目を開ける。
 薄い緑色の窓のようなものが見える。手を伸ばそうと思ったけれど体が言うことをきかなくて、ぼくはただ、ぼんやりと膜を眺めた。いろんなものが少しずつ、自分から乖離して、またくっつく。夢を見ていた気がするけれど、一体どこまでが夢だったのか分からない。なんだかとても、怖い夢だった気がする。
 ぼくは今まで、誰かと一緒にいた。それも一人や二人でなく、大勢の人たちと。網膜にべたりと張り付いた空の青と、砂、耳に残る笑い声。あとは悲鳴? それに、料理を作っていた気がする。何かから逃れるように、ただひたすら、ぼくは料理をしていた。みんなが笑顔になればいいなって思いながら。だけど、みんなって、誰だっけ。それに、なんだか変だ。ぼくは、そんな殊勝なことを考えていながらも、震えていたような気がするのだ。
 自分の中に沈殿した濁った水を掬っては指の隙間から落とすような作業だった。ぼくはただただ、思考を巡らせた。まず一番最初に思い出したのは、「狛枝くん」と「十神くん」だった。ぼくは、夢の中で人を殺した。それも、よりにもよって料理で使うシュラスコで体を滅多刺しにしたのだった。だけどあれは夢と呼ぶにはあまりにもリアルで、ぼくは手に残った鉄串の硬さも、それを肉に刺す時の感触も、ありありと思い出すことができる。
 混乱する。あれは現実だったのだろうか。ぼくは本当に、十神くんを殺してしまったのだろうか。あれ、だけど、じゃあどうしてぼくはこうして生きているんだろう。彼を殺したぼくもまた、死んでしまったはずなのに。
 夢だったんだ。と、思う。
 すべて、すべて夢だった。みんなで遊んだ砂浜も、海も、良くわからない島を歩いたことも、コロシアイをしろって白黒のクマに脅されたのも、親睦を深めるためだとか言って、パーティをしたことも、勿論人を殺したことも。ぼくが死んだことだって。そうあれはすべて夢だった。そうでなくちゃ、今ここにいるぼくは何だっていうんだよ。
 それに第一、おかしいよ。仲良くなるためのパーティだなんて。だって、ぼくたちは皆、クラスメイトだったじゃないか。ずっとお互いを知っていたじゃないか。夢の中では誰もそれを覚えていなかったけれど、だからこそ、あれは、夢で。
 よかった。
 声がでないけれど、そう思う。よかった。ぼくが本当に人を殺してしまったんじゃなくて。ぼくが死んでしまったのではなくて。あの感触が嘘で、板の隙間から降ってきた鮮血の臭いも感触も全てが偽物で、誰も傷ついてなんかいなくて。
 ぼくは心底安堵して、早く、この緑色の膜が破れればいいのにと考える。どうしてこんな狭いところに閉じ込められているのだろう。人一人入るだけでいっぱいのこの箱は、丸いぼくには窮屈すぎた。ぼくは、いくつになっても身長がまるで伸びなかった。お母ちゃんのように。
 そう、お母ちゃんのように。



 あ。



 ぼくと世界を覆っていた薄い緑の膜が静かに開く。



 あ。



 新鮮な空気が皮膚を刺す。驚くほど高い天井は複雑な配管がむき出しで、寒々しかった。ぼくの視界を遮るように、二人の人間がぼくの顔を覗き込む。



 あ、あ、あ。



「花村くん!」



 知らない二人組だった。片方は黒い髪の女の子で、もう片方は短髪の、目の色が右と左で違う男の子。厳密に言うと、何となく顔は見たことがあるような気がするけれど名前が出てこない。
 だけどそんなことぼくはどうだってよかった。構わなかった。ここがどこだろうと、女の子のほうがぼくの名前を呼ぼうと、嬉しそうに微笑んでいようとあれが夢だろうと、そうでなかろうと、よかった。どうだっていい。ああ、ああ、ああ、と、声にならない声が、口の端から漏れる。動かないと思っていたはずの体は、存外命じれば簡単に動かせた。
 ぼくの手が、いちばん近くにいた女の子の首に伸びる。おかしいなと思う。ぼくの腕は、こんなに細かっただろうか。棒のようではないか? 病室の、お母ちゃんのようじゃないか。



