漣の音がした。
唯吹のいる白い病室からは、海が見えた。というか、それ以外には空くらいしか見えなかった。みんなと過ごしたあの島の海に似ていた気がするけれど、あの果てのない青さとは、やっぱり少し違って見える。似てるけど、別物なのだ、きっと。
唯吹は体を動かすこともできない。頭が重くて、だるくて、水中の中にいるような息苦しさがあった。点滴に繋がれた腕は棒のようで、身体全部がまるで自分のものじゃないみたいだった。
唯吹は自分の目がおかしくなってしまったのかなと、考える。でも、だとしたらいつからだろう。ずっと前からなら、よかった。唯吹があの研究室を出たときから、唯吹の目がおかしくなってしまったのならよかった。唯吹の耳のように、病気ならよかった。
扉の奥から、足音が聞こえる。足をきちんとあげきらない癖があるのか、すり足のように擦れる音を混じらせるこの歩き方をする人を、唯吹は一人しか知らない。
「唯吹ちゃん。リンゴ食べる?」
控えめなノック音とともに顔を覗かせたのは、案の定、ちゃんだった。ちゃんは唯吹の返事を待たずに丸椅子に腰かけると、一口サイズに切られた爪楊枝のささったリンゴを唯吹の口元に差し出す。唯吹は食べたいなんて言ってないのに。仕方なく、口を開ける。あまり味がしなかった。
「花村くんが剥いてくれたんだよ」
皮がうさぎの型に剥かれた皮を興味深そうに眺めながら、ちゃんは声を弾ませる。輝々ちゃんは、もう包丁が持てるのか。ぼんやりと思った。
唯吹がカプセルの中で目を覚ましたとき、そこにはみんながいてくれた。と言っても、あの島で一緒に過ごした全員が、唯吹を待っていてくれたわけではない。唯吹は三人目、と、創ちゃんが説明してくれたけど、でも、三人目にしては人数が多くないだろうか? 明らかに、ここには十人くらいいるけれど。いったい、唯吹は何の三人目なんだろう。ひょっとしたら数の数え方も、めちゃくちゃになっちゃってるのかも。一、二、三、じゃないのかも。
唯吹はけれど尋ねることも首を傾げる素振りをすることもできなかった。だって、体が全然言うことをきかなかったのだ。「三人目」って言うなら、この中の誰かは幻なのかもしれないと、上手くまわらない頭で思った。でも、だとしたら誰が幻で誰が実体を持っているんだろう。泣き笑いみたいな顔で唯吹を迎えるみんなは、誰もが等しく呼吸していた。
もしもこれが罰の続きなら、趣味が悪い。
一度夢の中で殺しておいて、目を覚まさせて、唯吹を喜ばせて、唯吹はずっとこれを繰り返すのかもしれない。そう思ったら、ぞっとした。
記憶よりも痩せてしまった真昼ちゃんが、唯吹の体を支えてくれた。唯吹はその体温やにおいをとても懐かしく感じるけれど、同時に頭の端であの日見た新聞記事が息を吹き返す。唯吹を車椅子に乗せるときに、もう一人誰かが支えてくれた。冬彦ちゃんだった。
あの島で起きたことも、眠りにつく前のこともうっすら覚えている唯吹は、冬彦ちゃんと行方を晦ましたという側近の女の子の正体を察しているけれど、彼女の姿はどこにもなかった。どこにいるんだろう。ここにいない、みんなは。
「ねぇ、真昼ちゃん」
慎重に車椅子を押す真昼ちゃんを、唯吹は呼ぶ。ずっとずっとさがしてた。会いたかった。ひとりだったよ。さみしかったんだよ。真昼ちゃん、どこにいたの? 唯吹のこと、見てた? モノクママスクのみんなと歌う唯吹を、唯吹の知らないどこかから写真に撮ってくれた? ねえ。――だけどその全てを、唯吹は飲み込む。
「日寄子ちゃんと、蜜柑ちゃんは?」
