おかあさんの仕事は不規則で、唯吹は赤ん坊のときからおばあちゃんの家に預けられることが多かった。
おばあちゃんの家は、唯吹とおかあさんが暮らす木造二階建ての古びたアパートとは違って、全体的に白かった。子供の背丈よりも大きい観葉植物が置いてある広い居間はよく日が当たった。だけど赤ん坊の唯吹は何人も座れるようなふかふかのソファと、大きなテレビが置いてあるその居間ではなく、一番奥の北向きの座敷に寝転がされていた。
とても静かな部屋だった。薄い緑色の畳の感触は、唯吹たちの住む家のものとは見た目も触り心地も違ったし、壁はぼろぼろ崩れるような古い土壁ではなくて、織物調の白っぽい壁紙が張られていた。床には唯吹と、唯吹が寝転がるための長座布団と大判のタオル、カップラーメンと油のにおいなんかちっともしなかったし、唯吹が思わず手に取って口に入れたくなってしまうような小銭や飴玉もなかった。落書きも汚れもない床や壁はいつも真っ白く輝いて見えた。
だけど唯吹はその部屋で、ひとりだった。
おばあちゃんの家は毒気のない洗練された佇まいをしていた。それは多分、一緒に暮らしていた唯吹のおかあさんのお姉ちゃん、つまり唯吹から見たら伯母にあたる人が、潔癖なほどにきれい好きだったためだと思う。
唯吹はおかあさんがいない間、このおばちゃんに面倒を見てもらっていたのだけれど、随分と眉を顰められた。よだれのたれた口元を、ゴム手袋をした手に持ったガーゼで拭うと、一度使ったそのガーゼはゴミ箱行きだった。
おばちゃんは唯吹のことを「赤ん坊」と呼んだ。
「ねえお母さん、もう断ればいいじゃない。私だって大変なんだからね」
「でも、あの子は一人で唯吹ちゃんを育ててるんだよ。あの子が一番苦労してるんだよ」
「だからなに、それを選んだのはあいつでしょ。苦労するなんて最初からわかりきってたことじゃない!」
おばちゃんはすぐこうやって声を荒げる。不思議なことに、伯母の怒声は伯母がどこにいても良く聴こえた。居間からでも、二階の寝室からでも脱衣所からでも裏庭からでも、唯吹は伯母の声を拾った。
日々積み重なるその不平不満によると、伯母は離婚していて、職探し中で、唯吹のおかあさんは何年か前に家出して、その間に「お父さん」というひとが死んで、伯母は赤ちゃんが作れなくて、だから唯吹のおかあさんの「これ」は当てつけに違いなくて、唯吹は「どこの馬の骨とも知れない無責任な男との子供」、だそうだ。
唯吹のおばあちゃんが窘めても、その声は益々大きくなるばかりだった。その頃の唯吹にとっては意味の分からない罵詈雑言は、ご近所さんを気にしてか最近では随分と声を潜められるようになった。それでも唯吹には聴こえていた。唯吹は天井の染みを探しながら、おばちゃんの姿よりもその声を待っていた。声がきこえると、ああ、おばちゃんが近くにいるんだなって、安心した。
時折部屋に訪れるおばあちゃんはもう腰が曲がっていて、一人で唯吹のことを抱っこすることも億劫だったみたいだ。「落っことしちゃいそうだからね」そう言いながら、よだれまみれの唯吹の顔を愛おしそうに両手で包んでくれるひとだった。唯吹はおばちゃんも好きだったけれど、おばあちゃんも好きだった。
「あの子はあんなことを言うけど、おばあちゃんは唯吹ちゃんにたくさん会えて嬉しいよ」
おかあさんが唯吹を迎えに来る時間はまちまちで、おばちゃんは決まってそのときは部屋に引っ込んだ。毎日手土産を持ってくるおかあさんにおばあちゃんは「お金がかかるんだからこんなことしないで」と言うけれど、疲れた顔をしたおかあさんは首を振って無言でケーキの箱を押し付けていく。
