ぼくはその春から希望ヶ峰学園に籍を置くことになった。
ぼくの新しい学園生活は輝いていた。ぼく専用の研究室にはいつだって新鮮な食材が山ほど届けられたし、最新のキッチンから調理器具まで、全て揃っていた。あの定食屋の小さな厨房の何倍もある広さのぼくの城では、何でもできた。試してみたいことはたくさんあって、ぼくはそのどれもを叶えることができた。ぼくの料理を喜んで食べてくれる仲間たちにも恵まれた。
都会で過ごすんだからと青山で髪を切ってもらって、エプロンだって新調した。写真を送ると、お母ちゃんは喜んだ。格好良くなったねって、笑った。料理を食べられないのが残念だけど、写真で見ただけで美味しそう、さすがお母ちゃんの子供だね、そう言う電話口のお母ちゃんの声は、弾んでいた。離れて過ごすことに抵抗があったのは事実だけれど、お母ちゃんは元気そうだった。北沢くんもついていることだし、心配しすぎても仕方がない。
ぼくは希望ヶ峰学園で過ごす三年間を充実させようと、様々なことに精力的に取り組んだ。調理師免許は入学してすぐに取得して、先生たちに頼んで学園内にぼくの食堂を作ってもらった。昼休みになると、ぼくはそこの食堂で腕を振るって、生徒や先生たちに新製品を食べてもらった。メニューに載った料理の名前からできあがるものが想像しにくいという苦情はそこそこ入ったけれど、食べ終わると、みんなはぼくに笑顔を向けてくれた。美味しかったと、顔を綻ばせた。それだけでぼくは嬉しかった。
幸せな日々だった。あまりにも幸せな日々だった。その幸せが長く続いた方なのかそうでないのか、ぼくには分からない。楽しかった日々はあっという間に流れてしまう。溶けていく琥珀色のなめらかな液体に残った小さな粒を、ぼくは踏みつぶせずにいる。飲み干せずにいる。
ぼくはその頃、自分の料理の腕をあげることが楽しくて、美味しいと笑ってくれるみんなの顔を見ることが嬉しくて、幸せでたまらなくて、だから、あの人のことを忘れていた。
ぼくの脳の中には死角があって、そこの穴に落ちた彼はそのままぼくの体に飲み込まれるべきだった。彼はぼくへの責任を「養育費を支払う」という形で果たしたし、ぼくの方は彼に愛情も恩義もなかったから、そのまま溶けてしまってよかった。お母ちゃんにとっては、どうだったかわからないけれど。でもぼくにとって彼は結局他人も同然だったから。
他人のことに思考を割く暇をそのときのぼくは持っていなくて、思考を割くこともなかった。だから、お母ちゃんから電話があったときは、言葉を失った。
「明日そっちに行くから、あんた、学校休みなさい」
「え? なんで? 来るのはいいけど、ぼくが学校を休むってなるとちょっと困るなあ。明日もぼくの料理を楽しみにしている人は大勢いるし」
「あのね、あのね輝々、聞きなさい」
張りつめた声だった、ただ事ではないのだと思った。お母ちゃんが、小さく息を吐く。
「あの人が……輝夫さんが、亡くなったの」
お母ちゃんが電話口で泣かなくて良かった。ぼくは薄情だけれど、そう思った。
私は今からじゃお通夜には間に合わないけれど、葬儀に出ることになったから。あんたは東京にいるわけだし、お通夜、行けるよね? 場所は、学園からそう遠くはないから、私の代わりに行って。そう言いだすお母ちゃんを、ぼくは慌てて遮る。
「ま、待ってよお母ちゃん、一人で行けって!? ぼくが!?」
「そうだよ、あんたが行くの。行けるでしょう。あんたはあの人の子供なんだから」
「いやいやいや、そう言ってもさ、ぼくが行ってどうするの? 遺族に挨拶でもしろって? 勘弁してよ」
「輝々」
「葬儀なら、行くよ、お母ちゃんも行くんでしょ? それだったら構わないけど」
「輝々!」
