結局、十月に行われる予定だった進級のための実技試験は中止になった。例の予備学科生たちによるデモ活動が予想以上に活発になってしまったためだ。
 ぼくは試験官たちに提供する予定だった料理のレシピをぼんやりと眺めている。そうしていると、ため息まで出てきそうだ。同じクラスの子の中には試験がなくなってラッキーだって言っている人もいたけれど、やっぱりぼくとしては自分の料理の腕を振るう場が一つなくなってしまったことは口惜しい。
 ぼくは今年はフルコースを作る予定だった。前菜のオードブルからスープ、メインの肉料理にデザートまで、味だけでなく彩りや栄養面にまで気を遣った完璧なぼくの子供たちは、これで当分日の目を見ることがなくなってしまった。まさか調理に手間も時間もかかるフルコースをぼくの食堂でランチとして提供するわけにもいかないし、第一出せたとしても食べきる前に昼休みが終わってしまう。残念極まりない。
 だけどぼくがいつまでもこんな暗い顔をしていたら、クラスのみんなに申し訳ない。ただでさえ最近、小泉さんに心配をかけてしまったのだ。「花村、顔色悪くない?」なんて声をかけられたので、「そんなことないよ! だけどそんなに心配してもらえるなら体のあらゆるところを写真に収めてもらってもっと隅々まで確認してほしいな!」と言ったら露骨に眉を顰められて「心配して損した」と吐き捨てられた。優等生タイプの小泉さんの冷たい目と言うのは、案外そそるものがある。
 ぼくは明るく、健やかであらねばならない。料理人は体力が資本だ。そうでなければ、厨房に立つこともままならない。お母ちゃんのように。
 ぼくはそこまで考えて、打ちのめされる。お母ちゃんの容体は相変わらず思わしくないらしく、北沢くんからは数日置きに電話がかかってくる。輝美さんは花村くんのことを良く話しているよ、そう言われる度に、頭を押さえて蹲りたくなる。嘘だと叫びだしたくなるのを寸でのところで堪えて、「わかった、調整して会いに行くから」なんて思ってもないことを呟く。電話口の向こうの北沢くんはあからさまにほっとした声で「良かった」と言うから、ぼくはこの人も、お母ちゃんを持て余しているのだと知った。








 北沢くんに悪い、という思いが募って、休みを使って、ぼくはとうとうお母ちゃんの病院に行くことにした。始発の電車に乗って東京を発ち、昼ごろ到着、数時間の滞在を経て、その日のうちにはまた帰ってくる予定だ。お見舞いに、ぼくの研究室に届いた色艶のいいマンゴーを持っていく。お母ちゃんの好物だった。ぼくは電車に揺られながら、車窓からの景色を右から左に見送る。そこにぼくの過ごした日々を見る。
 記憶もない乳児の頃に連れられた山奥の温泉街。ぼくを育てた故郷。身寄りのない母ちゃんは、働きながらぼくを育てた。お母ちゃんは母であり、父であった。
 旅館の従業員さんたちはぼくたち母子に優しかった。ちょっとしたお手伝いをすると、よくお客さんに出す用の上等なお菓子をくれた。ぼくはあの甘さが好きだった。
 お母ちゃんの作る料理が注目され始めた頃、あのころがきっと、一番幸せだったな。ぼくは小学校で良く友達に「輝々のかーちゃん、すげーな! テレビ出てたぞ!」と声をかけられた。鼻が高かった。まさかあの番組をきっかけに、父親だと名乗る人間が現れることになるとは思わなかったけれど。川越輝夫。あの人の存在が、ぼくたちの幸せな日々に亀裂をいれた。
 ぼくたちの生活は、生い立ちに反して順風満帆だった。ぼくはあの旅館での日々に満足していたし、自分もやがてお母ちゃんのように旅館で働くのだと信じて疑わなかった。お母ちゃんが旅館で提供していた料理のレシピをぼくは今ではすっかり覚えているし、そらでも作れる。お母ちゃんの味覚をしっかり受け継いだぼくは、大概の料理は一度食べれば作ることができた。
 遺伝って、すごい、素直にそう思う。ぼくはお母ちゃんに、目も鼻も口も耳も体型だってそっくりだし、一緒に歩いていると見知らぬ人に笑われる。コピーみたいなもんだ。何とも思っていなかった、川越輝夫に会っても、彼の子供たちの美しさを目の当たりにしても。ぼくはお母ちゃんの舌があればよかった。
 なのにお母ちゃんは違うのだ。
 お母ちゃんは川越輝夫をもう過去の人間だと言う。もう関係がないと言う。川越輝夫にとって、お母ちゃんはきっと、そうだったのだろう。川越輝夫にとっての花村輝美は、過去の人間だった。子供の頃の約束の延長で付き合った若き日の出来事で、もしかしたらお母ちゃんに会いに来たのだって深い意味はなかったのかもしれない。ぼくの存在を知ったから、何度も旅館に足を運んだだけで。責任感だけで、そこに愛情なんかなくて、彼の心はもうあの美しい家族だけのもので。
 だけど、記憶の中に薄れもせずに残る彼のあの手のひらが、ぼくの尖った思考を撫でていく。家族を置いてぼくの元に駆け寄った彼の顔も声ももうどこかぼやけているのに、あの手だけはきっとぼくは一生忘れることができない。ぼくたちを壊した美しい手。お母ちゃんを壊した手。
 ぼくは座席に座ったまま、膝に肘をついて、顔を覆う。お母ちゃんが求めているのはあのひとの手で、ぼくのこの、柔らかくて厚い、子供のような手ではない。それを思い知らされるのが、怖かった。ぼくはお母ちゃんにそっくりな自分を好きだし、お母ちゃんの舌をそのまま持って生まれたことを何よりも幸せだと思っているのに、あの葬儀会場で見たお母ちゃんがぼくを殺してしまう。鬼のような目で、ぼくを否定する。
 お母ちゃんにそっくりなぼくは、あの人の代わりになることもできはしない。