唯吹との物々交換のように行われる儀式に、おかあさんは帰り道は決まって、抱っこひもにいれた唯吹の頭蓋に顎を埋めて「疲れた」と吐き出す。お母さんと歩く夜道はとてもにぎやかだった。おうちの中から聞こえるテレビの音、子供のはしゃぐ声、大人の女性のヒステリックな怒鳴り声、犬が吠える、スリッパの擦れる音、唯吹はそれらの全ての中からおかあさんの「疲れた」を受け入れる。
やがて唯吹が保育園に入る年になる頃、おばちゃんはおばあちゃんの家からいなくなった。その頃には喋れるようになった唯吹はおばあちゃんにどこに行ったのか聞いたけれど、答えてくれなかった。おばちゃんの部屋はおばちゃんがいた頃のままだった。
唯吹はおばちゃんと遊ぶのが大好きだったから、ちょっとだけ不満だった。その頃になると、あんなにやさしかったおばあちゃんも唯吹に余所余所しい態度をとるようになっていて、おかあさんは唯吹を保育園に入れると同時におばあちゃんの家に近づくのをやめた。
「保育園では余計なこと言わないでね」
おかあさんは唯吹にそう言い聞かせたけれど、唯吹は「余計なこと」が何なのか分からない。
唯吹はたまにお医者さんに連れて行かれる。耳を診られて、「そのうち落ち着くと思いますよ」と毒にも薬にもならない言葉を決まって吐き出される。待合室にいる診察を終えたおじいちゃんの小言が耳に届く。「ここのお医者さんは適当だな」唯吹はそのままそれを口に出す。診察室の空気が凍って、唯吹のおかあさんは唯吹を抱きかかえて逃げる様に去っていく。
「ねえほんと、ほんとに勘弁してよぉ……」
怒ってるんだか泣きたいんだか分からないような声でおかあさんは縋るように唯吹の肩を掴む。唯吹は首を傾げてその姿を見つめている。唯吹はなにを「勘弁」しなければいけないんだろう。だって、きこえてきたことをそのまま口にしただけだ。
どこかに消えてしまったおばちゃんにも言われた。「おばちゃん、今度映画に行くの?」そう聞いた唯吹に、おばちゃんは嫌悪の混じった目をする。「あんたなんでそんなこと知ってるの」赤ん坊でなくなった唯吹はおばちゃんに「あんた」と言われるようになった。
おかあさんに似た声でおかあさんと同じように呼ぶおばちゃんを唯吹は大好きで、笑ってその腕にしがみつく。振り払われても、何度も何度もしがみつく。
「だっておばちゃん、この前お部屋で言ってたでしょ?」
息をのんだ音がした。だけど唯吹は構わずに続ける。電話してたもんね。男の人といくんでしょ、おばちゃんは赤ちゃんができないのにいいの? もうりこんはされない? もう赤ちゃんできるの? よかったねお仕事見つからなくても安心だね、ねえ、そしたら唯吹のこともう当てつけっていわない? 「どこの馬の骨とも知れない男」の子供の唯吹を、許してくれる? ねえ、ねえおばちゃん。
ねえ。
唯吹は体ごと突き飛ばされた。尻餅をついて悲鳴をあげた。唯吹を見下ろすおばちゃんは震えていた。今まで見たどのおばちゃんとも違う目をしていた。怒りではなかった。
おばちゃんは怯えていた。「もう、勘弁してよお……」おかあさんに似た声でおかあさんとおなじことを言うおばちゃんを唯吹は大好きだった。ぎゅうと抱きついて囁く。だから、唯吹は一体何を「勘弁」すればいいんですか。ねえ、おしえてよ。おかあさんもお医者さんもおばちゃんも、なんでだれもおしえてくれないの。
唯吹は、一人になることには慣れていた。
小学生になる頃には唯吹と遊んでくれる人は誰もいなかったし、モモちゃんのママにもシュンくんのママにも「近づいちゃダメ」って言われていた。そのうち良くなりますよとお医者さんの言葉通り、唯吹の耳は成長するごとにどんどん良くなっている。隣の教室の子供たちの噂話を唯吹はきこえているし、先生の独り言も悪態も何度も聞いた。いつだって人の声や虫の音やバスケットボールの音が耳に張り付いて、唯吹はそれを少しずつ聞き分けられるようになった。
