菜摘を失ったオレの生活は、驚くほど変化がなかった。入学当初から寮に入っていたオレは実家に帰ることなんて稀だったし、そもそも反抗期を迎えていた菜摘とは、ここ数年会話らしい会話をしてこなかった。だから、実感がなかったのだ。どこかを捜せば、菜摘はまだ生きている気がした。
そんなわけねーのにな。
葬式で、久しぶりに会った母が背中を丸め泣く。父は報復を果たしたオレに何も言わずにいる。ペコだけは変わらず傍にいる。オレのヒットマン。オレのために生きるヒットマン。見上げると、ペコはオレにうっすら微笑む。クラスメイトの誰にも向けないその薄い氷のような笑みを、オレはただ見つめている。
佐藤という予備学科の女の死は、菜摘のときのように学園が簡単にもみ消した。学園の上層部にはそれがオレたちの仕業だったということは伝わっているのかもしれないが、きちんとした捜査が入ることも、事情を聞かれることもただの一度もなかった。あいつらが大切にしているのはいくらでも代わりの利く予備学科の連中ではなく、本科のオレたちなのだ。
オレは自身の生まれた境遇を振り返る。九頭龍組の跡取りとして、「冬」の名を与えられた自分を頭上から見下ろす。妹よりも小さな体。未だ女みたいだと指摘されることもある顔付き。苦労を知らない白い手のひら。果たしてオレは本当にそれだけの価値がある存在なのか。自問する。それでもペコはオレの隣にいる。オレの代わりに汚れを纏う。ペコはオレの銃で、防具で、傘だった。
佐藤の友人だった小泉が、教室の隅で泣く。慰める友人連中に囲まれて、宛ら防壁の中にいるいたいけな市民そのものだ。その中で、人の隙間の穿った穴から、顔を覆っていた小泉がふと目をあげた。涙で潤んだ目が隙間を縫ってオレを刺す。黒い瞳。開いた瞳孔。どきりとした。小さな悲鳴が口の端から漏れた。何が極道だ、笑わせる。オレは一般人の女の睨みにすら、動揺する。
お前が殺した。
小泉の目が、そう言った。
オレたちのルールで言うなら、オレは復讐されて然るべきだっただろう。オレがそうしたように。
しかし小泉はオレに復讐をすることはなかった。会話は目に見えて減ったけれど、秋になる頃には、以前のように話しかけられるようになった。勿論、必要最低限の事務的な会話に限るけれど。小泉の目は丸かった、意識しているのか、そうでないのか、教室の端からオレのことをじっと見ているようだった。その強い視線にたまらず目を合わせると、決まって小泉が先に目を逸らす。ぞっとした。小泉はオレを恨んでいる。
当たり前だ。恨まれて当然だ。だけど先にオレたちに手を出したのは佐藤だ。オレは悪くない。オレはやり返しただけだ。それに対しての他者からの恨みなど、いちいち気にしているわけにはいかない。オレは組を継ぐ。農家の子供が田畑を受け継ぎ、どこぞの社長が子供に会社を託すように、オレは親から組を継ぐ。オレは生まれたときから人生を定められていた。だけど、ペコ、お前はもういいよ。そうやってペコを突き放す日を、オレは改めて探っている。
オレは今でもペコの考えていることが分からなかった。普通にしていろと命令しても、あいつは教室の隅でオレのことを見守っている。何かがあれば飛び出して身代わりになれるように、カタギの人間には分からない微小な殺気を纏っている。
「たはーっ! ペコちゃんは相変わらずクールっすね!」
冗談にくすりともしないペコを、澪田が大声でからかう。あそこまで感情を出せとは言わないが、少しくらい、普通の女子高生らしく振舞ってもいいのに。友達を作って、一緒に昼飯を食べて、笑って、買い物に行って、そういうことを、菜摘以外の人間ともすればよかったのに。そしてオレに執着するのをやめてほしい。なんて、ペコに頼って佐藤を殺したオレが言うべき言葉ではなかったのかもしれない。
オレは今更になって後悔している。佐藤を殺すのは、オレであるべきだった。オレがあいつを殺すべきだった。あの日汚れるべきだったのは、オレだった。「私は道具です」と、ペコの目がオレに言う。
菜摘の死から一年が経った。
夏だった。閉めきった部屋の扉を開けた途端に纏ったじとりとした熱気に耐えきれず、一年ぶりに動かしたクーラーは、妙な音とにおいがした。
菜摘の部屋は菜摘が生きていたころのままで、タグのついたままの服や鞄や化粧品で足の踏み場がない。金髪のモデルがポーズをとった一年前のナンバーの雑誌が埃をかぶったままテーブルに投げられ、部屋の片隅にはゲーセンでとったらしいぬいぐるみが適当に並べられている。けれど勉強はきちんとするやつだったから、机の上だけはきれいだった。教科書やノート、参考書の類がきちんと本棚に収まっている。
