「はあ、なるほどなるほど? じゃあセンパイは辺古山センパイと子供のころから一つ屋根の下で一緒に過ごしてたわけね。それでヒットマンとして育てられた辺古山センパイは、ずーっと九頭龍センパイのことを守ってきたわけだ! すっごーい! ドラマみたーい!」



 話して聞かせたわけでもないのに、江ノ島は舞台女優か何かのように大仰な仕草で腕を広げると、うっとりと天井を見上げそう言った。
 西日の差しこむ、かつて音楽室だった教室の中央だった。手にしていた菜摘の日記を放って返されて、慌てて受け止める。まさかこいつは、今の一瞬でこのノートの中身を把握したとでも言うのだろうか。そこから類推して、オレとペコの関係まで読み取った――まさか、そんなはずがない。きっと誰かに聞いたんだ。オレたちの関係を。
 でも、じゃあ、一体誰がそれをこいつに話して聞かせるって言うんだよ。
 オレを見下ろす江ノ島の瞳は、光を受けて反射する水面のように清廉な光を放っている。



「九頭龍センパイはそれが気に入らないってわけね! 好きな女に、自分のために殺しをしてほしくない、って、思ってるわけだ!」



 すっごい今更! しょーがないじゃん二人はそういう風に生まれたんだから! 首を傾げ、江ノ島はそう続ける。
 自分が荒らされないよう守ってきた線を無遠慮に踏み荒らされた気がした。オレの足の上に、江ノ島の靴の足型が残る。そんな幻を見る。
 得体の知れない女だ。突然現れて、勝手に菜摘の日記を奪って、訳知り顔でオレの感情を代弁する。「知ったような口を叩くんじゃねえ……!」無意識に口走ったオレに、江ノ島は「え~? 知ってるよ? センパイの顔にも、そのノートにも、ぜーんぶ書いてあんじゃん!」と笑うだけだった。――許せなかった。
 これ以上好きに言わせてたまるか、オレの中に芽生えた対抗心が、得体の知れない恐怖に似た竦みを踏みつぶそうとする。



「殺してほしくないって、それだけじゃねえ! オレは、オレはペコを」



 ペコに殺しをしてほしくない。だけど、それ以上に思うのだ。



「――解放してやりたかった?」



 自分が言おうとした言葉が、疑問符と共に投げられる。咄嗟に顔をあげた。江ノ島は気がつけば、オレの顔を覗き込むようにして隣にしゃがんでいる。胸を強調するように腕で谷間を作り、小首を傾げる。
 ああ、菜摘の部屋の雑誌だ、ふと、こんなときにオレは思った。あの夏の日、オレは菜摘の部屋で、この女を捨てた。それを今、突然思い出したのだった。捨てられた女は、語る。



「辺古山センパイは九頭龍センパイの道具なんだもんね。生まれた時からずーっとずーっと。そこに辺古山センパイの意思は介在しない。そんなの残酷だって、九頭龍センパイは思ったんだよね」

「……」

「辺古山センパイは辺古山センパイの思うように自由に生きてほしいって口では言いながらも、それができないのを九頭龍センパイは知っていた。自分が何度辺古山センパイに距離を置くように言っても、彼女は決して離れない。ううん、離れることができないの。今だってそうだよ。ずーっとその辺にいる」



 今は、アタシのお姉ちゃんと楽しくおしゃべりでもしてると思うけどさ。と、何食わぬ顔で続けた。「だって邪魔されたら困るもん」オレは江ノ島の、青みがかった瞳から目が離せない。こいつがここに現れたのは、偶然じゃない、何らかの意図があって、こいつはオレにコンタクトを取ろうと試みた。だが、その意図が汲み取れないのだ。



「ねーえ九頭龍センパイ?」



 江ノ島の細く白い腕がオレの肩を抱く。華奢な見た目からは考えられないほどの力で抱き寄せられる。きれいに塗られた赤い爪がオレの輪郭を確認するように撫でた。思考が止まる。花の香りがした。菜摘とペコと、三人で野原を駆けていたその後ろ姿が、幻と言うにはあまりにも鮮明に脳裏に浮かぶ。



「あなたばっかりきれいでずるいね」



 それは、オレの息の根を止める紐だった。
 顔立ちも体つきも纏う空気も、声も表情も指先も、何もかも違うのに、オレはまるでそれをペコに言われたようだと思った。江ノ島の青色の瞳の中で、オレが目を見開いている。



「口では自由にしてやりたいなんてのたまいながら、妹を殺した女すらも彼女に殺させるなんて。それが道具じゃないなら、なんだっていうの?」



 幼い菜摘の笑顔が浮かんで消える。瞬きの度に菜摘は成長する。五歳、十歳、十四歳、十五歳、けれど菜摘はもうどこにもいない。長い髪をした、あの陰鬱な目をした女が、殺した。
 やられたらやりかえす。そういう世界に身を置いて十余年、オレが選ぶ道なんて決まっていた。だけど、選んだ先で汚れたのはオレではない。
 頭を鈍器で殴られたような眩暈に、それでも一度は耐えた。耐えて、笑って見せた。それが虚勢だと見抜かれることのないように願ったけれど、きっと叶うことはない。表情と、投げかけた言葉が一致しないのだから。