真昼ちゃんは、吐き出しかけた息をのみ込んで、唯吹の髪を優しく梳くだけだった。
何日経っても唯吹の頭には靄がかかったままで、最初はいろいろ話をしようと試みてくれていたちゃんも、最近ではただ唯吹の隣にいてくれるだけになった。
「もしも何か話したくなったら、言ってね」
そうちゃんは優しく微笑む。この子はもともと七十八期のピアニストで、あの旧校舎で行われたコロシアイに参加していた女の子だった、ということを思い出したのは、実はつい最近のことだ。
ちゃんは、唯吹がモノクママスクの皆と一緒に楽しく歌を歌っていた頃、過酷な現実を強いられていたのだ。そう思うと、かなしくなった。可哀想だと思った。
ちゃんに手を伸ばす。ちゃんは不思議そうに唯吹を見ているけれど、唯吹の重たい腕はこんなにほそっこいくせに全く言うことをきいてくれない。唯吹の仕草に気が付いたちゃんが、リンゴの入ったお皿を横のテーブルにおいて、唯吹の左手をそうっとつつんでくれた。あたたかくて、おどろいた。
唯吹はちゃんに、いいこいいこ、ってしてあげたかったのに、これじゃあ唯吹が慰められているみたいだった。ちゃんは目を細めて眉を下げて、小さく首を傾ける。いつくしむようだった。漢字で書けない単語がふわと脳内に浮かんで、唯吹は彼女を、お母さんのような人だと思う。もちろん、唯吹のおかあさんに似ているとかではなくて、世間一般の、慈愛に満ちた存在、共通イメージとしての母だ。生い立ちに傷を持った唯吹ですら、かろうじて持っている「母」のイメージに、彼女はぴったりだった。
「元気になってね。ゆっくりでいいからね」
ちゃんに答える様に、唯吹は笑う。唯吹はこんなに、元気だよ。
唯吹の病室には、ソニアちゃんや創ちゃんがいてくれることが多かった。
真昼ちゃんも時折顔を出してくれたけれど、ソニアちゃん曰く「まだ起きたばかり」らしい真昼ちゃんは、まだ本調子ではないらしい。良くふらついていたし、おまけに真昼ちゃん自身にもやらなければいけないことがあるようだった。
調書? とか、鑑定? とか言ってたけれど、唯吹にはよくわからない。ソニアちゃんもにこにこ笑うばかりで、唯吹に詳しいことを説明しようとしてはくれなかった。
唯吹が目を覚ましてどれくらいが経っただろう。輪郭を失って溶けだしていた日々が次第に凝固して、唯吹の中でいくつかの島を作り始めていた。唯吹は眠りに落ちると、夢の中でその島を渡り歩いた。だけど、気が付いたら唯吹は裸足になっていて、島を渡るための橋が壊れてなくなっている。これじゃあ歩けない、途方に暮れて座り込む唯吹の背中にストラトはなかった。唯吹は神社の境内に一人ぼっちで、他に誰もいないはずなのに人の声が聴こえた。
「あの子、父親が誰かもわからない子を産んだのよ」
「少し気持ち悪いの」
「そう、耳がね、ちょっとおかしいとおもう」
「赤ん坊のときからだったのかしら。姉や母にまかせっきりだったから、わからないわ。」
おばちゃん。おかあさん。唯吹は平気だよ。こんな耳でも大丈夫。生きていけるよ。どれだけ陰口を言われても気味が悪いと距離を取られても唯吹はもう大きくなったし、言ってはいけないことと悪いことの区別を一つ一つつけて、ようやくおかあさんの望む最低限の基準をクリアできたと思うんだ。
それでも唯吹がみんなに避けられるのは、背を向けられるのはきっと、唯吹の耳がおかしいせいじゃないんだよ。唯吹が馬鹿なのが悪いの。唯吹が馬鹿だから悪いの。