「っ!?」



 ぼくは自分が今まで入っていたカプセルを乗り越えて、女の子を押し倒していた。彼女は細身で、簡単にぼくに組み敷かれた。



「花村!」



 もう一人の男の子がぼくの名前を叫ぶ。
 花村。
 私は輝美。あの人は輝夫。二人の子供。あなたは輝々。
 記憶の底で誰かが歌う。女の子の目に怯えの色が見えた。黒い髪が床に散らばる。ああ、お母ちゃん、なんで、と、思う。彼女の首に回した指に力を入れた瞬間、ぼとりと涙が落ちて、その子の頬に当たった。「おかあちゃん」声が掠れる。ぼくの声は、こんな音をしていただろうか。
 ばき、と、衝撃が走った。ぼくは頬を殴られ、簡単に吹っ飛んだ。視界の端で、起き上がった女の子が首を押さえて咳き込んでいる。さん。雷鳴が走るように、ぼくの脳にそんな名前が浮かび上がる。ああ、そうだ、あの子はさんだ。ブレザーの、いつもきっちりネクタイをしめていた優等生みたいな女の子、ぼくの料理を楽しみにしていると笑ってくれた女の子、だけど、あれは夢だ。ぼくは、頭を押さえる、痛いんだよ。殴られた頬も、足も手も体中が、あちこちが、痛くて痛くて仕方がない。
 もう起き上がる気力もないぼくの体を、誰かが羽交い絞めにする。



「花村、何やってんだおめー! おかしくなっちまったのか!?」



 この背中に当たる胸の感触と声は、終里さんのもののはずだ。役得だ、いつもだったらそう思えるはずなのに、いまはただ涙だけがボロボロと落ちていく。
 だだっ広い部屋だった。中央には巨大なコンピュータらしきものが鎮座していて、そこからへその尾のように伸びるケーブルが、十数個の、ぼくが眠らされていたのと全く同じカプセルに繋がれている。その中には人影が見えるものも、いくつかあった。
 けほ、と、喉を押さえたさんに血色を変えて寄り添う狛枝くん、ぼくを殴ったのは、そう、たしか彼は日向くんだ。ソニアさんに九頭龍くん、そして、今部屋に飛び込んできたのは左右田くんだ。ぼくは、歪んだ視界でそれらを確認して、ああ、と、言う。ああ、ああ、と、声にならない声を吐き出す、こうして懺悔する度に、ぼくの罪が剥がれ落ちてくれればよかった。ぼくはなにをしているんだろう。
 夢を見ていた。ながいながい夢だった。
 ぼくたちは記憶を奪われ、得体の知れない島に連れられて、訳も分からないまま殺し合いを強いられた。ぼくは、殺人者だ。理由があったとはいえ、十神くんを殺してしまった。お母ちゃんがどうなったか知りたいだなんて、ぼくをたった一人で育ててくれた優しいお母ちゃんの今を知りたいだなんて、お母ちゃんの夢だったあの食堂がどうなったかを知りたいだなんて、そんなことを考えて、ぼくは、ぼくはぼくは。あの日罪木さんに渡された毒の瓶の感触を、ぼくは今でも覚えているのに。
 声にならない嗚咽が漏れる。知りたいなんてバカか。お母ちゃんを殺したのはぼくだ。ぼくがお母ちゃんを殺した。
 お母ちゃんはもういない。食堂花村も、跡形もない。しあわせだったでしょお母ちゃん。ねえしあわせだったでしょ。ふたりでよかったでしょ父親なんてぼくはいらなかったよ。二人で生きていられればよかったんだよ。あの人と同じ病気で死ねて幸せだなんて言わせない。病気でなんて死なないで。ぼくの料理を食べて、ぼくのために死んでよ。
 だってぼくはあなたの勝手で生まれた命なのだから。



「あ、あ……! あああああ、あああっ!」



 目の前がちかちかと点滅した。あの日、病室で、ぼくが作ったリゾットを少しずつ口に入れたお母ちゃんの横顔を、ぼくは忘れない。おいしいね。さすがだね。さすが、私の子供だね。その日お母ちゃんはあの人の名前を一度も口にしなかった。そのまま、きれいに平らげて、おなかがいっぱいになっちゃった。少し眠るねって。わらって。わらって、眠りに落ちる寸前に、ぼくの頬に手を伸ばした。苦労の多い手のひらでした。あかぎれて、ささくれて、ぼろぼろで、この手でぼくを育てて守ってくれた、ぼくはあなたの子供だった。