 予め行くことを伝えていたけれど(伝えていたからこそなのかもしれない)北沢くんはお母ちゃんの病室にはいなかった。店から数駅離れた大病院の、ナースステーションに程近い二人部屋の、窓に近いベッドにお母ちゃんはいた。ナースステーションでお母ちゃんの部屋を尋ねたとき、ぼくは看護師さんに、まじまじと顔を見られた。



「そっくりですね」



 そう微笑まれて、なんだか恥ずかしくなった。カーテンの閉め切られた相部屋の人のベッドの前を静かに通る、慣れない病院の甘ったるい空気が煩わしくて、ぼくは本当はさっさと帰りたかった。



「……お母ちゃん?」



 薄情にも寝ていてくれたらいいと思っていたお母ちゃんは、起きていた。ベッドに横たわったまま、ぼんやりとしていた。ぼくはお母ちゃんの姿を見て、ぎょっとする。あの葬儀の日より、また痩せた。ふくよかだった体の面影はなく、目は生気がなく窪んでいる。そのビー玉のような瞳がきょろりとぼくを見ると、かさついたくちびるが僅かに動いた。輝々、そう呼ばれた気がしたけれど、きっと普段あまり喋ることがないのだろう。掠れたその声が、ぼくを責めているようだった。



「大丈夫? ……痩せたんじゃない?」



 起き上がろうとするお母ちゃんを制して、棒のようになってしまった手足を掛け布団の中に隠した。お母ちゃんはけれど、力なく笑う。その目の細め方はぼくが慣れ親しんだお母ちゃんの表情で、ぼくはほっとする。



「ちょっとだけね、でも、いいダイエットになるよ」

「何言ってんの。ダイエットだったら正しい食生活と運動の方がいいよ」

「言うようになったねえ」

「……まあね」



 布団の中で微笑むお母ちゃんに、そうだ、と紙袋に入れたマンゴーを見せる。「お母ちゃん好きだったでしょ? 食べる?」剥いてあげようか。そう携帯用のナイフを取り出すと、お母ちゃんは首を振った。



「ありがとう。でも、今はいいよ」

「え? そ、そう?」

「……あんたの作った料理なら、食べたいけどねえ」



 お母ちゃんの病状を、ぼくは詳しくは知らない。けれど、この痩せ方だ。ひょっとしたらもうほとんど何も食べれないのかもしれない。ナイフをしまいながら、ぽたぽたと落ちていく点滴の動きを視界の端で追う。いたたまれない気持ちになって、ぼくは、お母ちゃんの現状や、病気のことを本当に知らないのだと思った。
 丁度そのとき、部屋に看護師さんがやってくる。検温か何かかと思ったけれど、こっちの方にやってきた看護師さんは、お母ちゃんではなくぼくに向かって声をかけたのだった。








