唯吹は一つだけ勘違いをしていた。
がらんどうの教室は、まるで何かで測ったかのように、不自然なほどきれいな形で机が並べられていた。瓦礫に埋まりかけた生徒玄関とも、ほとんどの窓ガラスが割れてしまった廊下とも違って、そこはまるで日常を切り取っただけのような異質さがあった。――なのに、人の気配は微塵も感じられない。きれいだけれど、生活感のないモデルルームかなにかのようだった。
黒板に日付が残されていたけれど、それがいつのものなのか、そこから一体どれくらい経ったのか唯吹にはわからない。無駄だと知りながら教壇の中を覗きこむ。誰かがここで縮こまっていないかな。和一ちゃんとか、日寄子ちゃんとか。だけどそこには何も、誰もいない。ぞっとした。こわい。改めてそう思う。ギターの弦に触れたくてたまらない、あの硬さに触れたい、どうして唯吹は身一つで出てきてしまったのだろう。
罅一つ入っていない窓ガラスの向こうで、あちこちのビルから煙が燻っている。窓を開けて、身を乗り出した。淀んだにおいがした。人の姿は見えないけれど、唯吹のおかしな耳は誰かの悲鳴を拾った。赤黒く染まった空の下でいくつもあがる悲鳴を、唯吹はひとつひとつ聞き分ける、おじいちゃん、おねえさん、ちっちゃい子供、男の子。助けて。いやだ。やめて。
助けて。
逃げる様に教室を飛び出した。これは悪い夢だと思いたかった。誰でもいいから、誰かに会いたかった。
唯吹は一つだけ勘違いをしていた。唯吹は一人になることに慣れていたのではなかった。唯吹が慣れていたのは、一人でいることであって、唯吹のまわりから人がいなくなることではない。唯吹はこわかった。一人になるのはこわかった。なんて調子がいいんだろう。自分から捨てることは平気なのに、唯吹は捨てられるのも置いて行かれるのも嫌だった。
「真昼ちゃん、日寄子ちゃん、蜜柑ちゃん」
捨てられそうになる前に、唯吹は自ら手放す、たとえばもう顔がぼやけるかつてのバンドメンバーたち、たとえばおかあさん、たとえばたとえば、クソ真面目で陰口を叩かれても一人ぼっちでいることに平気な顔をしていた小さな自分。
校舎を飛び出して、正門を抜けた。その影に転がっていた誰かの体を視界にいれなかったのは、唯吹にとってきっと幸運だった。そこでそれを認識していたら、唯吹はもう一歩も動けなくなっていただろうから。
長い間とじこもっていたせいか、少し走っただけで息は簡単にあがった。脇腹が痛かった。誰かに会いたかった。クラスメイト、お母さん、おばあちゃん、誰だっていい、「あんたの母親はあんたを勢いで産んでみたはいいけど父親が誰かはわからないのよ」そう何だかよく分からない表情で唯吹に吐き捨てるように言ったおばちゃんでも、いいんだよ、もう、誰でもいいから、唯吹は知ってる人に会いたい。どこにいるの。どうして唯吹が閉じこもっている間に世界はこんなになっちゃったの、誰か教えて。
だれか。
希望ヶ峰学園の敷地を、唯吹はいつの間にか出てしまっていたらしい。辿り着いたのは商店街だった。人の声がする方を辿って行ったからだ。唯吹はそこで、やっと生きている人間に出会う。だけど、どうしてみんなクマの被り物なんてしているんだろう。どうして鉄パイプやバットみたいな物騒なものを持っているんだろう。
仮想パーティにしては随分と異様な雰囲気で、唯吹はその獲物の先に真っ赤なものが飛び散っているのを知っていながら、とぼけていた。こわくて、こわくて息ができない。
シャッターがべこべこに潰されて変形してしまっているお店もあった。特に食糧を扱うお店は軒並み内臓を食い散らかされた猫のような有様で、唯吹はお店の影にしゃがみこんで耳を塞ぐ。その足元に、新聞が落ちていた。「絶望」黒いゴシック字が唯吹の網膜にべたりと張り付く。震える手でそれを捲った。やめておけばよかった。