「幸せだったよ」



 罪木さんの言うとおり、お母ちゃんは苦しまずに死んだ。








 ぼくが目を覚ましてから何日が経ったのか、正確なところは分からない。ぼくに与えられた部屋の窓からは、海が見えた。
 食事を運んでくれるのは終里さんか日向くん、たまに、狛枝くんだった。終里さんも日向くんも、いつも何かぼくに声をかけていってくれたけれど、狛枝くんだけは別だった。無言で食器をテーブルの上に投げると、そのまま部屋を出る。椀から飛び散った汁は、ぼくが作るものに比べたらあまりにもまずくて食べられたもんじゃない。だけどお腹は空くもので、ぼくは渋々それを口に入れる。おかゆと、薄いお味噌汁。今日はお浸しもある。それを無心で咀嚼する。味がしない。



「花村?」



 控えめなノック音と共に、名前を呼ばれる。この声は、日向くんだ。彼は時間を見つけてはこうして会いに来てくれる。それが今は、ひどくありがたい。
 「どうぞ」と声をかけると、扉を開けた日向くんは朗らかに笑った。あの島では見ることができなかった笑みだった。
 寝て、食事をして、少し検査をして。それだけの日々だった。日向くんの話によると、ぼくのほかに、小泉さんも最近目を覚ましたばかりらしい。彼女は失語症を患っていたらしいけれど、数日前にようやく話ができるようになったとかで、やっと調書が取れるようになったという。



「悪かったな。……無理矢理起こしたもんだから、脳に負荷がかかったんだ。お前もきつかっただろ」



 日向くんは気遣うように薄く微笑んだ。さんの話を避けているのは明白だった。
 さんも日向くんも、元はぼくたちの同級生ではない。それでも日向くんは、いわゆる「絶望」という括りに入る存在で、結局のところ、異質なのはさんただ一人だった。錯乱していたとはいえ、彼女の首を絞めたのは、ひょっとしたらまだ絶望の残滓があったぼくが本能的にそれを察していたからなのだろうか。
 さんはぼくの部屋に現れることはなく、あれから一度も会えていなかった。
 日向くんの話を聞きながら、少量の食事を摂り終えて手を合わせる。さんのことを尋ねようとしたけれど、それよりも先に部屋の扉が無遠慮に開かれた。狛枝くんだった。食器を片づけに来たのだろう。



「おいおい狛枝、ノックくらいしろよ」



 日向くんにそう窘められても、彼は返事をしない。僕にだけでなく、狛枝くんは日向くんにまで素っ気ない態度を取る。この二人はこんなに仲が悪かっただろうか。殺伐とした空気の中、ぼくはその背中に思い切って狛枝くんに声をかけてみた。



「あの、狛枝くん。……さんは」



 もしも彼女に話ができるのなら、謝りたいと思った。錯乱していたとはいえ、女の子の首を絞めるなんて正気の沙汰ではない。
 彼女の名前を出した途端、狛枝くんはぼくを睨みつける。はあ、と大袈裟なため息を吐いて、彼は言った。



「来るわけないでしょ。キミにあんなことをされたんだから」

「……そう、だよね。」

「本当に、最悪だよ。例え彼女が許してもボクが許さない。日向クンが殴ってなかったら、ボクがキミを殺していたかもしれない。彼に感謝するんだね」

「おい狛枝、そんな言い方……」



 狛枝くんはそのままぼくたちを振り向くことなく、部屋を出て行った。しん、と静まり返って、やがて日向くんが「悪いな」と呟く。



「あいつ、のことになるとああなんだ。なんていうか、あいつら元々、色々あったみたいで」

「……うん」

「あ、でもは別にお前のこと怒ってるとか怖がってるとかではないぞ。狛枝が過剰に反応して、止めてるんだよ。お前も俺の見た感じだと、もう落ち着いてると思うし、そろそろ調書でも取りに来るころだと思う」



 だから安心しろと微笑まれて、ぼくは曖昧に頷く。落ち着いている。ぼくは、そういう風に見えるらしい。比較対象がないからどうだか分からないけれど、そう見えているなら、良いと思う。








 さんは、日向くんの言うとおり、それから二日後にぼくの部屋にやってきた。未来機関から支給されたと言うスーツを着て、隣には日向くんを従えて。狛枝くんはと尋ねると、外にいると、困ったようにさんは笑った。彼女もまた、厄介な人に好かれたものだと思うけれど、それでも満更でもなさそうだから、二人は幸せなのかもしれない。
 さんの首には何の痕も残ってはいなかったし、日向くんの言うとおり彼女はぼくに対して怯えても怒ってもいないようだった。ベッドサイドに置かれた椅子に座って、ファイルを広げる。「落ち着いた?」そう尋ねられて、ぼくはすっかり、謝罪するタイミングを失ってしまった。



