春から始まった希望ヶ峰学園での生活はとても楽しかった。
 唯吹はあの学園の中ではそれこそ四六時中笑っていられた。あれ? でもそれじゃあ昔は楽しくなかったみたいじゃないっすか? ギターを抱いた唯吹は大きく首を傾げる。唯吹は昔から笑顔に関してだけは評判が良かった。
 だけど本当に希望ヶ峰学園は、ものすごく素敵な学校だったのだ。唯吹は好きな時間に学園内にある芸術棟の研究室に行けたし、そこではどんなに爆音でギターを弾いても大声で歌っても誰も眉を顰めなかった。
 希望ヶ峰には形だけ、一般教養としての授業があった。「形だけ」だから、別に無理して出席する必要はない。サボったって、誰かから怒られることはない。それってすっごくラッキーでハッピーだ。唯吹は勉強があまり好きじゃなかった。
 不思議なことにインスピレーションはどんどん浮かんで、前よりもずっとたくさんの曲を生み出せた。朝から夜まで研究室に入り浸ることも珍しくはなかった。だけど芸術棟には唯吹以外にもそういう人はたくさんいたし、そういう意味では唯吹は「普通」だった。それは唯吹のことをとても楽にさせた。
 あまり教室には行かなかったけれど、同じクラスの友達もいっぱいできた。特に仲良くしてくれたのは写真家の真昼ちゃんと、舞踏家の日寄子ちゃんだ。二人とも同じ芸術棟に研究室があるから、仲良くなるのは早かった。
 真昼ちゃんは委員長気質で唯吹のことを良く気にかけてくれたし、日寄子ちゃんは唯吹の曲を気に入って良く感想をくれた。新しい曲ができたら一番に聞いてくれるのがこの二人で、唯吹は音楽を一緒にやってくれるような友達を見つけることは出来なかったけれど、それでも二人が素直な感想をくれることはとてもうれしかった。
 あとは、保健委員の蜜柑ちゃんにも一方的に話しかけた。蜜柑ちゃんは、いつもおどおどびくびくしていて、声をかけるとぎゅうっと目を閉じるような女の子で、唯吹の音楽を「私なんかが」って首を振って聞いてくれない。良くわからないけど、蜜柑ちゃんは音楽が好きじゃないのかもしれないっすね。日寄子ちゃんが眉を顰めて「空気読めよ、だからお前はゲロブタなんだよ」って吐き捨てるのを、真昼ちゃんが宥めるのがいつものパターンだった。








 唯吹がいっとう好きだったのは、中庭だった。日当たりがよくて、色んな木があって、お昼寝だってできる。人もいっぱいいるけれど、耳が痛くなるほどじゃない。
 唯吹は割と勘違いされがちだけれど、本当は、人が多いところはそんなに好きじゃない。色んな音を拾いすぎて、頭が痛くなってしまうのだ。だけどやっぱり窓もない、地下に作られた唯吹の研究室はずっといると気が滅入る。やっぱり日光っていうのは大事だ。いくら研究室が温度も湿度もは完璧に整えられているといっても、唯吹は外にいるほうが元気になる。
 唯吹は背負ったギターを下ろしてかき鳴らす。じゃじゃーん。背後で知っている人の足音が止まったのを感じながら、歌いだした。
 行き交う生徒たちが足を止めていく。色んな人がいる。唯吹の歌を笑って聴いているひと、見向きもしない人。窓から手を振ってくれているのは真昼ちゃんだ。偶々通りかかった和一ちゃんはなんだか顔を引き攣らせていたけれど、唯吹の後ろにいた「彼」は、和一ちゃんと違って最後までそこにいてくれた。



「凪斗ちゃーんっ! 最後まで唯吹の歌をきいてくれて、ありがとーっ!」



 くるりんと後ろに振り向いて言うと、凪斗ちゃんはちょっとだけ目を見開いた。凪斗ちゃんは唯吹のクラスメイトで、超高校級の幸運っていう、なんだかすごい才能の持ち主だった。



「あれ、ボクがきいてるって分かってたの?」

「唯吹は耳がいいっすからね! 足音で誰かわかるっす!」

「へぇ、すごい才能だね。さすが澪田さんだ」



 凪斗ちゃんはそのキレーな顔でにっこり微笑む。つづけてつづけて、と促されたので、唯吹は次の曲を歌いだす。凪斗ちゃんは唯吹が飽きるまでずっと後ろで唯吹の歌を聴いていてくれた。
 唯吹はその日すっきりして、とてもよく眠れた。








