あの時どうしていたら、最後の一歩を踏みとどまることができたのだろう。
が唇を噛みしめている。メモを取っていたはずの手は、もう随分前から止まっていた。何やってんだよ、って思うけど、口にはできない。そうするだけの余裕が、今のオレにはない。
「九頭龍組がなくなれば、オレたちは自由になれるはずだった」
動きっぱなしのレコーダーだけが、静かに時を刻み続けていた。
「――だからオレは九頭龍組を壊したんだ」
オレたち以外、誰もいない部屋だった。
いつもはにひっついている狛枝の野郎も、今はいない。人を払ってくれたらしい個室は、簡易的なテーブルと椅子しかなかった。カーテンまで閉め切られたせいで、昼間だと言うのに薄暗かった。その暗さはオレがプログラムに入る前に、七十八期のやつらから取り調べを受けた小部屋を思い起こさせた。あの日のことだけは、どこかぼやけている。
あの頃のように、もうオレの傍に、ペコが立つことはない。あいつは眠ったままだ。ただ、今も声だけが聴こえている。プログラムから目が覚めた時からずっと、穏やかな優しい声が、オレを責めない都合のいい声が、オレには聞こえていたはずだった。
「父親も母親も、組員も、誰も抵抗しねえんだ。最初は銃や刃物を向けられるんだけどさ、アイツら、オレだって気が付いたら、躊躇うんだよ。なんでだよ、坊ちゃんって、言うんだ、あいつみたいに、坊ちゃんって」
声が掠れる。向かいに座るのために顔をあげることも、もうできなかった。
洟をすする音がするけれど、本当に、は他人に感情移入しすぎだ。それとも、これが「普通」だというのか。オレたちが望んでも手に入れられなかった、「普通」だと。だったら、どうしたって得られるはずがなかった。プログラムの中でペコに手を伸ばしたの横顔が、拭っても消えない。
「最後に手をかけた父親が、お前がそれを選んだんなら仕方ねえなって、言ったんだよ。表情は、わからなかった、だけど、もうどうだってよかった、麻痺してたんだ。あの日オレは初めて人を殺した。もう考えない方が楽だった。ああ、こうやって人って死ぬんだなって。血まみれになって、痙攣して、最後には消える。ペコが味わってきた苦痛をオレは自分の家族たちを殺すことでやっと共有できた。これで解放されたって思った。これで九頭龍組はなくなった。ペコもオレも、菜摘だって自由だって」
あの日血の海の中に座り込むオレを、ペコは抱きしめた。なにかを言っているようだったけれど、くぐもってよく聞こえなかった。きっと感謝してくれているんだと思った。ありがとうございます坊ちゃん、これでわたしは、やっと、そう言っている。そう言っているにきまっている。だから答えた。
「気にするなペコ。これでやっと終わりだ」
自分でもぞっとするほど優しい声だった。まるで、江ノ島のもののようだった。
世界中が絶望に染まっていくのに時間はかからなかった。
あちこちで多発する強盗、殺人、街の隅に積みあがる死体の山に、オレのしでかしたことは埋もれてしまった。街中では犯罪が当然のように横行した。警察も最早機能しない。九頭龍組は壊滅して、完全な無法地帯だ。希望ヶ峰学園も閉鎖に追い込まれた以上、オレたちに行くあてはなかった。
オレとペコは、生き延びるために、あらゆる方法をとった。必要ならば盗みも殺しもした。
もうペコに殺させたくない、そう言いながらも、あの歪んだ世界ではきれいなまま生きていくことはできなかった。ペコにだけ殺させるわけにはいかなかったから、眠る男をオレが手をかけたこともあった。生きるためだった。オレとペコが、この腐った世界を生き延びて、いつか平和に、どこか、あたたかな島で、ふたりで平穏に生きるために。
だから、今オレたちが殴り殺した生き物の死は、必要な死だ。オレたちが肉を食うために動物を殺すのと何が変わらないというのだろう。事切れた肉が纏っていた衣類を剥ぎ取る。冬は寒いから、衣類は貴重だ、例え異臭を放っていたとしても。袖を引く物乞いを殺した。女を奪い合っていた男たちを殺した。季節は巡って雪が降る。オレの手のひらは白くなる。犯罪は正当化される。生きるために。