唯吹はそう自分に言い訳できるように、馬鹿になった。元々勉強は出来なかったからちょうどよかった。唯吹は誰からも鬱陶しがられる澪田唯吹を作り上げた。ギターを背負って大きな声で笑って的外れなことを叫んだ。唯吹が眉を顰められるのは、この奇抜な格好と発言のせいです。黒髪の、ほそっこい手足の、小さくて、どうして自分が避けられるのかを考えていたクソ真面目な唯吹はもう死にました。唯吹がこの手で殺しました。
ねえだからさっさときえて。
死んだはずの昔の唯吹がどうして鳥居の下からこっちを見てるの。
夜になると、唯吹はベッドの上で、わあって叫びたい衝動に駆られている。なんて、きっと誰も知らないのだ。
唯吹ちゃんが目を覚ましてから、もう随分時間が経ってしまった。
唯吹ちゃんは失語症に陥っていたわけでもなく、目が覚めた瞬間花村くんのように錯乱することもなかった。ぼんやりと目を開けて、私たちの顔を一人ひとり確認した唯吹ちゃんは、日向くんの「俺たちがわかるか?」という問いかけに、ほんとうに小さく頷いたのだった。
つい数日前まで真昼ちゃんが使っていた病室に移された唯吹ちゃんは、一日のほとんどを眠って過ごしている。
私が顔を出すと、本を読んでいるソニアさんと目が合う。「もう随分と長い間眠ってらっしゃいます」と薄く微笑むソニアさんと交代して、私は唯吹ちゃんの寝顔を眺めた。元々白かった唯吹ちゃんの肌は、どきりとするほどに色がない。昏々と眠り続ける唯吹ちゃんは、凪斗くん曰く、「脳が情報を整理している途中」らしい。
「混乱しているんだと思うよ。記憶が混ざってしまっているのかもね。まだ油断はしないほうがいい。もしかしたら、これから……」
凪斗くんは珍しくそこで言葉を飲み込んだけれど、要するに、唯吹ちゃんがここから錯乱する可能性は十二分にあるということだった。
私は眠り続ける唯吹ちゃんの額に手を触れる。しっとりとした皮膚は、程好い体温を持っていた。そのときだ。唯吹ちゃんの口が、微かに動いたのは。
「――おかあさん」
彼女の額に触れたままの手のひらを、微動だにすることすらできなかった。
唯吹ちゃんは目を覚まさない。何も言わない。ただ、漣の音と、唯吹ちゃんの寝息、私の息遣いだけが混ざり合うこの部屋は、静かだった。それだけだった。
唯吹ちゃんは変わってしまった。眩いばかりに彼女を包んでいた生気が全て消え失せてしまったみたいだった。虚ろな目。快活に笑う彼女はどこにもいない。唯吹ちゃんを唯吹ちゃんたらしめていた要素がごっそり抜け落ちているのに、だけど、ここにいるのは唯吹ちゃんだった。ピアス穴だらけの――けれどいくつかは塞がってしまっている耳が、アーモンド型の猫みたいな目が、そう言っていた。
シーツを思わず握りしめてしまった瞬間、唯吹ちゃんの瞼が微かに動いた。「ん……」掠れた声がその口から漏れる。目を覚ますのだろうか。焦点の合わないぼんやりした瞳をどうにか私に合わせると、唯吹ちゃんは薄く微笑む。
「……びっくり、したあ」
唯吹ちゃんは額に置かれた私の手のひらに、くすぐったそうに身をよじって、吐息交じりに囁いた。
「いつからいたの……?」
青白い顔で、か細い声で首を傾げる唯吹ちゃんの髪は、もう根本から何十センチも黒くなっていた。邪魔だからと、日向くんに伸びきった髪を切ってもらった彼女はすっきりとしたおかっぱ頭で、そのせいか随分と幼く見える。
「ちょっと前からだよ。それまでは、ソニアさんが隣にいたんだよ」
「そっかあ。気づかなかった」