「……あ」
『内部抗争か。九頭龍組壊滅』
口元を手で覆った。そうしなければ悲鳴をあげてしまいそうだった。
九頭龍組。冬彦ちゃんのおうちのことだ。白黒印刷なのに、はっきりと血だまりとわかるその写真に、唯吹は目を奪われる。九頭龍組の全組員が殺害された。しかし犯人と思われる次期跡取りとされていた男と側近である女の行方はいまだ掴めていない。次期跡取り、これはたぶん、冬彦ちゃんのことを指すんだろう。側近は、誰のことだ。冬彦ちゃんはその側近の女の人と、どこに行ってしまったっていうんだろう。
だけど、唯吹はその末尾に記された文字に今度こそ声を漏らしてしまう。『撮影者・小泉真昼』唯吹は新聞紙を投げ捨てて、走って逃げた。
なんで、なんで、と、思う。みんなどうしたの、どこに行っちゃったの。何をしているの。唯吹を置いてどうしているの。
クマのマスクをかぶった連中が唯吹を見ていたことを、唯吹はそのとき気が付かなかった。そんなことよりも早く逃げたかった。どこに、どこに逃げたかったんだろう、わからない。唯吹を受け入れてくれる場所がこの世界のどこかに本当にあると思っていたのだろうか。唯吹を抱きしめる手がこの世界にあると本当に思っていたのだろうか。おかあさん、だけど唯吹は、おかあさんにだきしめてほしかったよ。首を絞められるんじゃなくて、一度でいいから、肩に縋りついて泣かれるんじゃなくて。
唯吹はやがて電機屋さんの前に辿り着いた。シャッターが開いていて、クマのマスクをかぶった人たちが集まっていた。どうやらみんなでテレビを見ているらしかった。笑い声が聞こえたから、唯吹はちょっとだけ安心した。他人の体温に引っ張られるように、唯吹はテレビの前に吸い寄せられる。
「超高校級の野球選手、桑田怜恩くんのオシオキを開始します!」
その画面の中で、かつて唯吹のことを慕ってくれていた男の子が殺された。
唯吹はそのあとのことを、あまりよく覚えていない。
目を覚ました唯吹は、真っ白な部屋にいた。夢の続きかと思った。長い、夢を見ていたのだ。みんなと一緒に南国の島で過ごす、楽しい夢を。
唯吹はあの日、唯吹が電機屋さんの前でクマのマスクに囲まれながら見た映像を、自分の脳から切り離すことができずにいた。唯吹は馬鹿なのに、大事なことは全部覚えられないのに、どうしてあれを忘れられなかったんだろう。
テレビの中で、怜恩ちゃんが縛り付けられて、野球ボールをたくさんぶつけられて殺された。夢だって思いたかったのに、眠って目を覚ましても、あの番組は続いていた。みんなが被っているクマのマスクと同じ顔をした白黒のクマが、七十八期生のみんなに殺しあうよう扇動していたのだった。
よく芸術棟の廊下で見かけたアイドルの女の子はもういなくて、モデルの子もいなかった。たまに人が殺されて、処刑されて、その様子は手書きの新聞で街中に貼り付けられた。昨日は誰が死んだのか、知りたくないのに目に入った。清多夏ちゃんが死んだらしい。唯吹はもう、あの子に怒られることもなくなってしまった。
「また昨日のは手の込んだオシオキだったなあ」
「さすが希望ヶ峰の生徒だな、あんな処刑道具が作れるなんて」
怜恩ちゃんを殺したバッティングマシーンを思い出す。唯吹はああいうものを作れるひとをたった一人だけ知っていた。だけど、もうそれに何を思えばいいのかもわからなかった。唯吹の感覚は少しずつ死んでいった。だって、唯吹ももう同罪だ。
唯吹は、とても悪いことをした。人を殺してしまった。
