日から少しして、みんなに受け入れられない澪田唯吹を作った。馬鹿でどうしようもなくてうるさくて、避けられて然るべき澪田唯吹。ギターがなければなんにもない、おかあさんからも首を絞められる澪田唯吹。
 ギターは馬鹿な唯吹にとっての武器で防具で、あれがなければ、唯吹に存在価値はなかった。だけど、ちゃんは唯吹の頭を撫でてくれた。
 ちゃんだけじゃない。わかってる。わかっていたんだ。今は名前も顔も消えてしまったA子ちゃんB子ちゃんC子ちゃん。唯吹の才能だけについてきてくれた彼女たちと過ごした司馬学園での日々はもう唯吹の中のどこにもなくて、代わりに希望ヶ峰学園の生徒として生きた一年と半分が、今の唯吹にとってのすべてだった。でも、あの子たちだって、好きだったのだ、唯吹は。うれしかった。一緒にいられて、幸せだった。
 唯吹の作る曲を聴いてくれたみんな。うるさいだけの唯吹を友達にしてくれたみんな。真昼ちゃん、日寄子ちゃん蜜柑ちゃん、和一ちゃんに凪斗ちゃん。みんなが馬鹿な唯吹を愛してくれた。嫌われて当然だった唯吹を、みんなは受け入れてくれた。
 唯吹の喉から、ひ、と音が漏れる。ちゃんが向き直って、唯吹の頭を抱きしめる。唯吹の嗚咽と、ちゃんの心臓の音、それ以外何も聞こえない。扉の向こうにはきっと凪斗ちゃんがいるはずなのに、唯吹のおかしな耳は何も拾わない。
 唯吹はちゃんの薄っぺらい体を抱きしめる。ぎゅうと、力を籠めて抱きしめる。すがりついてはいけなかった。「唯吹は」張り付いた膜を唯吹は手ずから破りとる。
 ちゃんが、息を止めた。唯吹の背中に回された指に力がこもる。聴いていてくれる、それが今はたまらなく、うれしい。



「唯吹は馬鹿でダメで、クソ真面目で、何もできない。皆の手を煩わせてしまう」



 うるさくて、何も救えなくて、空気が読めなくて、流されてばかり。本当のおかあさんにもいらないって言われた、価値のない子。きもちわるい耳を持った、もてあまされた子。



「でも、唯吹は」



 それでもみんなは、唯吹を待っていてくれたね。



「唯吹は唯吹でいてもいいですか?」



 段々と早口になる言葉の最後が掠れる。ちゃんが、は、と、短い息を吐いた。そのままぐり、と甘えるような仕草で首筋に額を埋める。



「私たちは、そんな唯吹ちゃんに会いたかったよ」



 鳥居の下の少女が、階段を二弾飛ばしで駆け下りる。唯吹はそれを追いかける。手を伸ばして、その肩を掴んで、唯吹はそのまま一回転して転げ落ちて、擦り傷をたくさんつくって、そうして黒い髪の女の子と混ざって、唯吹になる。
 ああ、吐き出した声ともつかない息が、形になって、ちゃんと唯吹の周りに落ちていく幻が、唯吹には見えた。どく、どく、唯吹とちゃんの心音がいっしょになって他には何の音もしない。
 唯吹はずっと、いろんな音にまみれて生きてきた。
 人の陰口、カーテンの影での噂話、鳥の音、吹雪の日の風、ブランコの軋む音、水槽で息をする金魚、クラクション、深夜の踏切、本を閉じたときの紙の音、唯吹は様々な音と共にあって、それが当たり前で、畳で寝転んで耳を塞いで丸くなっても、毛布にくるまっても押し入れに閉じこもっても、無駄だった。ギターに出会うまでは。ギターがすべての音を殺すまでは。
 今唯吹の元にギターはなくて、あの時粗大ごみ置き場で出会ったストラトは壊れてしまった。あれは唯吹が、正当防衛の末に人を殺してしまった日だった。唯吹の宝物は地面に押し倒された衝撃で、唯吹の下敷きになって折れてしまったのだった。唯吹はそれを、今おもいだした。
 ちゃんが、唯吹を抱きしめる腕に力を込める。あの日から、ずっと。



「………………こんなに、ギターに触れない日が続いたのは、初めてっす」



 クソ真面目な小さな唯吹が、唯吹の中に立っている。破壊された鳥居の下、崩れて隆起した石畳の上で、彼女は唯吹と同化する。これからは、一緒にいてくれる? そう心の中で尋ねたら、おかっぱ頭の唯吹は、小さく頷いて、それで、消えた。



「ここは静かっすね」



 ちゃんが息を飲む。唯吹はそれに首を傾げて、笑う。



「静かすぎて、ちょっと、物足りないっす」



 さよなら。さよなら。さよならおばさん。さよならおばあちゃん。さよならおかあさん。名前も知らないお父さん。黒いストラト・キャスター。唯吹にギターをくれた人。
 唯吹を愛してくれなかったひとたち。
 ちゃんが声を殺して泣く。唯吹ももらい泣きして、だけど笑ってほしくて、唯吹はちゃんのお腹をくすぐった。ちゃんは身を捩って、泣きながら笑った。お返しと言わんばかりに唯吹のほっぺをつつくから、唯吹はくすぐったくてちゃんに寄りかかる。突然体重をかけられて驚いたのか、ちゃんは唯吹と一緒に椅子から落ちてしまった。押し倒した形になってしまって、思わず「ぎゃは!」って声をあげる。ちゃんは、泣き笑いで唯吹を見上げている。
 その音に慌てた凪斗ちゃんがライブハウスの中に飛び込んできて、唯吹とちゃんの格好を見て目を丸くしていた。



「……何をしているの?」

「じゃれあってたっす! 凪斗ちゃんもどうっすか」



 それを聞いた凪斗ちゃんが嫌そうに目を細める。この人は、こんな露骨な表情を浮かべる人だっただろうか。ちゃんはくすくすと笑って、もう一度唯吹の頭を抱きしめた。



「おかえり、唯吹ちゃん」



 唯吹はちゃんの胸に顔を埋める。あったかくて、柔らかかった。心臓の音がした。唯吹のものと混じり合ったみたいに重なっていた。唯吹たちは、生きていた。この島で。本当に世界で。
 みんなの声がききたい。ちゃんとききたい。飛びついて、手を振って、みんなの名前を呼んで、相変わらずうるせーなって笑われたい。挨拶をしたい、今度こそ「おはよーございまむ」を流行らせたい。そのために、唯吹はみんなに会いたい。唯吹を許してくれた、こんな唯吹を愛してくれたやさしい人たちに。
 ちゃんがもう一度、「おかえり」と、唯吹のために泣いた。








 唯吹はそうして唯吹の捨てた過去と、みんなと、ちいさな唯吹に大きく手を振って、新たな一歩を踏み出したのだった。


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