ぼくは片親の子だ。






花村輝々の場合




 物心ついたときから当たり前のように、ぼくにはお母ちゃんしか居なかった。母一人、子一人。それがぼくの「普通」で、日常。父親がいなくて寂しい思いをしたことは、ぼくはない。
 お母ちゃんはとても優しい人だったけど、ぼくが悪戯をすると鬼のように表情を変えて怒った。普段の柔和なお母ちゃんの表情からは想像がつかないくらいに、怒り狂うのだった。
 それは今思えば、お母ちゃん自身が、ぼくを片親の子にしてしまったことに罪悪感を抱えていたからなのかもしれない。存在しない父親の空白を埋めるように、お母ちゃんは母にも父にもなった。強いひとだった。
 お母ちゃんは、まだ幼いぼくを育てるためにとある旅館に住み込みで働いた。必然、ぼくの「家」といったらそこだった。古く、大きな旅館だったけれど、手入れの行き届いていないせいかどことなく薄暗く、だだっ広いだけの人気のないものだった。でも、嫌いなわけじゃなかったのだ。ぼくはそこの厨房で働くお母ちゃんを誇りに思っていたから。いつもくたくたになって帰ってくるお母ちゃんは、それでも楽しそうに、きらきらしていた。
 お母ちゃんの料理はおいしい。ほっぺたどころか、いろんなものが落ちちゃうくらいに美味しい。旅館にやってきた人が、恐らく、料理になんて期待していなかったせいもあるのだろうけれど、誰もかれも食事を終える頃にはしあわせそうな顔になる。たまにお客さんの前までお母ちゃんは呼び出される。褒められて、感激されて、そういう日は、お母ちゃんはぼくに報告してくれる。とってもおいしかったよって言ってもらえたんだよ、ああ、お母ちゃんは幸せだ、って笑うお母ちゃんを見て、ぼくも嬉しくなる。
 お母ちゃんの料理のおかげだったのだろう。北の寂れた温泉街の片隅にある小さな旅館は、客足が絶えなくなった。ひっそりとして薄暗かったその旅館だけでなく、死にかけていた街全体すらも明るくなった。お母ちゃんの料理には、それだけの力があった。
 やがてお母ちゃんは料理長になった。それは子供の頃のぼくにとって、とても誇らしいことだった。
 ぼくは片親だったけれど、辛い思いなんて一度もしたことはなかった。からかわれても馬鹿にされても、父の日の似顔絵に書く相手が、祖父ですら存在しなくても、お母ちゃんの顔を大きく描いた。父親の役割を担う鬼のお母ちゃんではなく、料理を作っているときの、幸福そうなお母ちゃんの笑顔を描いた。ぼくは何もさびしくなかった。








 ぼくがもうすぐ小学校を卒業しようという頃だった。その人は、前触れもなくやってきた。
 その頃温泉街は既に活気を取り戻していた。テレビや雑誌、インターネットの口コミが新しいお客さんを呼び寄せる。お母ちゃんの料理のおかげというのも勿論あったけれど、元々温泉としての質も悪くはなかった。街のあちこちには足湯スポットがあり、女性が好みそうな縁結びの神社もあった、薄い皮で餡のたっぷり詰まったおまんじゅうは名産で、飛ぶように売れた。
 一度だけ、お母ちゃんがテレビの取材を受けたことがある。『花村輝美さん。働く女性、成功の秘訣』そう題された特集は、夕方のニュースの合間に五分だけ放映された。お母ちゃんはその中でいつものように笑っていた。



「お客さんの笑顔が私の糧になるんです」



 昔よりもいくらか太ったお母ちゃんは、テレビに映ると言うのに化粧の一つもせず、いつも通り髪をひっつめて目を細めた。だけどそのお母ちゃんは、どんな人よりもずっと美しかった。幸福なひとはうつくしい。お母ちゃんは幸福で、お母ちゃんのつくった料理を食べる人は幸福になる。お母ちゃんは幸福の伝道師だった。
 その放送を見て、さらに客足が増える。あのテレビに出ていた料理長さんと話がしたい。そう言われるのは一度や二度ではなく、その日もお母ちゃんはあるお客さんに呼び出されていた。すべての料理を作り終え、手が空いた頃を見計らい、お母ちゃんは食事のための広間の、指定された席へ向かう。「輝美さんと話をしたいというお客さんが今日もいらっしゃるよ」その言葉に、いつも通りに微笑んで。
 そこに彼はいた。








 ぼくは片親の子だ。
 周囲の子供たちが母親と父親に手を繋がれ、宙ぶらりんになって遊ぶ姿を後ろから眺めていた。ぼくには繋いでもらう手は一本しかなかった。羨ましいだなんて思わなかった。ただ、たのしそうだな、とおもっただけだ。ぼくはお母ちゃんがいればそれでよかったし、父親が欲しいだなんて思ったことは一度もなかった。
 お母ちゃんの手はあかぎれだらけで、夜眠る前に欠かさずクリームを塗るその背中を見るのが、ぼくの一日の最後の日課だった。けれどその日、お母ちゃんはなかなか部屋に帰ってこなかった。眠くなってしまって、布団を二つ敷いて、電気をつけたまま潜り込む。ぼくらに宛がわれた、厨房のすぐそばの部屋は、深夜だろうが早朝だろうが食器のぶつかる音や、調理の音、食材を運び込む車の音に包まれる。ぼくはそれを子守唄代わりにして眠る。
 お母ちゃんがその日、一体いつ帰ってきたのか、ぼくは知る由もなかった。
 次の日目を覚ましたら、お母ちゃんはもう仕込みに行っていた。学校に行くための準備を整えて、朝食を貰うために厨房へ向かおうとすると、ゴミ箱の中に小さな紙屑が入っていることに気が付いた。ぐしゃぐしゃになって丸められたそれは、昨夜まではなかったものだ。何となく気になって、取り出した。皺を伸ばしてみると、それは名刺だった。



