川越輝夫は、改めてボクと個人的に話がしたいと言った。家族の手前、それ以上ボクの傍にいるわけにはいかなかったのだろう。今頃厨房で働いているお母ちゃんのことを思い、躊躇う。話をしたいという気持ちがないわけではなかった。
ぼくの逡巡に彼は気付くこともなく、「二時間後に、ロビーの……そうだな、あそこの席で待っていてくれないかな」と柱の影の席を指差した。あそこはお客さんが通る場所からは死角になっていて、人目にはつきにくい。万が一あの家族たちに見つかることがないようにと計ったのかは、ぼくにはわからないけれど、彼がそこを指定したのは、彼自身がこの旅館に何度も足を運んでくれているからこそできたことだった。
ぼくの手に触れる骨ばった大人の男の手の感触を名残惜しく思っていたことも事実だけれど、ぼくは結局返事もしないまま、それを振り払って逃げた。彼は追ってこなかった。ぼくの名前を呼ぶこともなかったことは、少し拍子抜けしたけれど。
だけどぼくは怖かった。怖かったのだ。ぼくに全く似ていない男も、その彼を見つめる美しい女も、退屈そうに座っている兄妹たちも。それらはすべて、ぼくを取り囲む壁のように思えてならなかった。
ぼくは、今の生活を気に入っている。川越輝夫自身が本当にお母ちゃんを気にかけているだけで、例えそこに下心はないのだと印籠のように現在の家族を見せられたとしても、十余年間存在しないと思っていたぼくの父親の座に、彼がついていいはずがないと思った。
結局ぼくは川越輝夫のところには行かなかった。彼の方に話すことがあったとしても、ぼくにはない。僅かに乱れた自身の心に、そう言い聞かせる。今の生活をかき乱されたくはなかったし、下手に話したことで情が湧くのはもっと嫌だった。
お母ちゃんはぼくが川越輝夫と対面したことを知っているのか、そうでないのか、夜遅くに厨房の片づけを終えて帰ってきた。その顔に浮かんでいるのは、いつもの心地良い疲労だけではないような気がした。勿論、ぼくの思い込みだったのかもしれないけれど。
川越輝夫は旅館にとって上客だった。季節が変わるたびに彼は訪れる。彼が連れてくる仕事上の関係者も、多くがこの旅館を、ひいてはお母ちゃんの料理を気に入ってリピーターになった。ブームが落ち着いて、以前ほどの千客万来とまではいかずとも、今も旅館が繁盛しているのは多かれ少なかれ川越輝夫のおかげであったと言ってもいいのかもしれない。
ある日、お母ちゃんに呼ばれた。ぼくが川越輝夫との対面を果たしてから、二カ月が経っただろうかと言う頃だった。「あのね、輝々」お母ちゃんは部屋の中央で膝を揃えて、ぼくを見つめる。
「お母ちゃん、この旅館をやめようと思うの」
それは、ぼくへの相談ではなく、報告だった。
思う、などというまだ柔らかい言葉を選んではいたけれど、その点に関してはぼくの意思なんて関係しないと言わんばかりの、覚悟を決めたような色をその瞳に浮かべていた。
お母ちゃんが、旅館をやめる。
「やめる」
ぼくは口の中で、お母ちゃんの言葉を繰り返す。そうしたことで、固かった脳にじわりと浸透していった。お母ちゃんの手の甲は、荒れて赤い。
「……やめて、どうするの」
過ったのは、川越輝夫の存在だ。あいつの愛人にでもなるの。浮かんだ思いを言葉にすることは、できなかった。だけど、お母ちゃんは笑う。それは母の顔でも女の顔でもなく、花村輝美という人間が浮かべた表情のように、ぼくは思った。
「お店を開こうと思う。ほら、あんたが通ってた小学校の先に、前ラーメン屋さんがあったでしょう。あの店舗をそのまま借りて、二階を住むところにしようと思ってるんだ」
「え、え、いつ? いつから?」
「これから工事をお願いすることになるから、早くても二カ月後かな。他にもいろいろ準備しなくちゃならないこともあるし、その前にはここを辞めることにはなるけど」
そんな、と言ってしまいそうになるのを、飲み込む。自分の店を持つ、ってことは、聞いたことがないわけではなかった。お母ちゃんがたまに聞かせてくれる、夢物語だったから。