ふふ、と小さな笑い声を漏らして、唯吹ちゃんは首を傾げた。彼女は以前のように、声を張り上げて喋らなかった。独特な語尾をつけることもあったけれど、つけないときもあった。自分を「唯吹」と呼ぶときもあれば、そうじゃないときもあった。表情は、笑っているか、そうでないかの二つしかなかった。そうしていると、痩せ細った体と相まって、まるで小学生くらいの子供のようだった。
やがて、唯吹ちゃんは小さな欠伸をして、「まだねむいかも。私、もうちょっとねててもいい?」と、再び目を閉じる。今日の唯吹ちゃんは、私の知らない唯吹ちゃん。私は彼女に手を握られたまま、眠りに落ちる瞬間を見つめている。穏やかな寝息をたてて意識を手放す唯吹ちゃんを、母が子供にするように、ただただ、見つめている。
「唯吹ちゃん、お散歩行かない?」
部屋を訪れたちゃんが、閉めきった部屋のカーテンを開けながら、唯吹にそう尋ねたのは、とても暑い日のことだった。
「今日はほら、天気もいいし。私が車椅子を押すから」
白いカーテンの向こうは、薄い青空が広がっていた。つい数日前までは雨が降っていたような気がするけれど、それが昨日だったか、もっと前だったかは思い出せない。唯吹の返事を待たずに、ちゃんは唯吹の腕を肩にかけた。この子はこんなに強引だったかな。無理矢理車椅子に乗せられると、ちゃんは「出発ー」と明るい声を出した。
病室を出ると、唯吹とちゃんの後ろから距離をとってついてくる足音があることに気が付いた。この固い一定のリズムを刻む足音は昔から変わらない、凪斗ちゃんのものだ。どうして唯吹たちについてくるんだろう。途中で別れるかと思った凪斗ちゃんの足音はいつまでも唯吹の頭の後ろにあったから、途中から気にするのをやめた。
この建物は随分と広い。朝食の時間から少し経ったせいか人気のない食堂の前を通り過ぎると、隣接する休憩室から笑い声が聞こえた。創ちゃんと冬彦ちゃんと輝々ちゃん、それから茜ちゃん。あとは知らない人の声だ。たぶん、未来機関? とかいう職員の人の。楽しそう。知らずに呟いたら、ちゃんが「寄っていく?」と何気なくきいてくれたけれど、唯吹は首を振った。
正面の入口から外に出ると、どこかで見たような景色が広がっていて、唯吹は自分の頭の中がぐちゃぐちゃとこんがらがっていくのを感じる。図書館、ダイナー、ドラッグストア、あれはどこで見たんだっけ。小さい頃だったかな。目頭を抑えていると、ちゃんがしゃがみこんで唯吹に帽子を被せてきた。視界に映るそのつばは、真っ白くて柔らかい。
「暑いからね、熱中症対策だよ」
支給品だからお揃いなんだよ。そう言いながら、ちゃんは真っ白い帽子を被って微笑んだ。十代の女の子がかぶるには、少し大人っぽいというか、おばさんくさいデザインのものだったけど、ちゃんは全然気にしていない様子だった。
ちゃんはゆっくりと唯吹の車椅子を押していく。図書館。ダイナー。ドラッグストア。そうやって、一つずつ、口の中で咀嚼してようやく、ああ、思い出した、と、おもう。
これは夢の中で見たんだ。みんなと楽しく過ごしたあの世界にあったんだ。あれよりもずっと寂れて、看板は取り外されて、おまけに周囲は雑草だらけだったせいで、唯吹は混乱してしまった。
「あっついねー」
ちゃんが、ペットボトルにいれたお茶を唯吹に手渡す。蓋は最初から緩んでいて、上手く手に力が入らない唯吹でも簡単に開けることができた。
少しだけ口に含んだら、じわりと冷たい水分が体中に染み込んだ。そうやって歩いていても、相変わらず一定の速度と距離を保って、凪斗ちゃんはついてくる。相変わらず何を考えているかわからない人だと、唯吹は喉を潤しながら思った。