真昼ちゃんの回復を待ちながらも、既に次の被験者となる人物の候補は絞られていた。超高校級の料理人である花村輝々くんだ。
凪斗くんは、だけどそれについて何か思うところがあったのだろう。
「ああ、そうか、花村クンか。ふぅん。……キミが決めたんなら、それでいいと思うよ」
その曖昧な物言いに、不安になってしまう。
すべてを肯定しろとは言わないし、逆に彼の言葉を無批判に受け入れるつもりもない。だけど、私たちの選択や判断が間違っているなら間違っていると言ってほしかった。もやもやしてしまって、つい彼の顔をじっと見つめる。凪斗くんの双眸はいつも、はっきりとは読み取りにくい色をしている。
「……ねぇ、凪斗くん。花村くんって、希望ヶ峰ではどんな人だった?」
保管庫から持ってきたファイルを眺めながら、私は何気なさを装って尋ねる。
希望ヶ峰学園七十七期生、花村輝々。超高校級の料理人としてスカウトされる。A県にある実家は食堂を営んでおり、料理の腕やずばぬけた味覚センスは母親からの遺伝か。在学中は本科の学生と教師に向けて昼食を提供する食堂を開いており、行列が絶えない。
そう記された在学中のデータは、私に彼の人となりを教えるには至らなかった。
「どんな、っていうと……そうだな」
凪斗くんは私の質問に、やや、目線を逸らす。
「あの通りだったよ、彼は」
「あの通り」
「うん。キミもちょっと話したでしょ? 少し品のない会話だったけど」
凪斗くんが言っているのは、花村くんがプログラムの中で事件を起こすことになった日の朝のことだ。
凪斗くんが一人でパーティ会場となるホテルの旧館を掃除することになったことが気にかかって、様子を窺いに行ったとき、私はちょうどマーケットから戻ってきた花村くんと凪斗くんに出くわした。あのときの会話は、確かにちょっと、印象に強い。そうでなくても、花村くんは誰に対してでも常にああいった感じで話していたから、「あの通り」と言われると「あの通り」なのだろう。
「彼が絶望していたころの話を聞きたいっていうなら、ごめんね。分からないんだ」
その言葉に、ファイルに落としていた目線をあげる。凪斗くんはテーブルについた義手に顎を乗せて、穏やかに微笑んでいる。
「ボクはね、世界が絶望に染まるよりも少しだけ早くあの学園を出た。察していたところもあるのかもしれない。あのままあの学園にいたら、希望が絶望に染まっていく場面を見続けなければならなくなるっていう危機感を、本能的に察知していたんだろうね」
「……絶望に、染まっていく」
「そう。事実、あのあと皆は次々と絶望していった。江ノ島盾子によって、あるいは、別の誰かによって。ボクはそれを間近で見ずにすんでほっとしているんだ。まあおかげで、今さんの役には立てそうにないんだけど」
真昼ちゃんに関してのみ話ができたのは、絶望に落ちた彼女が自分の才能を使って目立った活動をしたためだったと言う。
荒廃したあの世界で、真昼ちゃんの写真を目にしない日はなかった。凪斗くんはそう口にした。彼女の写真はテレビや新聞、インターネットなど、様々な媒体で世界中に届けられた。七十八期生のコロシアイが始まって以降、彼女の撮った写真は加速度的に求められるようになる。
誰もが真昼ちゃんの撮った写真の切り抜きを持っていた。胸に抱いて、財布にいれて、ペンダントにしまって。ぞっとしない光景だったね。そう凪斗くんは嘲るように笑う。
「彼女に比べたら、花村クンは絶望に堕ちたあとも彼女ほど派手に活動していなかったんだと思う。もしくは、それこそ自分の実家のあるA県に拠点を構えていたんじゃないかな。そうなると彼がいつどうやって、どんな風に絶望してしまったかは勿論、どういったことをしていたのかもボクには分からない」
