お母ちゃんがぼくと二人で生きることを決めてから、十年が経った。
 あの寂れた旅館がもしも注目されることがなければ。お母ちゃんが人前に出ることを嫌う性格だったら、きっと川越輝夫がメディアでお母ちゃんの名前を見かけることも、訪ねてくることもなかっただろう。お母ちゃんは一目見て、彼をそうだと気が付いた。恐らく彼もそうだった。お母ちゃんはどんな気持ちで彼の名刺を丸めたのか。拒まれても、彼は何度もお母ちゃんの元を訪れた。その中で彼がぼくの存在を知ったのも、必然だった。
 養育費ってのは子供の権利だ。今や会社の取締役でもある川越輝夫がぼくのために今までの、そしてこれからの養育費をお母ちゃんにぽんと渡したのは、だから、当たり前といえば当たり前だろう(勿論、そういう親ばかりじゃないってのも聞くから、これは本当に輝夫さんが良い人だってことなんだと思う)。二人の間にどんなやり取りがあったのかは推して知るべしだけれど、そのおかげでお母ちゃんはこれまでぼくのために必死で貯めていた貯金を自分のために使えることになった。
 昔からの夢だったとお母ちゃんは言う。いろんな人が自分の料理を食べてほっとした顔を見せてくれる。あったかい空間をつくる。自分の店を持つこと。それがとうとう叶うのだ。お母ちゃんは誇らしそうだった。もやもやした気持ちがなかったとは言い切れないけれど、ぼくはそれを呑み込んだ。お母ちゃんに当たるのは、筋違いだと思った。








 お母ちゃんは本当に旅館を辞めた。元ラーメン屋の古い店舗を改装して、二階に住居を構えることにした。店舗となる一階部分のトイレの隣にもう一つ扉があって、そこを開けると二階に行けるのだ。ぼくたちが今まで住んでいた八畳の部屋が二つもあって、なんとお風呂までついていた。これで時間も他人も気にせずゆっくり湯船に浸かれるのだと思うと、感慨深い。以前まではシャワーか、清掃の入る直前、お客さんがいない深夜の時間帯に大浴場に急いで入らせてもらうかの二択だったから。旅館の大浴場に比べれば少しどころかずっと狭いけれど、焦ったり、急ぐ必要がないのは有り難かった。
 ぼくは八畳の部屋のうちの南向きに窓がついている明るい部屋を与えられた。畳に染みはついていたし、壁はところどころへこんでいたりしたけれど、ぼくの城だと思うと嬉しかった。旅館の従業員さんたちと離れることになってしまったのは寂しいけれど、一時の高揚感はぼくを慰めるのに充分だった。
 お洒落な部屋にしよう、中学生のぼくはそう決める。彼女ができたときに、ぼくの部屋を見て驚かれるくらいにかっこいい部屋にするんだ。ぼくはクラスで一番美人の瀬田さんから物静かな安西さんまでの一人ひとりを彼女として妄想して、それぞれの反応を楽しんだ。ぼくくらいの年ごろの男子ならみんなしてる妄想だと思うから、これくらいは許してほしい。








 店舗を整えて、メニューを考えて、やがて食堂花村がオープンする日がやってくる。
 旅館から大きな胡蝶蘭をもらった。お母ちゃんはそれをレジの脇に飾った。アルバイトを雇える余裕はないだろうから、当分はぼくが手伝うことになる。お母ちゃんはテスト前だけはいいから、とぼくに言っていたけれど、それを理由に手伝いを断ることもないだろうとぼくは思った。
 だってお母ちゃんのお店だ。繁盛するに決まっている。テスト前だけといってもぼくが抜けたら、きっと回らなくなってしまうだろうし、それになにより、正直なところ、テストの点数が悪くてもこれで言い訳がつくと思った。ぼくは勉強ができないのだった。
 実際、お母ちゃんの店は流行った。旅館にわざわざ泊まることのなかった地元の住民たちが、お母ちゃんの料理を手軽に食べることができるといって長蛇の列を作った。
 遠方からのお客さんが、「昔、あの旅館に泊まったことがあるんです。そのときの料理が忘れられなくて」と興奮気味に伝えてくれる。お母ちゃんはそれを嬉しそうに聞く。
 少し意外なことだったのだけれど、オープンから数日が経っても、川越輝夫はやってくることはなかった。勿論、ぼくが学校に行っている間に訪れたという可能性も否めない。だけど学校から帰ってきたぼくを迎えるお母ちゃんはいつものお母ちゃんで、ぼくはその可能性を丸めて捨てた。