お母ちゃんの悲鳴にも似た声に、ぼくは危うく携帯を取り落としそうになる。最新の、かっこいい携帯は、あの山奥の温泉街にいたころには到底手に入れることのできなかった代物だ。ぼくはそれを慌てて掴みなおして、口を噤む。
「お願いだから、言うことを聞いて」
お母ちゃんは、黙ったままのぼくが了承したと思ったのか、通夜会場をぼくに細かく教える。時間は今日の十九時から。制服で良いから。あと何時間もないじゃないか。ぼくは返事をしない。心臓の音がうるさく感じるのは、お母ちゃんの怒声を久しぶりに聞いたせいか、それとも別のことに起因するのか、ぼくはもう考えることも面倒で、「わかった」とお母ちゃんに言って電話を切った。
結局お通夜には、行かなかった。
ぼくにとって親はお母ちゃん一人で、例え川越輝夫がぼくのために養育費を払ったと言ってもそれで彼を父親だと認識しなおしたわけではない。次に会ったら挨拶くらいはしてもいいけれど、「父親面されても困る」くらいは言ってやろう。
そう思っていたのに、結局あれ以来一度も彼はぼくの元にやってこなかった。こなかった、のではなく、これなかったらしい。彼は、長い闘病生活を送っていたという。
そもそもお母ちゃんは養育費を受け取る気はなかった。勝手に産んで、勝手に育てた子供で、そこに川越輝夫の意思は介在しなかったのだから、お金をもらうわけにはいかないと。断られた彼は、自分の病を打ち明けた。手術と、長い入院が必要になること、五年後の生存率が極めて低いこと、つまりぼくが成人する前に、死んでしまうだろう、そうお母ちゃんに告げた彼は、何が何でもぼくに養育費を払わせてほしいと頭を下げたと言う。
何度断っても、時間を見つけては旅館にやってくる彼に最後は根負けした。お母ちゃんは、養育費を受け取った。そして旅館を辞めた。
東京駅におりたお母ちゃんはぼくにぽつぽつと話をしてくれた。昨晩の通夜のことは聞かれなかったので、答えなかった。お母ちゃんのことだから、行ってないのなんてばれていたんだろうけれど。
喪服に身を包んだお母ちゃんは以前より少し肉が落ちた気がした。顔色も悪かった。電話では分からなかったお母ちゃんの体調の変化が、ぼくは気になってたまらなかった。川越輝夫のことなんて、ぼくにはどうだってよかった。お母ちゃんがちょっとした段差でつんのめる。ぼくはお母ちゃんを支える。軽くなった。そう思った。
結論から言うと、川越輝夫の葬儀には間に合わなかった。
そもそも、彼の死は川越輝夫の妻を名乗る女性からお母ちゃんに伝えられたと言う。主人が生前お世話になりまして。そんな定型文を真に受けて、お母ちゃんははるばる新幹線に乗って東京に出てきた。だけどぼくとお母ちゃんが指定された時間に葬儀場に着いたとき、川越輝夫の遺体は既にそこから離れた火葬場に送られていた。故意に違う時間を指定されたのは、明白だった。
「ど、どうする? お母ちゃん、火葬場、行く?」
「……火葬場には行けない。近親者しか」
お母ちゃんは毅然とした様子でそう返事をしたけれど、ぼくにはわかった。お母ちゃんが必死で感情の波に抗っていることを。握りしめた拳が震えていた。ぼくはお母ちゃんの手を握った。葬儀場に残された親戚と思しき人々が、不審そうな目で見覚えのない二人の親子を見る。縮こまって、逃げ出したかった。
お母ちゃん、帰ろう。そう言いたかったけれど、飲み込んだ。ちょうどロビーにタクシーが着いたからだ。そこから降りてきた、恐らく火葬場から戻ってきたのであろう見覚えのある三人の姿に、ぼくは言葉を失う。