私は、自分の手にしたファイルの中身を凪斗くんに見せることはできない。この島でこのファイルを見る権限を持っているのは私だけなのだ。だけど彼の推測は、そこに書かれたものと一致していた。苗木くんが彼らを保護したあとに取った調書に残された文字を、目で追う。
『「人類史上最大最悪の絶望的事件」以降の彼の足取りは明らかだ。花村輝々は、A県に滞在していたことを認めており、そこで起きた多数の不審死に彼は関与していると思われる。』
ただ、と彼は続ける。瞬きをしかけた瞼が思わず痙攣した。目を見開いたまま、向かいに座っている凪斗くんを凝視する。
「今この施設にいるメンバーの中で、最後まで学園に残って全てを見ていた人なら知っているよ。――その人だったら、或いは何かボクの知らない情報を持っていると思う」
私がその言葉に反応するのを待たずして、彼は続けた。
「でもきっと何も語ってはくれないだろうね。あの人は、そう言う人だから」
結局花村くんに対する理解が及ぶことのないままに、彼をプログラムにかける日を迎えた。凪斗くんはすべてを見てきたという人の存在を匂わせながらも、その人を明らかにすることはなく、私も問い詰めるような真似はしなかった。その人を、私は恐らく無意識のうちに特定できていたし、彼もそれを理解していたのだろう。
真昼ちゃんのときと同じように、私たちは花村くんの眠るカプセルを囲むようにして待機する。真昼ちゃんは声が戻ったとはいえ、未だ体力が戻りきってはいない。他の職員の監視の元、彼女は部屋で待機している。紐山さんと左右田くんは、プログラムを起動するために別室にいた。
「なあ、なあ! 花村が目を覚ましたらまたあのうんめー料理が食えるんだろ!?」
この場にそぐわない明るい声を出す終里さんのおかげで、張りつめていた緊張感がなんとなく和らいだ。部屋の中央に置かれたマザーコンピュータから伸びる管から、彼は今脳に指令を受けているはずだ。
強引な電気信号に、やがて花村くんの脳波が乱れ始める。
私の隣にいた凪斗くんが、す、と息を吸ったのがなんとなくわかった。彼らを起こすときはボクの近くにいて、彼は私にそう言った。だけど私は、甲高い、プログラムの終了を知らせる鳥の鳴き声のような電子音を聴いたとき、思わずカプセルに飛びついてしまっていたのだ。
「――花村くん!」
日向くんがカプセルのロックを解除して、蓋を開けた。プログラムの中よりもずっと痩せてしまった彼の体、窪んだ眼球が、そっと開かれる。その黒い目が、私に向けられる。私が何か思うよりも先に、その手が伸びた。驚くほどの力で、私は彼に押し倒される。
が、と、皮膚が床を擦って、肘に鋭い痛みが走った、火花が目の前を散って、何が起きたか分からないのに、ただ上に馬乗りになった人の温もりだけは、冗談のように鮮明だった。息ができなくて、私はそこでようやく自分の首にまとわりつく紐のようなものが、花村くんの指だと知った。がさがさの、水分のないそれは、私の首に絡み付いてとれない。自分の指を隙間にいれることも敵わず、まるで永遠のような時間に感じられた。彼は、私を鬼のような顔で、見下ろしている。
ああ、と、思った。絶望に染まった彼らを起こすことは、こういうことだと知っていたのに。
「花村!」
「さん!」
日向くんが花村くんの名前を呼んだのと、凪斗くんが私の名前を叫んだのはほとんど一緒で、私は次の瞬間、自分の体の上で花村くんが殴られるのを見た。私の体から転がり落ちた花村くんは、すぐに終里さんによって羽交い絞めにされる。凪斗くんに抱き起され、私は、は、と酸素を取り込む。
「花村、何やってんだおめー! おかしくなっちまったのか!?」