 アルバイトは、結局一人だけ雇うことにした。高校を中退したという北沢くんという男の子だ。あまり覇気がないぼんやりとした男の子だったけれど、遅刻もしないし注文を取り違えたりレジのお金が合わないなんてこともなかった。学校に行っていないおかげで平日の昼間も働ける彼を、お母ちゃんはすっかり信頼した。ぼくはおかげで負担が減ったけれど、なんだか面白くない。



「息子が増えたみたいだねえ」



 なんて、本当の息子のぼくの前で言うセリフだろうか? その頃のぼくにとっての敵は、川越輝夫ではなく北沢くんだった。
 束の間の、平和な日々だった。








 お母ちゃんが体調を崩すことが多くなったのは、お店がオープンして一年と少しが経ったころだった。ぼくは高校生になっていた。
 体が痛い、みぞおち付近が気持ち悪い、眩暈がする、お母ちゃんの訴える症状は日によってさまざまで、町医者は「過労とストレス」だと言った。ぼくはお店を休もうと何度も言うけれど、お母ちゃんは無理をして厨房に立つ。笑顔で接客して、お客さんがいなくなったあとは項垂れるように椅子に座っている。北沢くんも心配そうだった。
 決定的だったのは、調理中にお母ちゃんが倒れたことだ。酷い音がした。お客さんもざわついた。そのとき席は埋まっていて、注文した料理が出来上がっていないテーブルは一つだけだった。野菜炒めと、麻婆豆腐、簡単なメニューだったのは幸いだった。
 北沢くんが、お母ちゃんを担いで二階に行く。その間にぼくは心配してくれるお客さんに会釈をしながら、フライパンを持った。料理だったら、お母ちゃんの見様見真似で何度か作ったことがある、レシピだってすぐ浮かぶ。早くお客さんに料理を出さなければと、そればかりを考えていた。無我夢中だった。
 戻ってきた北沢くんがぼくの作った皿をお客さんに出す。常連のおじさんだった。お客さんの様子を厨房からこっそり窺っていると、おじさんは一口食べて手を止めた。あ、やばい、やっぱり味が違ったかな、そう思ったけれど、次の瞬間おじさんは目を見開いた。



「なんだぁ? やるじゃねえか坊主! いつものお母さんの料理と遜色ねえか、それ以上だぞ!」



 こちらに向かって、おじさんは声をかけてくれた。ぼくが作ったことに気づかれていたのは恥ずかしかったけれど、それ以上に嬉しかった。お世辞だったとしても、それでもよかった。足の裏からじわじわと熱が込みあげてくるみたいだった。
 ああ、ほんとうだお母ちゃん、と、ぼくは思う。人に喜ばれるのって、とっても嬉しいことなんだね、自分の作った料理で人が笑顔になるのって、すごく誇らしいことなんだ。
 三十分だけ休んで、お母ちゃんは戻ってきた。どうにかなってるよ、と笑ってみせると、お母ちゃんは少し、泣き出しそうな顔で笑った。








 その日から、ぼくはお母ちゃんの監督のもと、調理を手伝うことになる。下ごしらえも仕上げも盛り付けも、教わればもっと上手く、手際よく行うことができた。筋がいいねとお母ちゃんが言った。その顔は青白かったけれど、穏やかだった。
 もっとお母ちゃんに楽をさせてあげなくちゃ。ぼくはそう思った。食堂花村は相変わらず繁盛していて、北沢くんも一生懸命働いてくれている、声も大きくなって、最近ではお客さんの女の子から連絡先を聞かれてたじろいでいた。その姿を見てぼくも厨房から出てにこやかに彼女に挨拶したけれど、女の子は会釈をしただけで帰ってしまった。……どうしてそうなるんだろう。