「川越輝夫」



 ここ数年で売上を伸ばしつつある菓子メーカーの会社の、取締役。記された肩書きを見て首を傾げる。一体なんでこんなものが部屋のゴミ箱に入っているのだろう。お母ちゃんが名刺をもらった経緯は推測することができるけれど、人からもらったものを捨てることを嫌うお母ちゃんがわざわざ丸めて捨てる姿を想像することは難かった。
 ただ「輝」の字を見て、ぼくたちの名前と同じ漢字だな、と思った。








 川越輝夫なる人物は、その後度々この旅館を訪れる。
 時に仕事の上客を連れて、時に一人で、お母ちゃんの元を訪れる。そういう日は、ぼくは何となくわかるようになった。お母ちゃんの様子がどこかおかしいのだ。どこが、とは明確に指摘することはできないけれど。少し挙動不審になる。
 今思い返してみると、ひょっとしたらお母ちゃんは嬉しかったのかもしれない。男っ気の一切なかったお母ちゃんは、少しだけきれいになった。中学生になったぼくは、お母ちゃんが恋をしているかもしれないと思って、焦った。少しだけ、苛立った。



「今更再婚とかしないよね」



 ある日、聞いてしまった。ぼくは自他ともに認めるマザコンで、それはお母ちゃんへの独占欲を丸出しにした恥ずべき言葉だったのだけれど、お母ちゃんは首を振った。「輝々が何を勘違いしているのかは知らないけれど」やわらかな、母の声だった。



「輝夫さんはね、もう奥さんもお子さんもいるの。だからお母ちゃんのことは、ただ気にかけてくれるだけなのよ」



 輝夫さんと、そう呼ぶ母の声を聴いて、ぼくは思い当たった。



 花村輝美。川越輝夫。花村輝々。
 あれはぼくの父親なのではないか。
 だけどお母ちゃんはそのまま背中を向けた。数年前よりも厚みを増した体から、幸福の香りが薄れている。








 次に川越輝夫が旅館にやってきたとき、ぼくは偶々彼を見かけた。
 いや、正直に言うと、偶然ではない。パソコンを盗み見て、予約票の中から彼の名前を探したのだ。数カ月後の予約まで埋められたその中から名前を探しだすのは骨が折れた。
 冬の寒さも衰えた春だった。果たして彼はやってきた。お母ちゃんの言うとおり、家族を連れて、旅館を訪れた。
 きれいな顔立ちをした男だった。顔の皺から、もう四十は過ぎているだろうと思われたけれど、背が高く筋肉質で精悍な男だった。だから、ぼくの父親だというその推測は、彼を見た瞬間急激に萎んでしまった。だってぼくはお母ちゃんにうり二つなのだ。背が小さくて、目も鼻も、いやもろもろのパーツが等しく丸い。こんな男性の血が入っているわけがない。
 事実、彼が連れている奥さんも、お母ちゃんとは似ても似つかぬほど美しかった。モデルのように背が高く、目鼻立ちははっきりとしていて服装も洗練されている。こんな片田舎の古びた旅館でも、眉を顰めることもしない彼女には男として好感を持つほかない。小学生と思しき二人の兄妹も、騒ぐこともなく落ち着いていた。美男美女だ。あんな子供はうちの学校にはいない。姿勢がよくて、利発そうで、だけど母親に似たのか顔立ちが派手で気が強そうだった。もしも本当に万が一にもぼくが彼らと異母兄弟だっていうんなら、遺伝子の神様を恨むしかない。
 そう思っていたのに、柱の影から様子を窺っていたぼくを、川越輝夫は目ざとく発見した。家族を置き去りにして、ぼくのところへ駆けだしてきたその男性を見て、ぼくは、あれ、と、おもう。
 体がざわざわした。お母ちゃんを惑わす男をぼくは憎んでいた。だけど、あれ、と思うのだ。美しい家族を置いて、駆け寄って、ぼくの丸い両手を掴んだこのひとは、やっぱり、
 やっぱりぼくの父親なんじゃないか?



「……輝々、くん?」



 川越輝夫の声が掠れていた。目が赤くなっていた。彼はゆっくりと頷いたぼくに一粒だけ涙を流して、ぼくの目線にあうように、上等なパンツが汚れるのも構わず跪いた。
 川越輝夫はぼくの手を撫でて泣く。静かに泣く。ぼくは、大の大人の、男の人が泣く姿を、生まれて初めて見た。このひとは、きっと目ざとくぼくを見つけたのではない。ましてや、偶然なんかではなかった。このひとはきっと、ずっとぼくをさがしていた。その事実は、乾いていたはずの胸を確かに締め付けたのだった。
 遠く離れたその背後で、美しい兄妹たちがどこか困惑したようにぼくたちを見つめている。彼らの母親は、毅然としていた。どこか冷めた目でぼくたちを視界に据える彼女は、強く、美しかった。


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