その頃のペコが一体どんな顔をしてオレの隣にいたか、オレは、知っている。知っていたからこそ、オレは認められなかった。認めたくなかったのだ。オレが解放してやったはずのペコが、ちっとも幸せそうじゃなかったことを。ペコの代わりに人を殺すオレに隠れて、ペコが路上に吐いていたことを。オレは正しいことをしたのに。ペコを救ったはずだったのに。ペコは苦しんでいる。その理由が分からない。
江ノ島だったら分かったのだろうか。何もかもを見ることができたのだろうか。
街中の液晶の中で、白黒のクマが耳障りな声をあげて笑う。江ノ島盾子。オレに真実を教えてくれた、人ならざる人。
やがてテレビ中継されていた七十八期生のコロシアイが、江ノ島盾子の死という形で幕を下ろす。江ノ島盾子の死体は、狂信者たちによって手厚く葬られることになるだろう。だけど、オレはその前に、どうしても手に入れたいものがあった。
ペコを適当に言いくるめて、一人で希望ヶ峰学園の旧校舎を訪れた。荒廃した世界の中で建物としての形を保ったそこは、つい数日前まで学生同士のコロシアイが行われていたとは到底思えなかった。
ここで、江ノ島が命を落とした。
既にその周辺には、モノクママスクをかぶった数十、数百の人間がうろついている。バットを持ち、刃物を持ち、銃を持ち、しかしそれぞれが嘆き悲しんでいる。江ノ島の名を呼び蹲る。何故中に入らないのだろう。不思議に思っているオレに、背後から声をかける女がいた。
「……あの中には、選ばれた人しか入れないんです」
振り向く前に、背後から抱きしめられた。柔らかな胸の感触が背中に伝わる。「うふふぅ」と、吐息交じりに吐き出される笑い声を、彼女が纏う独特な香りを、オレは知っていた。
「あの方に愛された人しか、おそばには行けないんですよお」
間延びした声、でも、以前よりもずっと芯があった。その声がオレの名前を呼ぶ。九頭龍さん。ただの級友と言うには随分と親しみのこもった声で。
「でもね、あなたのことは、あの方もとっても気に入っていらっしゃいましたから、特別です」
そう、噛みしめるように、彼女は言う。
「ようこそ九頭龍さん。あなたの欲しいもの、さしあげますねぇ」
罪木蜜柑は、包帯のまかれたその手で、オレの右の瞼をそっと撫でた。指の隙間の奥で罪木は、泣きはらしたような、深く沈んだ赤い目をしていた。彼女のそれのほうが、よほど江ノ島盾子のようだとぼんやり思った。
オレの右目はもう見えない。
プログラムの中でペコに切り付けられたせいじゃない。オレの右目はずっと前に失われていた。眼帯の下の、目の奥が疼く。代わりに入った女の眼球は、オレに神の視界を与えてはくれなかった。
「未来機関が作ったペコの調書がどんなもんかは知らねえけど、多分、それは間違ってるだろうな」
の隣にあった二冊のファイルに目線を投げる。七十七期生、超高校級の剣道家、辺古山ペコに関する調査書、そう題されたファイルを、は一度も開こうとはしなかった。勿論、それに重ねてあるオレのものすらも。
「……お前たちがどう判断したかはわからねえけど」
オレは罪木の手術により、右目を取り換えた。近くのものすら見えない腐った右目を、過去も未来も絶望もみることができると言わしめた神の目に変えた。視力はなくても、オレはすべてを見据えることができるはずだった。そのはずだった。オレはようやく、ペコの真意を知ることができる。ペコが本当は何を求めていたのかを。
だけど、学園から戻ったオレの目をペコが見た瞬間、ペコは言葉を失った。顔面が青を通り越して白になった。オレの右目に触れるその手が、震えていた。あの日ペコは絶望した。神の目は、オレに真実を教えてはくれなかった。
「あいつを絶望させたのは、オレだよ」
左目から零れる液体に、今更、オレはどうして驚いているのか。が泣くから、きっと、感化されちまったんだ。そうだろペコ、答えてくれよ。なんで声が聴こえない。目だけでなく、耳までおかしくなっちまったのか。
だけど、忌々しい過去を語る自分の声も、の息遣いも、オレはきちんと聞こえている。なのに今、ペコの声だけが聴こえないのだ。ずっとそばにいたのに。オレが生まれる前から隣にいてくれたのに。