菜摘の部屋の整理ができないと母がオレに訴えたのは、あいつの死から一年を経ようとしていた頃だった。夏休みに入って、帰省の予定を少し早め実家に帰ると、母はオレの記憶より二回りほど小さくなっていた。
自分にうり二つの菜摘を溺愛していた母だったから、突然の娘の死を受け入れられずにいるのだろう。アルバムを抱きしめて、母はオレに菜摘の写真を見せる。ちいさな子供を指差して、ほら、菜摘よ、これは菜摘、これも菜摘、囁くその声が震える、なあ母さんそれはオレだよ、だって隣にペコがいるだろう。言いたくても声が出ない。極道の妻としての気概を持った女だった母は、もう見る影もない。
逃げるように菜摘の部屋に籠った。まるで今も持ち主が生きているかのようなその部屋に、このままでもいいのかもしれないと思う反面、全てきれいにしてしまったほうがいいのだとも思う。
雑誌を纏めて紐で結ぶ。ぬいぐるみをゴミ袋に入れる。化粧品も、マニキュアも服も、分別する。自分も手伝うと言って聞かなかったけれど、オレはペコを学園に置いてきた。オレは、ペコを組から離したかった。しきりに心配だと訴えるペコに、「実家なんだから何も起きねえよ」とはぐらかす。今度こそ、ペコを普通の女の子にしてやりたいと、オレは自分の右腕に刃をたてる。
一生支えると、きっとペコは、そのつもりで生きている。だけど、オレはペコに、右腕になってほしかったわけじゃない。オレの代わりに汚れてほしかったわけじゃない。オレはもう、ペコに頼るのをやめなくてはならない。
「一番ペコを人間扱いしてないのは、お兄ちゃんじゃん」
ふと鼓膜に蘇る呪いのような声に、オレは手にしたぬいぐるみを握りつぶす。そんなわけねえだろ。言いたくても、あの日オレは言い返せなかった。オレの言うとおりに動くペコを良いように使っていた、傍からみたらその通りで、そこにあったはずのオレの思いは何の意味も果たさない。例えばオレのために人を殺すペコに対して憐れみを覚えていたなど、オレが言ったところで何か変わっただろうか。オレの自己満足を満たすだけだ。
ペコは、何を望んでいたのだろう。オレの右腕として生きることに、何の疑いも持っていないのだろうか。生まれた頃から定められた人生を、ペコは最期まで送るつもりなのか。オレを守るために生まれたと、呪いのような洗脳じみた言葉が刻まれたその皮膚は、もう白くなることはないのか。
要らないプリントや学用品を詰め込んだゴミ袋が三つ、膨れ上がる。オレの感情もまとめて燃やしてくれ。ペコへの思いを捨てられたら、きっとオレはこんなに苦しまずにすんだ。割り切って、こいつはオレのヒットマンで、道具で、人形で、銃で防具で傘で、そう思っていれば楽だとオレは知っていた。だけどできなかった。ペコが笑う。オレの後ろで笑う。「坊ちゃん」と言う。「九頭龍」と呼ぶ時の声が、僅かに上擦るたび、それをオレは嬉しく思う。思う。思って、このまま九頭龍組のレールから落ちてくれと願う。
机の上に、表紙の厚いノートがあった。日記だった。オレはそれを手に取って、無意識にゴミ袋に放り込んで、それから慌てて取り出した。違う、ノートの類はまとめて紐で縛る、だ。だけどそのときに指が引っかかって、中を開いてしまう。癖のある丸い字が、オレの目に否応なしに飛び込んでくる。
「今日はペコと買い物」
菜摘の字が、ペコを綴る。
夏休みを終えて学園に戻る、その荷物の中に菜摘の日記を忍ばせた。その頃にはすべて目を通していたはずなのに、オレはこの日記を手放せる気がしなかった。
菜摘の部屋は何もなくなった。服も鞄も靴も雑誌も教科書もぬいぐるみもまとめて捨てた。部屋の四隅は薄汚れて、天井は白い、けれど「広くなったね」と母は言った。鈴を鳴らし、仏壇に手を合わせた。遺影の中の菜摘は、朗らかに笑っている。
「いい写真ですね」
オレの背後で、ペコが言う。
「……オレはこんなふうに笑うあいつを見たことねえけどな」
「そうですか?」
「なんだ、お前はあんのかよ」
「……そうですね。菜摘さまには、お世話になっていましたから」
オレの知らない菜摘をペコは知っていて、当然、オレの知らないペコを菜摘は知っている。オレはペコの言葉に返事をしなかった。鈴のきんとした音が、鼓膜に張り付いて菜摘の声を殺す。「一番ペコを人間扱いしてないのは、お兄ちゃんじゃん」殺してくれよ頼むから。
オレはペコのことを何も知らなかった。