「――なんでオメーが、それを知ってるんだよ」



 菜摘が殺されたこと、そしてオレではなくペコが仇を討ったこと。例えあの一瞬で江ノ島が菜摘の日記を読んでいたとしても、その事実は、菜摘の記した日記には書いてあるはずがなかった。だって彼女は死んだのだから。
 一年前の、それも学園によってもみ消された予備学科生の死なんて、覚えているものは当事者ほどしかいないだろう。そうでなくても一期下の後輩だ。去年この女はこの学園の生徒ですらなかった。江ノ島は、その目を細める。見透かすように笑う。無邪気な双眸は、今、オレだけに向けられている。



「アタシには、何もかもが見えるんだよ」



 過去も未来も絶望も、そう続ける江ノ島の声は柔らかで、オレの虚勢は呆気なく殺された。華奢な指先を頭蓋に当てて、彼女は首を傾げて見せる。オレは声をあげて耳を塞ぎたくてたまらないのに、江ノ島がそうさせてくれない。
 こいつはおかしい。頭がおかしい。そんなのとっくに気が付いていて、オレは随分前からこの場所から逃げ出したくてたまらなかったのに、体が動かないのだ。目を背けていた泥色の塊が、恐怖であったと認めよう。だからペコ。と心の中で呼ぶ。ペコ。ペコ。来てくれ頼むお願いだ。だけどいくら呼んでも、あの後ろ姿が遠い。



「だっさ」



 嘲笑うように、江ノ島がつぶやいた。丸い瞳がオレを見下ろす。



「辺古山センパイって可哀想。こんな男に生涯仕えて、挙句の果てにはいつかセンパイのために死ななきゃいけない。真意すらも隠して、殺して、彼女は一体なんのために生まれたんだろうね?」



 真意、口の中ではっきりと呟いたはずの言葉は、どこにも漏れやしなかった。ただ顔をあげたオレに、江ノ島が笑う。



「あっ食いついちゃった?」



 真意。ペコの真意。産まれてからずっと一緒にいたオレですらわからないのに、こんな女に分かるはずがない、そう思いたいのに、オレは今、縋りたい、放り出していた足を正座の形に正す。



「……教えて、くれ」



 声が掠れる、この女は、何でも知っている、そんなことあり得るはずがないと心の中で思いながら、それを否定できる材料を持ちえない、今も、きっとこれから先も。その目で見ているものはきっと恐らく正しくて、江ノ島にはオレに見えないものが見える。あの目は、そういう力がある。オレはそれに、気が付いてしまった。
 この女は、人間を超えた何者かだ。
 江ノ島は、呆れたように笑った。



「自分で考えなよ。アンタの道具じゃん」

「オレは、あいつを道具だと思ってねえ」

「そう言いながら彼女に佐藤を殺させたのはセンパイだよ?」

「負い目はある、道具じゃないと言いながら、結局殺しをさせてしまった、だから、もう間違えたくねえんだよ」

「センパイってわかんない問題は答えを見てから考えるタイプ? びっくりするくらい凡才だね」

「なんとでも言え……!」

「ねえ、じゃあセンパイはさあ、辺古山センパイにどうしてほしいの?」

「オレは、あいつに普通に生きてほしいんだよ、それだけなんだよ!」

「彼女が普通に生きるためには、じゃあ、どうすればいいんだろうね」



 そのときだった。ふ、と、自分の中で閃光が走った。言葉を投げ合う中で生まれた、一種のひらめきだったのだ。オレは江ノ島の顔を見上げる。江ノ島の投げかける質問に答えた、たったそれだけで、オレはオレの希望を叶えるために、自分がするべきことに気が付いてしまった。
 だけど同時に、す、と、体の中を貫かれたような寒気に襲われる。気が付いてしまった。ペコが解放されるためには、どうすればいいのかを。江ノ島が笑っている。一段飛ばしの解法をオレに与えた江ノ島は、見惚れてしまいそうになるほどやわらかく、微笑んでいる。まるですべてを許すかのように。



「できないの?」



 人間でない江ノ島が、首を傾げる。もう今更こいつの言動に驚かされたりはしない。受け入れる。江ノ島はオレに目線を合わせるために、腰を下ろした。顎に両手を添えて、慈しむようにオレを見下ろす。
 答えが出ない。できるか、できないか。生まれた季節を無視して「冬」の字を与えられ、生きた。生まれる前から決まっていた。頭領としての未来をオレは定められていた。跡継ぎとして、オレは生きた。家族の前では寡黙な父、強気だと思っていた母、オレを可愛がってくれた奴らの顔が次々浮かぶ。