 入学して数カ月経った夏の日に、真昼ちゃんの友達が死んでしまった。予備学科の子で、真昼ちゃんが昼休みに良く会いに行ってたのを見送っていたから、名前と顔だけはぼんやり知っている。確か、サトウ? さん? だったっすかね。あの子が予備学科の校舎内で変質者に殺されてしまったと聞いて、唯吹と日寄子ちゃんはとっても怖くなってしまった。殺されたのが全くの他人というならともかく、彼女は真昼ちゃんの友達だ。友達の友達は、みんな友達っすからね。



「きもいよー! 変質者なんかみんな去勢した上で指を一本ずつ折ってドブに沈めようよー!」

「おいおいおいせめて去勢だけにしてさしあげろよ!」

「げーっ左右田おにぃ、盗み聞きとかきもすぎ!!」



 日寄子ちゃんが和一ちゃんと騒いでいる間も、真昼ちゃんは真っ青な顔で微動だにしない。唯吹は、あ、と思った。なにが、あ、だったのか、そのときは自分でも分からなかったけれど、なんだか胸の中がざわざわした。このざわざわの正体は、なんだったんだろう。気が付いたら唯吹は真昼ちゃんのことをぎゅうっと抱きしめていた。
 真昼ちゃんが唯吹の腕の中でびくりと反応したのが分かったけど、唯吹はその真昼ちゃんの「びくり」ごと全部全部包み込んであげたかった。だって、唯吹にはだれもしてくれなかったから。



「よーしよし、真昼ちゃん元気出すっす!」

「……唯吹ちゃん、」

「あー!! ちょっと小泉おねぇに何してんのさー!!」



 飛びついてきた日寄子ちゃんのこともまとめて抱きしめたら、日寄子ちゃんは「ぎゃー!!」と叫んだ。身をかたくしていた真昼ちゃんが、やがてぐす、と鼻を啜る。
 唯吹は、いっぱいの力を腕に込めた。「よーしよし」歌うように小さく囁く。唯吹の首に顔を埋めた真昼ちゃんの体は、幼い子供のように熱かった。








 蜜柑ちゃんは、二年生になってから少し変わった。良く笑うようになったし、何だか明るくなった。日寄子ちゃんは「なんか気持ち悪いんだけどあのゲロブタ」と吐き捨てていたけれど、唯吹は蜜柑ちゃんがにこにこしている姿を見るのは好きだった。休み時間は必ず教室を出ていくことが、寂しいといえば寂しかったけど。
 最初に教室に来なくなったのは、その蜜柑ちゃんだった。
 あの頃まだ唯吹たちの世界はそこまでおかしくなんかなってはいなかった。ただ、予備学科の生徒たちが仰々しいプラカードを抱えて活動し始めていたくらいで。待遇改善、読み方も意味もわからない難しい漢字がそこには並んでいて、唯吹は一体彼らが何を望んでいるのかも分からない。
 肉声だった叫び声が、拡声器を通し始めるようになったころ、凪斗ちゃんが学校に来なくなったのと同じ時期に、唯吹はギブアップした。四六時中響く怒声や喚き声に、頭が痛くなってしまったのだ。唯吹は、耳を押さえて蹲る。



「あんたって、自分の声は平気なのにああいうの駄目なわけ?」



 日寄子ちゃんにそう言われたけれど、上手く返事もできなかった。唯吹は自分に与えられた防音の研究室にこもることにした。鍵をかけて、たくさんの食料を持って閉じこもった。これがなくなる頃にはきっと全部解決しているはずだと思った。その前に、きっと誰かが唯吹のことを呼びに来てくれるって。だけど、そう思いたかっただけかもしれない。
 唯吹が冬眠でもするかのように地下に潜る頃、予備学科のみんなはちょっと目つきがおかしくなっていた。唯吹はいろんなものを見ないふりをして、一人で逃げた。
 ちょっとずつ、ちょっとずつそうして、何かがおかしくなっていたのかもしれない。馬鹿な唯吹はその変化に全く気が付いていなかった。自分の研究室でただただギターを弾く毎日だった。日持ちする食料を少しずつ食べて、窓のない唯吹の研究室で何日も何日も過ごしていた。携帯電話の電池はとっくにきれいていたけれど、それすらも気付かなかった。唯吹はギターがあればそれでよかった。ここにいればうるさい声は何も聞こえなかった。