お母ちゃんは小さな定食屋を作って、そこでお客さんに自分の料理を食べてもらいたいって。旅館の厨房じゃなくて、もっとお客さんの近くでその表情を見たいって。そうぼくに言っていた。絶対いつか叶えてみせるからね、と。
だけど同時に、お母ちゃんはぼくに大学に行ってほしがっていた。勉強は好きではないのに、ぼくのためだからと、絶対将来の糧になるからと、お母ちゃんはぼくを当たり前のように進学させようとしている。それらふたつの夢が、お母ちゃんのもらう賃金からは叶うするはずがないことを、ぼくもお母ちゃんも知っていた。口では夢だといいながら、お母ちゃんは、最初から自分の夢をあきらめようとしていたのだった。
ぼくの表情から、お母ちゃんはぼくの思考を読みとってしまったらしい。
「お金のことは心配いらないよ。あんたが大学に行くための学費だってちゃんと取ってある。ただお店のことは輝々にも手伝ってもらわなきゃいけないかもしれないけれど……」
「そ、そんなことはどうだっていいよ! どういうこと? 学費も店の資金もなんて、そんなの」
そこでぼくは気が付いた。あの男の影が脳裏をちらつく。言葉に詰まったぼくの代わりに、お母ちゃんは薄く微笑んだ。
「……養育費をね、もらったんだ」
誰に、とは、聞くまでもない。ぼくは何も言えない。目を見開いて、畳に根っこが生えてしまったように、動けずにいる。
「あんたは、川越輝夫さんのことをもう知っているね」
見透かすような顔で、お母ちゃんはぼくを見つめていた。輝夫さんと、いとおしいものを呼ぶように、言った。
山奥にあるこの旅館は、お客さんたちが宿泊する部屋からは木々が見渡せる。秋は紅葉するし、冬は雪で覆われて、オレンジ色の柔らかな電灯がそこに色のついた影を落とす。斜面に沿う形で流れる川から、ざざ、ざざ、と、潮騒に似た音が微かに聞こえる。この前、国語の授業で初めてやった古典で習った。あれをきっと趣深い、というのだろう。
ぼくたちの部屋は厨房のすぐ隣で、元は休憩所として使われていた粗末なものだった。八畳の部屋。トイレと小さなキッチンと簡易シャワーがついていて、北向きの窓からはほとんど日が入らない。窓を開ければ旅館の裏で、いつも旅館の所有する小型バスや荷物を運ぶトラックが駐車されている。排気音のせいで、川のせせらぎなどこの部屋にまで届かない。廊下の方からはいつだって行き交う人の声がするし、どうしても忙しいときは罵声は飛び交うし食器はよく割れるし騒がしい。ぼくだって最近は学校が休みの日には手伝わされているから、面倒だと思う時もある。
だけど、ぼくは、この旅館が好きだ。働く人はみんな優しいし、可愛がってくれる、気にかけてくれる。ありがとう助かるよ。その言葉を聴くと胸の内側が熱を持った。それは、ぬるま湯に浸かるような居心地の良さだった。その堤防を壊したのが、川越輝夫だというのか。
「輝夫さんは、あんたの父親だよ」
体の中心に、風穴を開けられたようだった。
覚悟していたのに、分かっていたはずだったのに、それはお母ちゃんの口から聞かされると、酷い重みを持ってぼくの頭蓋を揺さぶった。川越輝夫。花村輝美。二人の子供のぼく。二人の間にかつて何があったのか。お母ちゃんは語る。
お母ちゃんは孤児だった。物心ついたときから、孤児院にいたらしかった。
お母ちゃんがいた孤児院には様々な子供たちがいたという。親に育児放棄を受けたもの、虐待されたもの、お母ちゃんのように、親が死んだもの。家族の存在は、孤児院の中で多少の優越感を育む。例え殴られようと蹴られようと、たまの外出で産みの親に会うことのできる仲間たちは、お母ちゃんを蔑み憐れんだ。
あの子よりはマシ。だって誰も会いに来てくれないから。仲間にそう言われていようと、お母ちゃんは笑う。一人じゃなかったから、寂しくなかった。同じ境遇の男の子が、自分の隣にいてくれたから。それが彼だった。
「てるおと、てるみ」