 促されるまま廊下に出たとき、嫌な予感はしていた。今丁度主治医の手が空いたので。そう言う看護師さんのすっきりとした背中を視界の端に置きながら、ぼくは痛む胃を懸命にこらえる。
 ぼくは覚悟をしなければならないのか。そういう時期に来ていたのか。窓から見える空は秋晴れなのに、ぼくは叫びだしたくてたまらない。逃げ出したい。ぼくの足元はいつの間にか削れていて、繋いでいたはずのお母ちゃんの手がもはやぼくのエプロンに引っかかるのみだ。重たくて、本当は、放してほしいと思っていた。
 ぼくは、なんて息子なんだろう。母と子ふたりで生きていた。お母ちゃんからもらえるものをすべてもらっておいて、そうして二十年近く生きてきたのに、ぼくは今、お母ちゃんが怖い。これからやってくる未来は輝いているのではなかったか。ぼくは希望ヶ峰学園に入って成功するのではなかったか。あの日のお母ちゃんが蘇る。ぼくは希望ヶ峰学園からスカウトを受けたあのとき、お母ちゃんが吐き出した言葉を思い出しかけて、思わず耳を塞いだ。








 嫌な予感は当たった。主治医の先生は、お母ちゃんがもう長くはもたないことを、ぼくに告げた。何か心残りがあるのならば、なんでもしてあげてください。そう言われたので、ぼくは咄嗟に、「料理は」と、口にしていた。そうしなければ、耐えられそうになかった。








 お母ちゃんはもうほとんど食事を摂れていないらしい。点滴の栄養だけを受け入れて、食事はいつも、おかゆを数口すするのみだという。
 だったら、リゾットを作ろう。野菜を小さく切って、香りのためにほんの少しだけにんにくを入れて。ぼくはその日からずっと、お母ちゃんのためのリゾットのことばかりを考えていた。学園に戻ったぼくが研究室で作るのは、専らお母ちゃんのための料理だった。
 ぼくがそうして研究室に閉じこもっている間、学校に併設されたぼくの食堂は閉鎖することにした。丁度その頃パレードが激しくなって、本科の学生の中にも姿が見えない人が何人か出てきたところだった。
 いなくなってしまったのは、例えば、小泉さん。九頭龍くんに、辺古山さん。そういえば狛枝くんも見かけない。だけど確か一番最初に学校に来なくなったのは、罪木さんだったかな。最近は色んな事件も増えているから、皆気が滅入ってるのかも。だけどぼくにはそんなことは関係なかった。興味もなかった。ぼくの今の一番の関心は、お母ちゃんのためのリゾットを作ること。それだけだった。料理のことを考えている間だけは、ぼくは現実を忘れられた。
 試作に試作を重ねる。味覚の鈍くなったであろうお母ちゃんの好みを思い出す。がつんとした味が好きだったけれど、体のことを考えたら薄味にしなければならない。研究室に閉じこもって、朝も昼も夜も、リゾットを作り続ける。ぼくは躍起になっていた。夢中になっていた。お母ちゃんは長くはない。その事実はぼくを簡単に奈落に突き落とした。分かっていたことだったのに、その日はもうすぐそこまで迫っている。ぼくの世界が終わる最後の日だ。ぼくは漠然とそう思った。








 あのパレードが少しずつ絶望を世界に広げていくように、じわりじわりと侵食していくように、ぼくもまた溶けていく。ぼくを愛してくれたお母ちゃん。ぼくを置いていくお母ちゃん。お母ちゃんは、死を恐れていない。だって、やっとあの人の傍に行けるのだ。こんなに幸せなことってあるだろうか。ぼくを置いて、お母ちゃんは幸せになる。息子のぼくにできることは、お母ちゃんを送り出す、たったそれだけだ。そのための、料理を作るのだ。人を笑顔にする料理を、お母ちゃんの人生を象徴するような、料理を。
 ぎ、と研究室の扉が開いた、ぼくはそれに気が付かなかった。
 ぼくの目の前に立った人の姿を見止めて、ぼくは思わず声をあげる。久しぶりに会うその人は、ぼくの作る料理をじいっと見つめて、首を傾げた。誰のための料理なのかと聞かれて、ぼくは答える。ああ、そういえば、ご病気なんでしたっけ、彼女が薄く微笑む。どこか、妖艶な笑みだった。



「実はもう、長くないんだ。だからさいごにぼくの料理を食べてもらえたら、って」



 彼女は静かに頷く。すべて分かっている、というふうに。けれどそれが不思議と嫌味なようには見えなくて、ぼくはなんだか気を許してしまった。最近はずっと研究室に閉じこもりきりで、教室にも行っていなかった。北沢くんからの電話も、何回かとらないでいたらとうとうなくなってしまった。ぼくは誰とも口をきいていなかったのだ。
 そこに現れた彼女は、ぼくの張りつめていた気を少しだけ緩めてくれた。少し、喋ってもいいかと尋ねると、彼女は快く頷いてくれた。