終里さんの怒声が響く中、私は凪斗くんに手を握られる。私はそれでようやく、自分がみっともないくらいに震えていることを知った。もう自由になったはずの首に、まだ指の感触が残っているかのようだった。
頬が濡れていて、不思議に思って拭う。涙だったようだけれど、私の目は乾いていたから、これは間違いなく、花村くんのものだった。
うなだれる花村くんは、拘束される。彼は、力なく手足を投げ出していた。伸びて乱れた髪はプログラムの中の花村くんの見る影もなく、二回りほど小さくなったその体からもはや生気はない。その肩が、徐々に、徐々に震えていく。揺れていく。そして彼は、叫んだ。悲痛な声だった。狂う一歩手前の、獣のような咆哮。
「あ、あ、あああああ、あああっ!」
彼は今、何を思っているのだろうか。込みあげてくる感情に飲み込まれぬよう、唇を強く噛む。
凪斗くんはその日、ずっと私の傍にいてくれた。
花村くんは真昼ちゃんの病室から二つ離れた部屋に運ばれてから一度眠って、目が覚める頃には落ち着きを取り戻していたらしい。混乱することもなく、日向くんの説明をそのまま受け入れて、ただ、深く頷いたという。
それを聞いて一度顔を見に行こうとした私を、凪斗くんは制した。私に彼の容体を伝えに来た九頭龍くんですらも、気遣うように「いや、おめーも一日休んだ方がいいんじゃねえか?」と声をかけてくれたのには、ちょっとびっくりしてしまったけれど。
結局私は自室に戻って、強制的にベッドに押し込まれている。まだ一日が終わる時間には程遠く、眠いわけでもないのに。だけどベッドの横に座って私を見守る凪斗くんは、私の頬に手を触れたり、髪を撫でたり、首をなぞったり、感情だけが忙しなく揺れ動いているようだった。時折凪斗くんは、泣き出しそうな顔で私を見る。
「ごめん、さん、怖い目に遭わせてしまって……ごめん」
「……私が迂闊だったんだよ」
だからそんなに謝らないで。そう伝えると、凪斗くんは眉を下げて、また私のこめかみあたりを指で撫でる。花村くんによって絞められた首に痕は少しも残らなかった。あれだけ長い時間に感じられたけれど、ほとんど反射に近い形で日向くんが彼を殴りとばしたらしい。
「花村くんの方は、怪我はしなかったかな」
そう言うと、凪斗くんは少しだけ目を細めた。苛立っているのは明白だった。
「……気にしなくていいよ。あれくらいで済んで彼も幸運だったでしょ。日向クンが殴ってなかったら、ボクがどうしてたか分からない」
「そんな……そんなこと、いわないでよ」
「どうして? だって彼は絶望だよ? 生きてる価値なんかないゴミクズ同然の命だ。どうしてキミは彼を庇うの?」
「ゴミクズなんかじゃ」
「だってそうでしょ?」
私の反論に被せるように、凪斗くんは口早に呟いた。
「彼は世界を絶望に染め上げた残党の一人で、キミはこれから世界を復興させる未来機関の一人なんだよ。ボクの恋人だとかそれ以前の問題で、キミの命のほうがずっと重いんだ」
凪斗くんが顔を歪める。私の頬を包むように触れたその手のひらは、いつもより少しだけ熱いような気がした。命の重み。私は言葉を失う。「お願いだから」何も言えずにいる私に、彼はとうとう俯いて、その声を掠れさせた。哀願するような、声だった。
「もっと自分を、大事にしてよ」
ほんとうは。と、思う。
本当は、私は彼に言い返したいことがたくさんあった。彼が絶望に堕ちたみんなのことをゴミクズ同然だと言うことを、私は理解はできてもどうしても許せなかったし、説きたかった、命の重さに違いがあると主張する彼を、それはあなたの主観だと言って聞かせたかった。
彼にとっては軽い命も、家族や恋人、友人にとっては何よりも重い、それはこれから世界を復興させる未来機関の一職員より、ずっと大切な命であるはずだった。