「一つちがう、惜しいね」
「いや、でもぼくは男できみは女の子だから、これ以上名前が似ちゃったらちょっと変じゃない?」
「あは、ほんとうだね」
輝夫さんは父母を同じ病で失って、小学生に入るころに施設にやってきた。孤立していたお母ちゃんのことを気にかけてくれて、二人は良く遊んだ。他の子供たちと違って、柔らかな表情を浮かべる子供だった。
「お~い、てるてる~!」
ある日二人で部屋の隅で遊んでいると、上級生からそう声をかけられたと言う。二人の名前を呼ぶのが面倒で、まとめてしまったらしいけれど、それはすっかり施設の中で定着してしまった。二人は職員からも、仲間からも「てるてる」と呼ばれるようになった。 さすがに部屋割りは違ったけれど、割り当てられる掃除当番はいつも一緒だった。二人はその呼び名をとても気に入っていた。
けれどそれも長くは続かない。海外で働いていた輝夫さんの親戚が、日本に戻ってくることになったからだ。果たして、輝夫さんは引き取られることになる。
二人は指切りをする。大人になったらまた会おう。手紙を出すから、ずっと出すから、忘れないで。その約束通り、お母ちゃんは毎月輝夫さんに手紙を出した。中学生になっても、高校生になっても、施設を出た後も、働き始めた後も、稼いだお金で調理師の学校に通っていたころも、お母ちゃんは輝夫さんからの手紙を大切に読んで、抱いて寝た。そして、二人は再会する。
お母ちゃんはお金がなくて、何度洗っても染みのとれないパンツと、よれたパーカーを着ていた。恥ずかしくて、本当は何度も会えないと断っていたのに、輝夫さんは食い下がった。約束を忘れてしまったの? 大人になったら会おうって言ったじゃない。そう言われると、お母ちゃんは受け入れざるを得なかった。だけど覚悟しておいてね。私は丸っこいし、可愛くない。きれいな格好もしていないし、一緒に歩いて恥ずかしい思いをするのはあなたよ。携帯電話を持っていなかった母は、花柄の便せんにそうしたためる。数日後届いた封筒を、そこに書かれた輝夫さんの言葉を、お母ちゃんは今も大事に取っている。
きみがいくら自分を卑下しても、ぼくにとってきみは素晴らしい女性だよ。
十五年以上を経て再会した輝夫さんは、立派な好青年になっていた。背が高く、目鼻立ちはくっきりとしていた。一緒に歩いているだけで多くの女性に振り向かれた。視線が自分にも向けられる度、お母ちゃんは、消えてしまいたいと思った。
街を歩いて、通りかかる度に憧れたカフェに入って二人でケーキを食べた。お金を準備していたのに、輝夫さんは決して財布を出させようとしなかった。「ぼくが無理を言って会ってもらったのだから、払わせてほしいな」そう言う輝夫さんに、お母ちゃんも無理強いはしなかった。
それからも、二人は何度も時間を合わせて、会う約束をする。ときには図書館に行き、公園を歩き、お母ちゃんが作ったお弁当を広げる。輝夫さんはその料理に感激して、お母ちゃんはそれに照れる。こんな日を夢見ていた。夢見ていたからこそ、お母ちゃんはこの日々が長く続かないことを覚悟していた。
お母ちゃんは輝夫さんが好きだった。輝夫さんも同じ思いを抱いていた。けれど現実は残酷だ。輝夫さんを引き取った親戚は、後に会社を設立していた。海外から輸入した様々なフルーツを使ったお菓子を販売する会社だった。業績は好調で、優秀な輝夫さんはゆくゆくは会社を継ぐことになるのだろうとお母ちゃんは思っていたし、実際その通りだった。
輝夫さんは大学に通っている。会社の手伝いもしていると言う。自慢でも何でもない近況報告に、お母ちゃんの砂の城のように脆い自尊心はじりじりと削り取られていく。孤児の自分が付き合っていい相手ではない。そもそも、自分は見た目からして彼に釣り合っていないのだ。
道行く人々の視線が突き刺さる、小声で耳打ちされ、笑われる。
「不細工好きなのかな? アレで良いなら私でもいけるんじゃない?」
「いや、デブ専かもよ。うちらじゃ体重足りないって」
