蜜柑ちゃんに首を絞められているとき、唯吹の脳裏に浮かんだ光景があった。
 茶色の板の天井、ぶら下がる電球の白、手でなぞればぼろりと崩れそうな土壁、古くて小さな木造建築の床は足の踏み場もないほどに散らかっていて、唯吹はその中で、カップラーメンの食べ残しと一緒に転がっている。唯吹に手を伸ばすのは、いつも唯吹をだっこしてくれる人で、あ、だっこしてくれるの、と、唯吹は笑う。
 だけど、水分のないその指は、唯吹の脇の下を持ち上げることはなかった。かさついた冷たい指が首を這う感触を、唯吹はそういえば、いつも持っていた気がする。
 唯吹の首を絞める紐が、ぎちりと音を立てた。おかあさん。助けを求める様に伸ばした手は宙を掻く。そういえば蜜柑ちゃんは、唯吹のおかあさんに似ていた。






澪田唯吹の場合




 唯吹が作った軽音楽部に仲間が集まったとき、唯吹はそりゃあもう、すっごく嬉しかった。
 唯吹は小学生の頃からずっと一人でギターを弾いていたし、いつか音楽の好きな仲間ができたらいいなって思ってたから、唯吹が名前が書ければ誰でも入学できるって評判の司馬に入って軽音楽部を作ったとき、女の子が三人も空き教室の扉を開けてくれたときは、夢なんじゃないかって思った。
 ほっぺをつねっても、だけどちゃんと痛かった。唯吹の前に現れたのは、A子ちゃん、B子ちゃん、C子ちゃん。名前はなんかもう靄がかって思い出せないので、便宜上、そう呼ばせてもらうね。たは! 便宜上だって! 頭よさそう。
 小さいころからピアノを習っていたA子ちゃんはキーボード。そこそこ上手くて、楽譜があればとりあえずはなんでも弾いてくれた。ドラムのB子ちゃんは初心者だったけど、ゲーセンにある音ゲー感覚であっという間に上達した。ベースのC子ちゃんは唯吹と同じで、小学生の頃からベースを弾いていたみたい。お父さんの影響だって言ってたけど、お父さんって空想上の産物じゃなくて実在する生き物なんすね。
 唯吹には小学校中学校と友達がいなかった。「唯吹ちゃんとは遊んじゃだめよって言われてるの」小学校の低学年でそう言われてしまうと、唯吹はそういうもんかと受け入れた。それが中学まで続いただけの話だ。
 唯吹はどのみち、放課後はいつもギターを弾いていたから、友達なんていらなかった。ギターが友達! 楽しい日々だった。みんながお誕生日会を開いてケーキを食べている日も、集まって夏休みの宿題をしている日も、わざわざ隣町までプリクラを撮りに行っている日も、唯吹は川原でギターを弾いた。唯吹の家はボロッちいアパートだったから、ちょっとでも音を出すと苦情がくるのだ。大家さん経由ではなく、壁経由で。がつんと土壁から砂が崩れる様を見たとき、唯吹はぽろぽろと剥がれるそれをきれいだなあとおもった。砂時計の砂みたいだった。きらきらしていた。
 唯吹は唯吹を知っている人が誰もいない司馬で軽音楽部を作ってようやく、川原じゃない場所でギターを弾くことができた。唯吹って変わってるねと、A子ちゃんもB子ちゃんもC子ちゃんも苦笑したけれど、そんな唯吹の作った歌を彼女たちは文句も言わずに演奏してくれた。すんごいセッションだった。体中の血肉が踊って毛穴が開いて脳に直接麻薬を打たれたような陶酔感だった。唯吹はいつも一人だったから、四人の音が合わさるとこんなに大きな音になるだなんて知らなかった。1+1+1+1=4だ。そういうことだ。
 A子ちゃんもB子ちゃんもC子ちゃんも、唯吹よりずっと落ち着いていた。唯吹が興奮していても、三人は唯吹みたいに喜びはしなかった。こんなもんだよね。って。だけど夏休みにC子ちゃんが唯吹たちのテープを元ベーシストのお父さんに聞かせたら、お父さんはそれを知人のプロデューサーに持って行ったらしい。娘たちがすごいんだ。って。