喪服を着た美しい女性は、あの日から冷凍睡眠でもしていたかのように美しさを保ったままだった。幼かった二人の兄妹は相変わらず利発そうで、息をのむほどきれいな顔立ちをしている。その三人が目を腫らして、肩を震わせている。骨になった父親を抱いている。妹のほうが、声を押し殺して俯いて目頭を手首で拭う、その肩を兄が抱く。二人の頭を抱き寄せて撫でる母親の手の美しさを、ぼくは目を見開いて見つめる。
きれいだと思った。家族のために泣く彼らは何よりも美しかった。骨になった父親のために悲しむ彼らに誰もが痛ましい悲痛な視線を送る。そこには確かに愛があった。ぼくの持ち得なかった愛があった。ぼくは、動けなかった。
ぼくたちの横を、三人と父の骨が通り過ぎる。目も合うことはなかった。兄妹は悲しみに暮れ、妻の女性は、立ち尽くすぼくたちを一瞥しただけで、会釈もしなかった。
ぼくと半分だけ血がつながったあの二人は、きっと、彼らの父親が自分たちの母親と結婚する前につきあっていた女性の間に子供がいたことを、知らない。知らずに、成長した。伝えられないまま大きくなった。だからああして、大っぴらに声をあげて泣ける。悲劇に包まれる。あの美しい母親は、ぼくたちに現実を見せつけた。家族という紐で繋がれた美しい自分たちを。
お母ちゃんは何も言わなかった。唇を引き結んで、妹の腕に抱かれた骨壺を、そこにいるひとだったものを、見つめていた。
ぼくたちは彼の妻でも子供でも近親者でもなかった。ぼくとお母ちゃんだけが、紐の端っこを握り合っていた。ぼくはあの日のことを思い出す。ごつごつとした大人の男の人の、骨ばった手を、ぼくはあの日初めて触れたから。あの手がもうこの世界のどこにもないだなんて、信じられなかった、今更。
ぼくは三人の後ろ姿を見送る。世界の中心にいる彼らを見送る。ぼくたちは舞台の袖にいる。父なし子、そのレッテルを背負って十八年生きてきたぼくは今更その事実に打ちのめされたりは、しない。ぼくは、ぼくだけは。負けない。
震えるお母ちゃんの肩に、手を添える。そのときのお母ちゃんの表情を、ぼくは、忘れられない。
お母ちゃんの病状が思わしくなくなったのは、その後だった。
あんなに大きな病院に行くのを拒んでいたお母ちゃんは、北沢くんの勧めでようやく腰をあげた。宣告された病名と余命に、ぼくの心臓はたぶん、数秒だけ止まった。お母ちゃんは店を休業することを決める。
「輝々が帰ってくるころには、また店に戻れるといいんだけど」
ぼくの卒業まで残り一年半、お母ちゃんが生きている可能性はよほどのことがない限りない。それを知ってお母ちゃんは笑う。
北沢くんは他の飲食店に移ったものの、時折お母ちゃんの入院先を訪れてくれるらしい。なかなか学園を離れることができないぼくは、彼に感謝した。
「ごめんね北沢くん、忙しいのに、ありがとう」
「ううん、構わないけどさ。でも、輝々くんは帰ってこれないの? やっぱりぼくよりも輝々くんがお見舞いに行ってあげたほうが輝美さんも喜ぶと思うんだけど……」
「そうしたいのは、山々なんだけど……」
季節は秋だった。十月には、学園の実技試験が控えている。希望ヶ峰学園ではテストがない代わりに、一年に一度だけあるこの実技試験の結果如何で進級できるか否かが決まるのだ。お母ちゃんのことは心配だけど、今はこの試験の準備で手が空かない。
携帯電話で話をしながら、廊下から見える予備学科の胡散臭い連中がパレードだなんだと騒いでいる姿を見下ろす。あれのせいで、もしかしたら今年は実技試験が中止になるのではないかというのは生徒の間だけでの噂話だ。だけど、それをいちいち真に受けてもいられない。ぼくは最高の料理を提供したい。そのための準備ならいくらでも時間を費やすし、努力する。それが、お母ちゃんの一番の願いだから。そういうことを、掻い摘んで説明すると、北沢くんは納得いったようなそうでないような声色で曖昧な返事をして、電話を切った。