幻聴だったのかそうでないのか、お母ちゃんには判断がつかない。
その頃お母ちゃんは調理師の学校を卒業したばかりだった。調理師の資格を生かした仕事がしたい。例え最後にはお別れすることになろうとも、今だけは胸を張って輝夫さんの隣に立てる自分でありたい。そのために働くのだ。そう思っていたのに、前向きになろうと決めたのに、お母ちゃんのお腹にぼくはいた。
輝夫さんには何度相談しようとしたか知れない。けれど、向かい合って座る輝夫さんはいつも穏やかで、優しくて、卒論が厳しいのだと目にくまを作って、新商品のアイデアが思いつかないと唸っていた。
忙しい人だった。安いファミレスの賑やかさが、そのときばかりは煩わしかった。後悔していた。あちこちから漂ってくる食べ物のかおりを、こんなに苦しく思うことは初めてだった。十三週。つわりは重い。
「あっれ、テルくんじゃん」
そのときだった。女の人が、輝夫さんに声をかけたのは。
女性ばかりの集団だった。気圧されそうなほどに、美しい人たちだった。明るい色に染められた髪はきれいに巻かれて、自分が触れたこともないような素材の服を纏っていた。よく似合った化粧をしていた女性たち。自分が一生関わることのない生き物だと思っていた。
お母ちゃんは吐き気に耐えながら、テルくんと呼ばれた輝夫さんが親しげに挨拶をしている横顔を見る。ふと、そのとき、彼が酷く幼い顔をしていることに気が付いた。自分と向き合っているときは大人びていて、しっかりとしている彼は、彼女たちと気さくに話す、二十歳そこそこの青年に戻る。
「え、なに、この子が噂の彼女?」
噂の。それは一体どんな噂なのか、聞くまでもなかった。
輝夫さんは照れたような笑みを浮かべて頷いている。初めに彼に声をかけた女性が、薄ら笑いを浮かべながらお母ちゃんの姿を無遠慮に眺めた。皺のとれないスカート、古着の黄ばんだブラウス。とっておきの一張羅が、今ばかりは裸でいるよりも恥ずかしい。
消えてしまいたい、もう慣れたはずの視線に、けれどお母ちゃんは思った。だけど消えたら、今お腹で生きているこの子まで消えてしまう。そう気が付いたら、一度はひいたはずの吐き気が再びこみあげてきて、お母ちゃんは挨拶もそこそこにその場を去った。
店内のトイレで吐こうかと思ったけれど、丁度他のお客さんが入っていくところを見たため、店を出た。お母ちゃんは駐車場の隅っこで吐いた。お腹に手を触れても膨らみはなかった。胎動なんか勿論なかった。ただ吐き気だけが、ぼくの存在を主張していた。
輝夫さんには将来がある。これからの人生がある。一緒に生きたいけれど、だけど、そんなのは私の我儘なのかもしれない。私の存在は、輝夫さんの価値を下げてしまうのだ。お母ちゃんはそう思った。
とめどない吐き気に背中を撫でてほしかったけれど、輝夫さんが店から出てくることはなかった。もしもこのときに輝夫さんがお母ちゃんを追いかけていたら、駐車場の片隅で吐くお母ちゃんを見つけていたら、もしかしたら、未来は変わっていたのかもしれない。
輝夫さんは、まだ子供だった。無数の未来があるのだと思った。大学の友達も、仕事も結婚も、彼には選択する権利がある。過去の一点で交わっただけの自分が決めて良いものではないと、お母ちゃんは思った。
そしてお母ちゃんは輝夫さんとの連絡を絶ったのだった。
輝夫さんはその後、連絡のつかないお母ちゃんを心配して何度も家までやってきた。居留守もなかなか骨が折れた。
隣に住むひとに協力してもらって、引っ越したと嘘を吐いてもらうと、輝夫さんは来なくなった。手紙もやんだ。お母ちゃんはぼくと二人きりになった。これでいいのだと思った。
やがて行政の支援を受けてぼくを産んだお母ちゃんは、乳飲み子のぼくを背負ってあの温泉街を訪れる。
「私は輝美。あの人は輝夫。ふたりのこども、あなたは輝々」
そのあたたかく柔らかい背で、お母ちゃんの歌う奇妙な子守唄を、赤子のぼくはぼんやりと聴いている。