「何も見えなかった、分からないままだった、今もそうだ。ペコを解放してやるはずだったのに、どうしてだよ、なんで、オレは何も分からないんだ、ペコの傍にいたくせに、どうして、なにも」
がペンを置く、は、と吐き出した息が震えている。
近づけば近づくほど、傍にいればいるほど、オレはペコのことが見えなくなっていた。ペコを救おうと思うほどにドツボに嵌って抜け出せない。誰も教えてくれなかった。どうすればいいのかを。菜摘がいたら、違ったのだろうか、あいつがいたら、ちゃんと教えてくれたのだろうか。ペコのことも、オレのことも、馬鹿だなと笑い飛ばしてくれたのだろうか。あの日記でそうしてくれていたように。
が、オレの手を掴む、驚くくらいに温かい温度の、やわらかな手のひらだった。この手に、ペコは幾許かでも救われたのならばいいと思う。そうであってほしいと願う。
「遅くないよ」
きれいごとだった。少なくともそう思った。オレたちのことを何も知らない優しいだけの女の、ぬるいだけの言葉だと。だけどオレはやっぱり弱くて、どんなに強くあろうとしても、目を覚ました小泉の瞳を見ただけであの頃に引きずり戻されてしまうほどに、脆い。
縋りつきたい。オレのしたことを許してほしい。懺悔をする。オレの右目はもう、どこにもない。
「いくらでも、やり直せるよ。だって二人とも、生きてるんだから」
こいつの口から出る言葉は、いつも真っ直ぐで、うつくしい。絶望を知らない、きれいな女、誰も殺したことがない、まだぬるい世界で守ってもらっているだけの女。
きっとペコは、こいつのことを好きではなかっただろう。オレだってそうだ。オレはを信頼しているけれど、同時に、スプーン一杯ほど、憎い。普通に生まれた普通の女が憎い。汚れずにいたこいつが憎い。なのに、こいつの言葉は、喉をかきむしるオレの手を包んでくれる。それをあたたかいと思う。それはきっと、これが逆恨みだからだと自分で認めているからだ。
涙ばかりが溢れて、たまらなくて、虚勢を張って笑った。だけどあのとき、江ノ島と対峙したときと真逆のことを、オレは思ったのだ。どうかこの虚勢を暴いてほしい。お前にこそ。――お前にこそ。
こいつはきっと未来機関の職員としては、落第点しか与えられないだろう。情に流されて、こんなふうに弱みも涙も曝け出して、責任者が聞いてあきれる。でも、だけどそれでも、オレは心の奥にしまってある箱にぐるぐる巻きに縛られた紐を、ほどけて貰えたようなが気がした。こいつの手のひらになら、許してもらえるとおもった、だから、それだけで充分だったのだ。
「……やり直せるって、言うのかよ」
縋るような、情けない声だった。
「と、狛枝みてぇに……」
掠れた声が、震える語尾が、の泣き声にかき消される。はそうしながら、何度も頷いた。なんでお前が泣くんだよ。が包んだ拳の上に涙が数滴落ちるのをぼやけた視界と感覚で認めながら、オレたちのために泣いてくれるこの少女のことを、いつかの未来を、オレは信じたいと、思った。
ペコはいつか目覚めるのだろうか。そのときオレはもう一度ペコと向き合うチャンスを与えられるのだろうか。の言うように、いくらでもやり直せるのだろうか。未来のオレたちは、二人で手をとって、自分たちが犯した償いきれない罪を背負って、もう一度隣に立つことができるのか。そのときオレは、ペコの思いにきちんと報いることができるのか。その時なら、お前の真意を知ることができるか。眼帯の下のこの腐った右目ではなく、もう片方の目で。
今のオレには分からないけれど、そうであればいいと思う。狛枝のためにすべてをやり直そうとしたあの少女の強さを、オレはわずかでも分けてもらう。償わなければ。そう思った。償い続けなければ。オレが犯した罪を。
小泉の顔が浮かんで、オレは一度目を閉じた。
ペコが目を覚ましたとき、オレはペコが安心できるくらいに、胸を張れるほど強くありたい。もう私など必要ないですねと、そう言ってもらえるほどに、強く。
道具の壊し方は、いくらでもあったのだ。オレはそれを、今更になって気が付いた。
ペコの幻聴は、その日を境に消えた。