「落ち着いた、のかな。わからないや」



 さんが、ファイルから目をあげてぼくの顔をじっと見る。



「あまり眠れてなさそうだね」



 不意にそう言われて驚いた。ぼくはあのカプセルから目を覚ましてから、眠ろうとしても二時間置きに目が覚めてしまうのだ。睡眠薬を少し処方してもらったほうがいいかもね。さんは、さらさらとボールペンを走らせる。日向くんはぼくと彼女を見下ろしながら、何も口を開かない。
 調書というから、もっと突っ込んだことを聴かれるのかと思って身構えていたけれど、さんは一見どうでもいいような話ばかりをしてくれた。眠れない以外に不便はないか、とか、この島はプログラムの中と同じ島だけど、ほんとにもうすっごく寂れてて大分雰囲気が違うから、今度一緒にお散歩にいこうね、とか、ウミネコを見たことがあるか、とか。ぼくはそのどれもに曖昧に返事をした。そうしながら、あまりにも彼女の質問が不自然で耐えられなくて、とうとう自分から、切り出したのだった。



「どうして聞かないの」

「ん?」



 そのとき彼女は二番目の島にあるという図書館について話をしてくれていたところで、外国の本ばかりで理解ができないけれど、料理の本もあるから、今度見にいこうとか、そういうことを言っていた。それを遮ったぼくに、彼女は首を傾げる。それがどうしても、今は煩わしい。痛い、やめてほしいと、叫びたくてたまらない。



「ぼくは、きみたちの言うところの『絶望』なんだよ? ぼくが何をしたか、知らないわけじゃないんでしょ? ぼくは、ぼくは人を殺したんだよ、お母ちゃんを、殺したんだ」



 お母ちゃんだけじゃない。ぼくはお母ちゃんだけじゃなくて、たくさんの人に料理を食べてもらった。北沢くんも、その彼女も、旅館のひとたちも、いつかぼくの麻婆豆腐を褒めてくれたおじさんも、みんなが食べた。
 罪木さんにもらった薬がなくなれば、その辺で流行っていた質の悪いドラッグを入れた。勿論、頼めば罪木さんはすぐに新しい薬をくれた。ぼくの作った料理を食べた人はみんな笑う。笑って天国に行く。ぼくは嬉しくなって、もっとたくさんの料理を作る。ぼくの後ろに積み重なる遺体の数々を、ぼくは武勲のように掲げる。



「おっ! やぁるじゃんセンパイ! 立派な絶望だね!」



 誰かがぼくを褒めるけど、どうでもいい。母親を差し出したぼくに怖いものは何もなかった。こんな淀んだ世界を生きるより、美味しい料理を食べて、幸せな気持ちになって死ねるほうが、よっぽど幸福だと思った。最後には、ぼくの料理を食べさせてほしいと頼んでくる人も後を絶たなかった。食堂花村には長蛇の列ができた。みんな死んだ。
 ぼくは殺人鬼だった。もう手遅れなほどに汚れてしまっていた。なのに、さんはそんなぼくに笑う。



「……花村くんは、後悔してないの?」



 穏やかな、声だった。きん、と耳の奥で甲高い金属音が鳴った。ぼくは、は、と、息を吐く。
 してるよ。してるにきまっているじゃないか。声にならない。それでも、懺悔するように並べる。ぼくと年の変わらない、穢れのない聖職者に向けて、ぼくは懺悔する。
 しているよ。死んでしまいたいよ。ぼくはお母ちゃんの傍にいって謝りたいよ。ぼくの料理を食べて死んでしまった人たちに詫びたいよ。だけどぼくはあの人たちのところには行けない。だってぼくが行くのは地獄なのだ。さんが、かつて彼女の首を絞めたぼくの手を取る。ためらいのない、あたたかい、やわらかい手だった。



「花村くんのしたことは、……許されることではないよね。それを許すのは、私ではないし、皆がこれからも長い間未来機関の監視下に置かれることは変わらない。きっと窮屈な思いをすることもあると思う。だけど、花村くんが後悔していて、償いたいっていう気持ちがあるのなら、私たちはあなたを支えたい」



 それが、今の未来機関、というか、私の所属する十四支部の総意なの。甘いって怒られることもあるけれど、と、彼女は眉を下げて笑う。



「私は皆に起きてもらいたい。罪を償う機会を持ってほしい。結局のところ、こんなの私たちのエゴなんだよね。ただみんなともう一回話がしたいって、それだけの理由で無理矢理みんなを起こしてる。迷惑だって怒られちゃうかなって思っても、それでも、やっぱり私は花村くんが起きてくれてすごく嬉しかったし、他のみんなにもまた、会いたいよ」