正当防衛というのだろうか。物陰で唯吹のことを押し倒した男の股間を蹴り上げた。路傍で死んでいた女の子の遺物から手に入れたスタンガンを押し当てて、怯んだところを馬乗りになって首を絞めた、そうしないと唯吹が危なかったから、仕方がなかった。
その男が小柄で助かった。だけど、口から漏れた男のうめき声を唯吹は小さなころ、どこかで聞いたことがあった気がした。思い出しかけて、いやになって首を振った。必死になって絞めた首から、妙な音がした。唯吹は乱れた制服を直して走って逃げた。手に残る感触が気持ち悪くて、唯吹は川で手を洗った。ヘドロまみれになった。唯吹には似合いだった。
ギターがほしかった。昔あの人からもらったギターがほしかった。あの、ボロボロのストラトは、今はどこにあるんだろう。思い出せない、宝物だったはずなのに。
唯吹の感情はそうやって死んでいくのに、耳は益々おかしくなっていた。絶えず誰かの悲鳴が聞こえた。南で建物が燃え、北で人が首を吊る。テレビの音は方々から聞こえた。そこから漏れるうぷぷぷぷ、という笑い声は、もはや記憶として唯吹の脳にくっついてしまったのか、そうでないのか、わからない。
歌を作りたいな。唯吹は漠然と思った。歌を作って、みんなで歌いたいな。唯吹の今の感情をきちんと出せる歌がいい。そう思った。
唯吹は悪いことをしたから、罰が当たったのかもしれない。
幸せな夢を見た。どんなに探しても会えなかった、あの頃のみんなともう一度会えた。真昼ちゃんも日寄子ちゃんも笑っていた。蜜柑ちゃんも元気そうだった。和一ちゃんは相変わらずビビりで、凪斗ちゃんは何考えてるんだかよくわかんなくて、あの教室にはいなかった、見たことのない子たちもいた。
こんなおかしな島でも、殺しあわなければいけなくても、唯吹はみんながいたから怖くなかったよ。たのしかったよ。海で泳いで、お菓子を作ってパーティをして、歌も聴いてもらえた、こんなに嬉しいことってあるかな。唯吹はだから、だから殺されたの。おかあさんにされたみたいに、自分がそうしたように、おかあさんにそっくりなおんなのこに首をしめられて唯吹は死んだ。幸せな夢から突き落とされた。だからこれは人を殺した唯吹が受ける罰だった。
「……あ、ああ」
点滴に繋がれていない方の手で首に触れた。掠れた声が出た。自分のものでないような声だった。
唯吹は、たくさん歌をうたった。あのモノクママスクのみんなといっしょに、たくさんの歌を歌った。そうしていれば何も怖くなかった。もしかしたら、希望ヶ峰の誰かが唯吹を見つけて迎えにきてくれるかもしれないと思った。最終的に唯吹を迎えに来たのは、全然知らない男の人だったけれど。
音楽って偉大だ。大きな音は煩わしい噂話も悪口も僻みも妬みも全部殺せるし、唯吹はあんなに怖かったモノクママスクのみんながそう悪い人たちではないんだと知った。
死んじゃった女の子のマスクをもらって、歌わないときはそれを被った。目を閉じると唯吹はいつも教室にいて、まわりにはみんながいた。真っ暗な中でみんなが唯吹に手を振った。マスクを外すと唯吹は現実に戻される。みんなはどこにもいなくて、唯吹をカリスマみたいに扱う顔も名前も知らないクマのマスクに囲まれる。
唯吹の歌を聴いたひとたちは唯吹の後ろをついてまわった。唯吹はハーメルンの笛吹き男のようだった。勿論、唯吹の後ろを歩くみんなを行方不明者にしたりはしなかったけど。傍から見たら、あれはきっと恐ろしい集団だったんだろう。
だけど、こんなにいっぱいの人を唯吹は魅了したのに、真昼ちゃんも日寄子ちゃんも蜜柑ちゃんも、誰も誰も唯吹の隣にはいなかった。唯吹は一人ではなかったけれど、神社の境内をひとりで走り回っていたあの日々よりも、ずっとずっと孤独だった。
小学生の頃あの人がくれたストラトを、唯吹はいつの間にか背負っている。