通話の切れた携帯電話の画面を見つめる。動けないのは、どうしてだろう。縫いとめられたように足が言うことを聞かない。拡声器で叫ばれる予備学科の平淡とは言えない怒声に耳を塞ぐ。お母ちゃん、と、思う。
本当は傍に行きたい。今すぐにでも飛んでいきたい。一日二日で、今更試験の結果が左右されることはない、分かっている、だってぼくはそれくらいたゆまぬ努力をしてきたし、調理の腕に自信だってある。だけど、帰ってどうしろというのだろう。お母ちゃんの顔を、ぼくは真正面から見ることができるだろうか。痩せ細って、覇気がなくなって、きっともうフライパンだって握ることができないお母ちゃんを、ぼくは受け止めることができるのだろうか。
なんて薄情なんだろう。ぼくはあんなにお母ちゃんを愛していて、お母ちゃんに大切に育てられてきたのに、お母ちゃんが余命を宣告されてしまった今、傍にいることも選べない。だけど、それだけじゃない、ぼくが怖かったのは、病気になったお母ちゃんに会うっていう、それだけじゃなくて。
「センパイのお母さんってご病気なんですかあ?」
不意に、背後から声をかけられた。ぼくの手から携帯電話がすり抜けてリノリウムの廊下に音をたてて落ちる。
振り向くと、そこには一年生の江ノ島盾子が仁王立ちして立っていた。そこに立っているだけで、彼女は輝いて見える。モデルとして活躍しているだけあって、この子の周りは燦然としている。恵まれた容姿にスタイル、ずけずけモノを言うことも多いけれど、それは、彼女だから許された。ぼくは常々そう思っていた。美しいものは、許される。川越輝夫が選んだあの女性や、子供たちのように。彼らは許される。
だから、ぼくたちは許されない。
「ああ、もしかして音、漏れてた? ……実はそうなんだよ。試験が終わったらお見舞いに行こうとは思ってるんだけどね」
「ええ? でも試験が終わったらって、まだ一か月もあるじゃないですか」
廊下に転がった携帯を拾い上げる。薄暗い画面を何とはなしに見下ろす。
「うん、そうなんだけど」
でも、こわくて。
言いたかった言葉が、喉に引っかかる。この子に言ったって仕方がない。けれど、言えたら楽だろうなとは思う。ぼくのクラスメイトたちはみんな変わっているけれど明るくて、いい子たちばかりで、ぼくは彼らを好きだけれど、でも、こんな話を聞かせられないとも思う。ぼくはお調子者で、皆に好かれる変態の花村輝々であるべきだった。どんなときでも。
うーん、と江ノ島盾子が首を傾げる。
「よっくわかんないけどお、病気のことだったらほら、センパイのクラスにいる、なんだっけ? 保健委員?」
「……罪木さんのことかな?」
「あっそうそう、確かそんな名前~。罪木センパイに相談してみたらどうですか? なんか、アドバイスとかくれるかも」
江ノ島盾子の朗らかな口調に、ぼくは何となく救われる。罪木さんはぼくのクラスにいる女の子で、医療の知識や技術はその辺の医療従事者に引けを取らない。
ぼくは江ノ島盾子の言葉に曖昧に頷いて、笑う。ぼくのことを元気づけようとしてくれているんだと思った。「ありがとう。そうしてみようかな」そう言ったら、江ノ島盾子は笑った。見惚れるくらいに整った顔立ちをしていた。ぼくに半分だけ血がつながった妹に、どこか似ていると思った。
ぼくが怖かったのは、病気のお母ちゃんに会うこと、それ以上に、それ以上に、もう一つだけ。
「だけど、輝夫さんと同じ病気になれたお母ちゃんは幸せだよね、あの人より、ずっと」
入院する時になったと聞かされたお母ちゃんのことばが耳から離れない。あの日、骨になった輝夫さんを見送ったお母ちゃんの、鬼のような目をぼくは、忘れられない。