「ねえ九頭龍センパイ」



 柔らかな声が、しなやかな指が、オレに向けられる。



「生まれた瞬間から人生を決められたのは、あなたも一緒ね」



 ペコは六月の、梅雨が明けない雨の日に、九頭龍組の軒先に捨てられた。
 猫のように段ボールに入れられて、毛羽立ったキャラクターもののタオルをかけられて、火がついたように泣いていた。見たわけではないのに語れるのは、組の連中がオレに聞かせてくれたからだ。だからペコは九頭龍組に恩義があるのだと。だからペコは、生まれる前から跡取りと決められていたオレのために生きるのだと。そうでなければ、わけもわからず体温を奪われ死んでいっただけなのだからと。
 何のために、では、何のためにペコは生まれたのか。親に捨てられ、組に拾われ、オレのために育てられた少女の人生が、オレのために存在したと言うのなら、ではペコとは何なのか。本当の親から名前すらも与えられることのなかったあの少女は、それでもオレと同じ温度を持った人間だったのに。








 ペコは赤子の頃から模擬刀を抱えさせられ、たまにオレたち兄妹の遊び相手になる以外はいつも庭先で竹刀を振っていた。姉でも妹でもない、血のつながりはない。物心つく前からオレの隣にいた同じ年の女の子は、オレの望みを全て叶えてくれた。そのためにいるのだと聞かされていた幼いオレは、それを何とも思っていなかった。
 木になる柿をとってもらった。動物から嫌われるあいつには結局無理だったけれど、野良猫をつかまえてくるように命じたこともある。自転車に乗ったまま道路に飛び出したオレを車から庇ってペコが骨を折った夜、膝のかすり傷の治療を受けながら、オレは乱暴に手を引かれて家の奥にある部屋にペコが連れて行かれたのを見た。痛々しい包帯を巻いた腕が、闇の中で白く輝いていた。次の日、ペコは何ともない顔でオレに「おはようございます。坊ちゃん」と頭を下げたけれど、その服の中がどんな風になっていたかは想像に難くない。
 もういいだろう解放してやってくれ。そう父親に訴えたところで、何も変わらなかった。ペコはもう九頭龍組の構成員としてしか生きる道がないのだと諭された。あいつはもう大勢の人を殺しているよ。お前のために。そう聞かされて、オレは自分と同じ年月しか生きていないあの少女が、教室の中で誰とも話そうとしない理由を察した。あいつには友達がいなかった。菜摘だけが傍にいた。その菜摘も、もういない。
 そう言う風に、育てられたのだ。
 なにをきれいごとを言っていたのだろう。
 ペコを道具にしたのは、オレと九頭龍組だった。








「坊ちゃん。……どうかなさったのですか」



 話しかけるなという命令を解いた覚えはないのに、ペコはその日、とうとうオレに声をかけた。
 誰もいない、放課後の教室だった。もう授業が終わって随分経つというのに、外では予備学科の連中が声を荒げている。パレードと呼ばれるデモ活動は、当初の目論見から大きく逸れて、今も尚膨れ上がっている。菜摘も生きていたら、あの中にいたんだろうか。いや、「くだらない」と言って笑って、一人で孤立する方を選ぶだろうな。オレは江ノ島と違ってすべてを見透かせるわけではないけれど、妹の考えそうなことくらいは分かった。
 江ノ島と音楽室で話してから、何日が経っただろう。オレは菜摘の日記を胸に抱いて、今も考えている。ペコを解放してやらなければと、ずっと思っている。そのためにオレが選ぶべき道に、オレはすでに、気が付いていた。



「なぁ、ペコ」



 話しかけるなって言っただろ、そう言われると思っていたのだろう。ペコは「辺古山」ではなく「ペコ」と呼ばれたことに、驚いたような表情をしていた。だけどもう、よくわからない、ペコの輪郭が歪んで溶けて、ぐずぐずになって、さいごには形を変えてしまう。「どうかしましたか、坊ちゃん」ペコの声が、金属音になる。



「――お前は人間か?」



 引き止めてほしかったのに、そうだと言ってほしかったのに。そうしたらこの足は止まったかもしれなかった。
 ペコはこちらを見ていた。眼鏡の奥の双眸にオレが映っていた。その瞳は感情が極端に削がれていた。いつもそうだった。でも、まっさらってわけじゃなかっただろ。お前はちゃんと人間だった。お前がそうと認めないだけで。
 過去も、今もこれからも。お前は自分を人間とは思わないのか。九頭龍組のために、オレのために、その命を、生涯を捧げて、そこにお前の意思は介在しないのか。
 そんなことはないって言ってくれよ。
 けれどペコは随分と時間をかけて、オレの言葉に首を振った。



「いいえ、坊ちゃん。私はあなたのための道具です」



 だったらもう、お前をそうした世界を壊した方が早い。


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