「輝々くんの挨拶は少し個性的だから」



 と北沢くんはフォローするけれど、理解できない。ぼくはただ明るく紳士的に「やあ、ぼくの料理は美味しかったかな? 良かったらこの後、ぼくのスペシャルメニューも食べていかないかい?」と声をかけただけだって言うのにさ。……まあ、言外に含みを持たせたのは否定しないけれど。だけど、こういうのも控えた方が良いか。
 ぼくは、お母ちゃんを安心させたい。一人前になったという姿を見せたい。三年生になれば、調理師免許だって取得できる。資格を取得するのに必要な二年間の実務経験はこの店で得たから、あとは時期を待てばいいだけだ。そうして早く結婚して、子供を作って、この店を継いで、お母ちゃんがもっと安心してゆっくり休めるようにするのだ。
 お母ちゃんはその頃数日に一回は寝込むようになっていたけれど、ぼくも北沢くんもお客さんも、お母ちゃん自身も、それに慣れていた。もっと大きな病院に行ってみたらという言葉は、数年前に拒否されて以来だれも口にしない。勿論心配はする。ふらつくようならすぐに休んでもらっていたし、今のぼくは北沢くんがいればお母ちゃんがいなくても店を回すことができる。
 病とお母ちゃん、旅館にいたころは結ばれることのなかったその線は、今やがんじがらめになって離れない。そんな状態に、慣れてしまった。慣れていいはずがなかったのに、ぼくたちは、見ないふりをしていた。








 ある日のことだった。スーツを着た、少しお洒落な雰囲気のする見慣れないおじさんがやってきた。その日はお母ちゃんが寝込んでいる日で、ぼくがフライパンを持って注文された品を作っていた。
 おじさんは一人だというのに、いくつか料理を注文した。よほどお腹が空いていたのか、あっという間に平らげて、感動したというような顔つきでぼくに名刺を渡した。「希望ヶ峰学園」と書いてあった。希望ヶ峰学園って、あの希望ヶ峰学園のことだろうか。まさか。と思いつつも、おじさんはぼくに鞄から出した資料を差し出す。



「きみはまだ高校生だろう? もし良かったら次の春からうちに転学しないか? きみの才能は、素晴らしいよ」



 また来るから、そう言って帰っていったおじさんの話をお母ちゃんにすると、お母ちゃんの顔つきが変わった。お母ちゃんは布団から起き上がって、ぼくの肩を抱いた。やわらかなお母ちゃんの脂肪がぼくの体に触れる。



「すごい、すごいよ輝々、希望ヶ峰学園って、あの希望ヶ峰学園だろう?」



 あたたかいお母ちゃんの体の奥から、どくどくと心臓が脈打つ音が聞こえた。ぼくは、うん、と頷く、お母ちゃんが喜んでくれている。こんなに嬉しいことって、あるだろうか。
 母一人、子一人、ぼくたちはそうして生きていた、そんなお母ちゃんがぼくを誇りに思って、抱きしめてくれる。



「お母ちゃんのおかげだよ」



 ぼくは言う。陽がすっかり落ちてしまった秋の夜、部屋に入り込んだ鈴虫が、姿のないまますぐ傍で鳴いている。



「でも、お母ちゃん、ぼくがいなくなったら、店は困るでしょ? 」

「何を言ってるの、大丈夫だよ。北沢くんだっているし、お母ちゃんだってまだまだ働ける」

「うん、でも……」

「輝々、あんたは、あんたのことだけを考えて。希望ヶ峰学園に行けば、あんたの将来は約束されるんだよ」



 お母ちゃんは、ぼくに説くように言った、その手に力がこめられる。ぼくはだから、次の言葉を聞かなかったことにしたかった。このまま二人でいたかった。差し込まないでほしかった。



「あのひとも、きっと喜ぶ」



 呟かれたその言葉に、ぼくがそのとき、ほんとうは打ちのめされたのだと言ったら、お母ちゃんは信じてくれるだろうか。








 だけどお母ちゃん、ねえ、お母ちゃんあの人はさあ、ぼくの「父親」は、あれから一度だってぼくを訪ねてはこないだろう。養育費を置いて、消えてしまっただろう。あんなに何度もお母ちゃんの前に現れたあの人は、もう、どこにもいやしないじゃないか。いつか見た、美しい女性と利発そうな二人の兄妹の元に、彼は帰って、きっともう二度と現れない。なのに、どうしてあいつがぼくのことを誇りに思って喜べるんだよ。あいつにそんな権利はない。だってぼくは、あいつを父親だと思ったことなんて一度もないのだ。
 ああ、だけど、ちがうな、一度だけ、一度だけあった、ぼくはお母ちゃんの柔らかな腕の中で、それを認めてしまう。あのひとが、美しい家族たちを置き去りにしてぼくの前に跪いたその瞬間、ぼくの手を握った瞬間、彼が静かに泣いた瞬間、ぼくの名前を呼んだ、あの瞬間。
 まざまざと蘇る。ぼくはあの日の自分に戻る。あのときあの人は、川越輝夫は、あの一瞬だけは、間違いなく、ぼくの父親だった。
 ぼくはそれを、思い出した。


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