唯吹はすっかり疲れていた。授業をきくことも難しくて、唯吹は全く勉強のできない子供になっていた。いや、これは血かもしれない。っておかあさんは言っていたけれど。
唯吹がギターと出会ったのは、小学二年生の夏だった。
粗大ごみの中から見つけたそれはとても不思議な形をしていた。びんと張られた糸のようなものにふれると、痛いくらいに固かった。はじいた瞬間不思議な音がした。唯吹の家にはテレビがなかったから、見た目からだけではそれがなんだかわからなかった。なのにその音が、街を歩いているとたまにきこえる音と一致した瞬間、ぞっとした。夢中で色んな糸を押してみた。だけどどこに触れても同じ音がして、こわれてるのかな、と首を傾げる。
もっといろんな音階があるはずだ。学校で習った。ドレミファソラシド。ランドセルが重くてその辺に放り投げて、それを持ってみる。「指で押さえるんだよ」声をかけてくれたのは、見知らぬ学生服を着た男の子だった。唯吹は驚いた。いつもだったら他人が近くにいることにすぐ気が付くのに、夢中になっていたせいで、足音にも衣擦れの音にも呼吸音にも、一切気が付かなかったのだ。こんなことは、今までで一度だってなかった。
「おさえる?」
「うん。弦を押さえないと音は変わらない」
「げん?」
「貸して」
素直に渡すと、男の子はじゃじゃーん、と言いながら弦とかいうものを押さえて、かき鳴らした。唯吹はその音の塊に、すっかり痺れてしまった。辺り一帯に響いた音が、ほかの全てを殺して唯吹の耳にいつまでも残る。ああ、と、おもった。
ああ、ああ、何だかよくわからないけれど、ああ、すごい! みんな、みんな消えてしまった! コロッケを揚げる音も、小さな悲鳴も、壁を殴る音も飛行機の音も板金屋さんの音も、ぜんぶ、ぜんぶ消えてしまった!
これは魔法だ。
「やってみる?」
大きく頷いた唯吹に、男の子は口角をあげて笑った。
男の子はその日、別れ際に唯吹にピックというものをくれた。もう使わないからと彼は言った。もしかしたらこのギターはあの男の子のものだったのかもしれない。次に会ったときに聞いてみようと思ったけれど、二度と会うことはなかった。
唯吹はあの男の子の声は覚えていたけれど、顔はすっかり忘れてしまっていたから、すれ違っただけじゃ気づかなかったのも無理はない。だけど唯吹は感謝していた。唯吹にギターを教えてくれてありがとう。「あのときの男の子、ありがとう!」と書いたプラカードを首から下げて、街中を歩きたかったくらいだ。
だって唯吹はひとりじゃなくなった!
小さいときから唯吹はずっと一人だった、おかあさんは仕事で、友達もいなかった。おばちゃんも消えてしまった。唯吹はずっと部屋の隅っこで天井の染みを眺める遊びをしていた。もしくは、人が来ないような神社の境内を散歩したり、石段を駆け下りたり、転んだり。
唯吹は一人になることは怖くなかった。ギターを手に入れて、益々怖いことなんてなくなった。一人ぼっちでギターをかき鳴らした。ギターを弾いていると、不思議なことに他の音は耳に入らなくなった。あの人嫌い、靴踏まれた、やめて、疲れた、やめてよ、助けて。唯吹の耳に残るみんなの悲しい声を、唯吹はギターを弾いて一つ一つ殺していく。
唯吹は唯吹の体のほかに、一つだけ武器を手に入れたのだった。意思を持たず、喋らず、語らず、不平不満を言わず、決して唯吹の元から歩いてどこかに消えていくことのない、唯吹の味方を、唯吹は二度と離さないと思った。
赤ん坊の唯吹にこれがあれば、唯吹はなにものからも自分を守ることができただろうか。耳を塞がなくても、自らが大きな声を出して周りの音をかき消さなくてもよかっただろうか。
唯吹の耳は今もあの頃のままだ。