 夏休みの間に、話はとんとん拍子で進んでいった。唯吹たちはデビューさせてもらえることになったのだ。
 唯吹が放課後に作った「放課後ボヨヨンアワー」は瞬く間にヒットして、ミリオンの売り上げを叩きだした。女子高校生バンド、鮮烈のデビュー! 音楽番組には引っ張りだこ、雑誌にもインターネットにも唯吹たちの名前が踊った。唯吹たちの音を日本中の人が聞いた。音楽に興味がない人だって、CMに起用された以上一度は耳にしただろう。たぶん、そういうことで間違いない。
 A子ちゃんはただただびっくりしていた。そりゃあ嬉しいけどついていけないと漏らした。ドラム歴の浅いB子ちゃんは、ネットで自分の悪口をさがしだしてはへこんでいた。C子ちゃんはそこそこ嬉しそうで、街で声をかけられると余裕の笑顔で手を振りかえす。唯吹はというと、知らないひとたちからの連絡が増えた。名前も知らない誰かから「久しぶり! CD聞いたよ! すごいじゃん!」とメールがくるたびに、首を捻って削除する。唯吹のアドレスは漏洩しているのだろうか。でもアドレスの変更をするのは手間だから、来るたび来るたび削除した。消しても消してもいたちごっこで、唯吹は最後は携帯電話を開くのをやめた。
 唯吹の練習場所は、川原でも放課後の空き教室でもなく、立派なスタジオになった。事務所専用のスタジオは大きくて機材がいっぱいあったけど、二学期が始まってしまうと毎日そこに通うことは難しい。事務所は唯吹たちのために隣町にある小さなスタジオを借りてくれた。唯吹は毎日そこに通って練習した。
 どんなに叫んでも大きな音を出しても壁から砂は落ちなかったし犬にほえられる心配もなかった。吹奏楽部から文句を言われることもないそこはまるで天国だった。
 だけどA子ちゃんもB子ちゃんもC子ちゃんも、七時になると帰ってしまう。お腹すいた、宿題しなくちゃ、そう言いながら唯吹を置いて帰る。もっと練習していかないんすか? と言うと、三人は顔を見合わせて困ったように笑った。
 去っていく三人の後ろ姿は、唯吹に強烈な違和感を与える。なんで? と思う。すぐに飽きられちゃうかもと怖がるなら、新しい曲を作ろう。へたくそって言われてへこむくらいなら、死ぬ気で練習しよう。培った経験に胡坐をかいていないで、もっとうまくなろうよ。そう言う唯吹に三人は首を振る。



「唯吹は真面目だね」



 褒められていないことは、馬鹿な唯吹でもわかった。








 唯吹がバンドをやめると言った時の三人の顔は、もう今ではぼやけて曖昧だ。
 止められたのは覚えている。唯吹がいないと曲が作れない。考え直してよ。冗談でしょ。これからじゃん。立て続けに言われて、唯吹は困ってしまう。
 唯吹は仲間がほしかった。一人でギターを弾くのがさみしかった。誰かと一緒に音楽をしたかった。あのときの、空き教室での興奮をもう一度感じたかった。
 だけどどれだけライブを繰り返しても、もうあのときのような感覚はない。唯吹は目の前のお客さんの熱気も歓声もきこえない。じぶんのギターの音すらも、よく聴こえないのだ。唯吹はこんなにみんなから見てもらって、歌をきいてもらっているのに、どうしてくり抜かれた丸い円の中で一人ぼっちのような気分になるのだろう。唯吹の足元だけくり抜かれた円が伸びて伸びて空まで近づいて、円柱のてっぺんに立った唯吹にはもう誰の声も届かない。
 唯吹は三人に首を傾げた。三人が唯吹によく見せる仕草だった。



「なんか、楽しくないっす」



 言葉を失った三人に背を向けて、唯吹はギターを背負ってスタジオを出る。ここを使えなくなるのは残念だったけれど、まあいいや、と思う。
 だって唯吹のポケットには、封筒が入っている。希望ヶ峰学園っていう、なんかすごいところからの手紙だ。入学しませんか、っていうことらしい。そこはどうやら司馬とちがって学費もいらなくて、勉強もしなくて良くて、唯吹の才能を伸ばしてくれるっていう、つまり唯吹は音楽だけをやっていてもいいよ、っていうところなんだって、おかあさんが教えてくれた。
 ここ、いきなよ。って言われたから、唯吹は来年の春からこの学校に行くことになる。音楽の仲間はいるかなあって言ったら、いるんじゃないのって言ったから、唯吹は今からわくわくしている。



「あ、あの、澪田唯吹ちゃんですよね!?」



 街中をスキップしていたら、唯吹はそう声をかけられた。中学生くらいの女の子だった。「わ、本物だ! あのっ、音楽聞いてます、握手してください!」そう言われてしまえば吝かではない。
 唯吹は「いっすよ!」と手を差し出す。ぎゅうとにぎられた手のひらは柔らかくて、熱いくらいだった。その熱さと唯吹の高揚感がうまいこと合わさって、唯吹は春の日を思い出す。A子ちゃんとB子ちゃんとC子ちゃんが、一人ぼっちの唯吹のところに来てくれたあの瞬間を、三人の足音を、唯吹は忘れることはない。



「これからも、皆をよろしくね!」



 唯吹の抜けたあのバンドは、数日後には電撃解散と報じられた。プロデューサーからは、ソロで活動していくことを認められた。唯吹はたくさんの曲を作って、歌った。売れたかどうかは分からない。唯吹はただ曲を作って歌い続けただけだった。A子ちゃんとB子ちゃんとC子ちゃんはどこにいったんだろう。
 次の春、唯吹は事務所との契約を切って希望ヶ峰学園に入った。学園の名前の通り、希望で胸を膨らませて。



「ああ、これで肩の荷が下りた」



 ため息をつくおかあさんに大きく手を振って、唯吹は新たな一歩を踏み出したのだった。


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