だけど私の服の裾を、縋りつくように掴んで肩を震わせる凪斗くんに、私は何も言うことができない。
色素の薄い、柔らかい髪の毛に手を伸ばす。凪斗くんはそれでも顔をあげないから、構わずに撫でた。どれくらいそうしていただろうか。やがて、凪斗くんがぽつりと呟いた。
「小泉さんは、他害しないだけマシだったんだ」
真昼ちゃんは目を覚ました時、声を失っていた。だけど、周囲に危害を加えようとはしなかった。花村くんほどの混乱を見せはしなかった。
「花村クンより凶悪な人だって、中にはいるんだよ。それでもキミは、彼らを起こすって言うの」
絞められた首に、無意識に手を伸ばす。このままプログラムを推し進めていけば、恐らく何か大きな問題に直面する日がくる。それは紐山さんにプログラムの説明を受けたときから察していた。私は、彼らの全員を救えることはないだろう、漠然と、だけど予知のようにそう思う。
それでも、ひとりでも多くのひとに、私は目覚めてほしい、余計なことをと泣かれても、責められても。
だって私はまたみんなに会いたい。
「凪斗くんのために入ったプログラムで出会ったみんなに、こんなに執着する日がくるなんて知らなかった」
凪斗くんの指先が、ぴくりと動く。
「楽しかったの。私は、あんな、コロシアイをさせられてしまった世界でも、楽しかった。あのプログラムで出会ったみんなに、もう一回会いたい、なんてことない世界で話がしたい」
例えもう二度とあの優しい女の子には会えなかったとしても。そこにあの子がいなくても、それでも。私は、かつて私の額を撫でて行った少女の面影を、追う。泣きそうになったのを誤魔化すために、どうにか笑う。
「凪斗くんが、皆に私を引き合わせてくれた。これはきっと、凪斗くんの幸運の恩恵だね」
凪斗くんが、首を振る。「そんなのボクとは関係ない」そう言っているのかもしれない。だけど私は、凪斗くんの指先を握る。だから、呟いた声が、水分を含んでじとりと重くなる。
「もうすこしだけ、私に凪斗くんの幸運を分けてください、って言ったら、だめ?」
凪斗くんは、私のベッドの端っこに額をくっつけたまま、ぴくりともしなかった。シーツに寄った皺の数を、私は視界の端で数えている。それが残り数本になったところで、凪斗くんはぽつりと、呟いた。
「……そんな言い方、ずるいな」
凪斗くんはその日、私が眠りにつくまでずっとそうして、顔をあげなかった。
次の日から、凪斗くんは花村くんの部屋に食事を持っていくようになった。私が持っていこうとしたのを取り上げた形ではあったし、「キミに行かせるわけにはいかないから」と本人も口にしていたけれど、私は何となく、彼が花村くんに歩み寄ろうとしてくれているのではないかと思っている。
二人の様子を見ていた日向くんは「歩み寄るって言うか、あれは……なんていうか……」と言葉を濁していたけれど、それでもかつては真昼ちゃんの部屋にほとんど近づこうとしなかった彼を思うと立派な進歩だと思う。
声が出る様になって、最近では施設内を散歩するようになった真昼ちゃんと何か言葉を交わしているのも見かけたことがある。「何を話していたの?」と何気なく尋ねたら、「キミをあまり困らせないようにって叱られた」と肩をすくめた。
「小泉さんは、相変わらずだね」
そう続けて言うものだから、私は、うん、と頷くだけで精いっぱいだった。ともすれば泣き出しそうになった。頑なだった凪斗くんが少しずつ解けていくようだと思った。私はそれが、嬉しくてたまらない。
容体の落ち着いた花村くんと真昼ちゃんの調書を取り終えた頃、私は次のプログラムにかける被験者の選択を迫られることになる。
猫のような目をした、ピアスだらけの女の子。私は彼女の笑った声を、今でもはっきり思い出せる。