 唯吹が研究室の鍵を開けたのは、食糧がすっかりなくなってしまったからだ。
 もしも携帯電話が使えたら誰かにお願いしたかもしれなかったけれど、急いで準備をしたせいで、携帯の充電器を寮に置いてきてしまったのだ。唯吹はすっかり意気消沈してしまった。あの声に足が竦むだけならともかく、唯吹が研究室に籠るころにはほとんど暴徒と化していたあの予備学科生たちと鉢合わせになることだけは避けたかった。
 唯吹はこそこそと芸術棟の廊下を身を低くして歩く。食堂に行けば、輝々ちゃんがいるかもしれない。時計の針は六時をさしていた。外はぼんやりと薄暗くて、唯吹はそれが午前なのか午後なのかも判別がつかない。季節は冬になろうとしていた。地下から一階に続く階段を昇っていると、スカートから出た足が冷気にふれて、ひやりとした。
 一階は、がらんとしていた。人の気配のすっかりない芸術棟に、唯吹は首を傾げる。誰もいないってことは、まだ早朝なのだろうか。だけど例え今が早朝の六時であったとしても、いつもだったら朝型の生徒とすれ違うことは良くあった。一期下の女の子、確かアイドルの子と、ピアニストの子がこの時間に並んで歩いているのを何度も見かけたし、逆に夕方の六時だったらそれこそ芸術棟に研究室のある生徒たちの足音が絶えなかった。だけど、今はどれだけ耳を澄ましても何も聞こえない。唯吹はなんだか、浦島太郎になった気分だった。



「!」



 薄暗い廊下を歩いていたら、何かを踏んだ。びっくりして、足を引っ込める。それはどう見たってガラスの破片で、唯吹はようやく窓ガラスが何枚も割られていたことに気が付いた。寒いと思っていたのは、これが原因だったらしい。
 なんで窓ガラスが割れているんだろう。亀裂でも入ったかのように、真横に伸びるその罅の線を見送る。どこまでもどこまでも続いているその罅に、唯吹はどこに行けばいいのか分からなくなる。



「おおい、真昼ちゃあん」



 無駄だと思ったけど、呟かずにはいられなかった。空気が張りつめて、耳が痛い。しんと静まり返った薄暗い校舎に途方に暮れる。怖くなって壁にぺたりと手を触れた。変わらず冷たいその感触は、いくら唯吹が爪を立ててもぼろぼろ崩れてはくれなかった。あの、砂の壁のように。



「日寄子ちゃん」



 唯吹は芸術棟を後にする。予備学科の校舎がある西地区も、噴水のある中央広場にも人の気配は感じなかった。中庭を横目に、唯吹は足を速める。
 「凪斗ちゃん」ここで凪斗ちゃんが唯吹の歌をじっと聴いていてくれたのは、もう一年以上も前のことだった。今は誰もいない。立ち止まって手拍子をしてくれたひとも、唯吹の声に迷惑そうな顔で背中を向けたひとも、校舎の窓を開けて唯吹を見ていてくれたひとも、もうどこにもいない。不思議なくらいだ。唯吹の目だけおかしくなってしまったのだろうか。あまりにも一人で閉じこもっていたから、唯吹は人間を認識できなくなってしまったのかもしれない。
 静かで、音がなくて、怖くなって唯吹は耳を塞いだ。何も聞こえないのに、寒さのせいか、耳の奥が甲高い音をたてて痛んだのだった。かすかに感じる腐った臭いは、なんだろう。唯吹は目を瞑って走った。教室に行けば誰かがいてくれると思った。
 本科生の校舎として今年新築されたばかりの建物は、唯吹のいた芸術棟よりも被害はなさそうだった。崩れた瓦礫を避けて生徒玄関を駆け抜ける。真っ直ぐに伸びる廊下には誰の姿もなかった。ガラスは全部粉々だった。寒いはずなのに、体は火照っていた。嫌な汗が全身をぐっしょりと濡らして、唯吹はたまらなくなって階段を駆け上がった。
 いやだ。と、思う。いやだ。いやだいやだ。だけど唯吹が息をきらして走っても、そこには誰もいない。一年生の教室はもぬけの殻、いつも廊下でだらけていて、唯吹の姿を見ると元気に声をかけてくれた怜恩ちゃんも、唯吹の服装が良くないって唯吹を見る度に注意してきた清多夏ちゃんも、CD持ってますって声をかけてくれた葵ちゃんも、どこにもいない。おかしい。こんなのおかしいっす。唯吹があの研究室に閉じこもっている間、一体何があったんすか。



「真昼ちゃん、日寄子ちゃん」



 見たくない。近づいてくる教室に、唯吹は足が竦みそうになる。「蜜柑ちゃん、凪斗ちゃん、和一ちゃん」音がしないのだ。簡単に聞き分けられるくらいに一人ひとり違う足音も、呼吸音も、声だって、唯吹の耳には届かない。「輝々ちゃん、ソニアちゃん、冬彦ちゃん、猫丸ちゃん」だから、唯吹はもう本当は気が付いている。「眼蛇夢ちゃん、ペコちゃん、茜ちゃん」唯吹は浦島太郎だ。
 教室の扉は閉めきられていた。唯吹は引き戸に手をかける。荒くなった呼吸を整えて、ぎゅうと目を閉じる。
 唯吹の目の前に広がったがらんどうの教室は、唯吹を呆気なく子供に戻してしまったのだった。


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