 これは、さんの、というか、この島にいるみんなの考えなんだろう。狛枝くんだけはどうもぼくたちを快く思ってはいないようだったけれど、ぼくは彼女の言葉に救われたような気持ちになった。重たかった荷物を半分くらい、下ろしてもらったような気になった。「それにね」さんが、くすぐったそうに言う。



「それに、私、花村くんの料理、食べてないの」



 照れたような顔だった。その目が慈しむように細められる。「俺も食べてないぞ」日向くんも、笑いをこらえるような声で呟いた。さんが日向くんの方に目をやる。



「結局あのときのパーティ料理、終里さんしか食べてないでしょ? あ、あと辺古山さんも食べたのかな」

「十神も鉄串がどうのとか言って食べてたけどな」

「あ、そうだったっけね。いいなあ。結局食べそびれちゃって、……学園にあった花村くんのレストランだっていっつもすごく並んでたから、花村くんが卒業する前に一回は食べたいなって思ってたけど、結局行けなかったし」

「ああ、それは予備学科の俺には関係のない話だな」

「ん!? あ、そういうつもりじゃなくてえっと」

「はは、分かってるよ、意地悪言って悪いな」

「あああ~もうやめて!」



 ぽかんとするぼくを置いて、二人は楽しそうに会話をする。口を挟む隙もなく呆然としていると、さんはくるっとぼくの方を向いた。「あと、あとあと、私すっごく料理が苦手だから、教えてほしい」そう言って微笑んだ彼女は何の屈託も他意もなくて、面食らう。「バレンタインのチョコレートもその辺の既製品を詰めただけだったよな」日向くんのからかうような言葉に、ぼくは思わず「えっ」と声が漏れていた。



「そう。作ろうとしたら失敗して、困った……。結局手の調子が悪いとか関係ないんだよね、勘が悪いの」

「いや、美味かったぞ、もらったチョコ」

「既製品が美味しいのは当たり前でしょ!? そうじゃなくて、もっと、こう、女子としては手作りをしてみたいの。来年はちゃんとしたの作るから」

「でもそれ花村に作らせるんじゃないのか?」

「ちっ、違うってば、花村くんに教わって私が作るの! ねえ花村くん!?」



 さんが必死の形相でぼくを見つめる。くるくると変わる表情は見ていて全然飽きなかった。それは、絶望に染まった世界のどこかに転がっているような類のものじゃ、決して無かった。狛枝くんが彼女を大切に思うのも、わかってしまう。
 ぼくたちとは違う、絶望しなかった女の子。ぼくはさんに握られたままの手が、じんわりと熱を持ってくるのを感じた。お母ちゃん、と、思う。
 ぼくはお母ちゃんを殺した。多くの人の命を奪った。その罪は決して償えるものではないし、ぼくはこれからも一生大勢の人に恨まれて、奪った命を背負って、その重みに耐えながら生きるのだろう。
 厨房に立つ自分を想像することは、今のぼくにはまだできない。きっとぼくは足が竦むし、手は震える。こんな棒のような腕では鉄鍋を持つこともままならないだろうし、仕上げに振りかけるあの透明な魔法の薬を、きっと探してしまうだろう。癖のように。だけど、と思う。
 ぼくは、お母ちゃんを忘れない。ぼくが奪った命を、ぼくに殺してほしいと頼んだひとたちの目を、北沢くんを、旅館を、ぼくの日々を、お母ちゃんと生きた世界を、父だったあの人の手を、美しい弟妹を、ぼくは忘れない、だから、どうか、どうか。
 さんの手の甲に、もう片方の手を添えた。さんが、息を飲んだのがわかった。あまりにも無防備だったけれど、あまりにも優しい子だったけれど、彼女もまた緊張していたのだと、強張る手の甲が言った。ぼくはだから、ごめんと言う。ごめん、ごめんねさん。ありがとう、って。
 さんはぼくの言葉に、小さく首を振った。








 ぼくはいつか自分の寿命を全うしたとき、お母ちゃんのように笑えるだろうか。「幸せだった」と言えるだろうか。
 きっとそんなはずはなくて、ぼくがこれから進む道は決して平坦ではなく、ぼくの料理はもう賞賛されるに値しない。けれど、ぼくは生きたい。生きて、償いようのない罪を背負って、幸せでなくても、頑張ったと言えるような自分でありたいと、そう思う。
 輝々、そう呼ばれた気がした。あれはきっと、お母ちゃんの声だった。


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