「……母はね、ぼくをずっと一人で育ててくれたんだ。ぼくの料理の腕も母譲りでね」



 リゾットを煮込みながら、ぼくはぽつぽつと語る。彼女がうん、うん、と頷いてくれるのが分かったから、ぼくはさらに言葉を重ねた。自分の生い立ちを、母の人生を、ぼくは初めて人に語った。川越輝夫のことすらも。そうしていると、絡まっていた糸が静かにほどけていくようだった。
 ぼくはきっと、いろんなものを少しずつ恨んでいた。ぼくだけを愛してくれず、あの家族を羨んだ母を。母を追いかけずに他の女を愛した父を。母を追いつめたあの美しい家族を。だけど、そのどれもが筋違いだった。ぼくは、お母ちゃんが好きだった。お母ちゃんだけが好きだったから、お母ちゃんが幸せであるならそれでよかった。最終的には、そういうことだ。



「だから、天国でお母ちゃんが、あの人と幸せになれたらいいと思うんだ」



 だけど、最後までぼくの話を聞いていたその人は、ぼくに、「嘘つき」と言った。



「……なにが?」



 ぼくは顔をあげる。何か、彼女の気に障るようなことを言ってしまったのだろうか。ならば謝らなければいけない、そう思ったけれど、彼女はぼくの顔をじっと見つめている、言葉を挟ませる余地もないままに、口を開く。



「そうやって、傷ついたけど仕方ないって顔で納得したふりをして、いい子ぶって、諦めて。渦中に居ながらもあなたはどこか蚊帳の外。それでいいと思っている」



 鍋をかき混ぜていた手が止まる。最弱火にしていた火が、静かに音を立てている。



「あなたを勝手に産んで人生を決めたお母さまや、父と名乗る人やその家族に振り回されておきながら、あなたはそうやって、許してあげるんですね。あなたはなにも悪くないのに」



 言われて目を見開いた。彼女が、ぼくの髪を撫でる。ぼくが青山の美容院で整えてもらった髪の毛を、くしゃくしゃと、崩していく。なのにぼくは止められない。いい子。いい子。彼女はぼくにそう優しく囁きながら、泣きそうな顔で笑う。



「つらかったですねぇ」



 鍋の底で、チーズが焦げ付いているのがわかる。だけどぼくは動けない。彼女の顔から目を逸らせない。ぼくの頬を、彼女が柔らかく、その手のひらで挟む。父の感触が、死ぬ。



「本音を隠すのって、つらいですよね」



 黒く丸い瞳が、ぼくを食うように覗き込んだ。ぼくは必然と、あの日のことを思い出していた。ぼくが希望ヶ峰学園からのスカウトを受けた日のことだ。あの日、母は手放しで喜んだ。その姿を見て、ぼくも嬉しかった。報われた気がした。母とぼくの人生が。二人で生きてきた、二人だけの日々が。
 だけど母は言った。「あのひとも、きっと喜ぶ」ぼくは頭を殴られたような気になったのだ。
 先にぼくを裏切ったのはお母ちゃんだ。ぼくを選んでくれなかったのはお母ちゃんだ。葬儀に行ったのはお母ちゃんだ。まだ愛していたくせに関係がないと嘯いて、美しい妻に砂をかけられて静かに怒っていたお母ちゃんは間違いなくただの女だった。あれは母ではなかった。あの人と同じ病気になれてうれしい。あの人の元へ行けて嬉しい。それを聞かされるこっちの身にもなってくれ。どうしてぼくだけを見てくれなかったの。
 そんなお母ちゃんをぼくは知らずにいたかった。



「どうしてあなたが我慢しなくちゃいけないんですか」



 震えるぼくの手に、小さな瓶が渡される。耳元で、彼女が囁く。甘いにおい。ぼくはこのにおいを知っている。病院のにおい、薬品のあまったるい香り、あれは死のにおいだ。「花村さん」彼女が、罪木蜜柑がぼくの名前を呼ぶ。



「最後くらい、我儘になったっていいじゃないですか」



 その小瓶に貼られたラベルを、彼女の細い指が撫でていく。
 そういえば彼女は、とうの昔に教室から消えてしまったんじゃなかったっけ?



「苦しまずに死ねる優しいお薬ですよ」



 絶望は伝染する。



「これならきっと、お母さまも苦しまずに天国に行けます」



 ぼくのエプロンにしがみついていた母の指は、あと一本で離れる。


PREV BACK NEXT