五月十日 「私はあの方に汚れてほしくないのです。あの方が汚れるくらいなら、私がすべての罪を背負います」 ペコは良くそういうことを言うけど、馬鹿だなって思う。 だってそれっておかしくない? なんでペコがお兄ちゃんの代わりに人を殺さなきゃいけないの? それって幸せなの? お兄ちゃんのかわりに一人殺したらゲームみたいにお兄ちゃんからの愛情ゲージがあがるの? そうして何人殺せばそれは成就されるの? ペコがお兄ちゃんを好きなのなんて、見てれば誰にだってわかるのに。そう聞いたら、ペコはまた馬鹿みたいなことを言った。 「道具は愛などといった高尚なものを持ちえません」 だって! もうほんと信じらんない。道具だったら喋んなよ。息すんなよ。笑うなよ、お兄ちゃんの傍であんな目すんなよ。高尚だって? 何がだよ馬鹿馬鹿しい。あー折角のスタバが不味くなった、ってペコにあげたら、ペコはちょっとだけ申し訳なさそうな顔で、あたしが噛んでぐちゃぐちゃになったストローを口に咥えた。 七月二十一日 お兄ちゃんがペコをモノみたいに扱うなって小言を言ってきた。うっざい。自分の方がよっぽどペコを使ってるくせに。 あたしはペコと買い物に行ってお茶してカラオケに行ったりしてるだけだし。まあカラオケに行ったってペコは座ってるだけだけど。でもペコは初めてこんなところに来たってそわそわしてた。うける。今度はボウリングにでも連れて行くか。 八月二日 ペコってやっぱ運動神経いいんだ。初めての癖にボウリングのコツをあっという間に掴んでしまった。スコアなんか比べるまでもない。やっぱあたしって凡人ってかんじ。才能ないんだな。 まざまざ見せつけられるとちょっとイラつくけど、ペコがあたしにアイスを奢ってくれたから許す。 十月二十三日 ペコに生まれ変わったら何になりたいか聞いてみた。 そりゃあ欲を言えばきりがないし、本当だったらあたしもお兄ちゃんやペコや、小泉先輩みたいに希望ヶ峰学園にスカウトされないかなって思ってるけど、あたしは今の人生にまあまあ満足しているから、あたし自身は来世のことまではまだ考えてない。でもペコって特殊な生い立ちなわけじゃん? なんかないのかな、って思ったんだ。そういう望み? みたいなやつ。 ほんとだったら気を遣ってこんなこと聞くべきじゃないんだろうけど、だってペコが自分は道具道具ってうるさいから、ちょっとした意地悪だった。 でもそしたらペコが結構面白いことを言ったんだ。 「私は人を殺しすぎたので、輪廻の輪には入れません」 仏教の話かよ。ってちょっとうんざりした。だけど、ペコはそのあと、道具っぽくないことを言ったから、ほんと録音でもしておけばよかったよ。あとで聞かせて、わらってやればよかった。 「でも、もしもゆるされることがあるのならば、来世は汚れのない手のひらのままあの方の隣にいたい」 完全に恋してるくせに、これでも道具だって言い張るんだから、ある意味尊敬する。 |
予備学科の校舎の二階にある音楽室で、去年人が死んだ。予備学科の九頭龍菜摘という女子生徒だ。彼女は変質者に襲われ、鈍器で頭を殴られて殺された。以来、この音楽室は誰も使わない。
教室数だけは膨大な校舎だ。グランドピアノを始めとした備品は別の階に移され、今この教室はがらんどうだ。もはや何の意味もなさない防音の壁と、温みのある絨毯、汚れのない黒板、そこにいたはずの菜摘の死体。染み込んだ血液を指の腹で撫でる。オレはここで菜摘の日記を読む。何度も読む。手垢がついて、鉛筆で書かれた字が今更霞む。オレはその文章をもはや暗唱できるほどで、菜摘の死体があった場所で、オレは体を放り投げる。白い天井。菜摘の部屋のものと同じ色をしていた。
夏休みが明けてから、オレはペコを完全に突き放した。傍に寄るなと言った。最初は数メートル離れた場所でオレを見守っていたけれど、それすらも拒絶し続けていたら、とうとうペコは諦めた。と言っても、もしかしたら今もどこかでオレを見ているのかもしれない。微かに感じる人の気配を、オレはペコのものだと思い込む。
体の上に置いた日記を抱いて目を閉じる。ペコは汚れたくなかったのか。オレはペコを傷つけていたのか。何度も繰り返した自問に答えなんて、出ない。そのはずだったのに。
「セーンーパイッ!」
聴きなれない女の声に目を開けた。オレの両足を跨ぐようにして仁王立ちするその金髪の女は、どこかで見たような顔をしている、今年入学したモデルの女だったか、確か、名前は江ノ島。
江ノ島盾子。
短いスカートから伸びた白い足、大きく開いた胸元から除く胸の谷間、濃い化粧は馴染みがなく、オレは思わず目を細める。
「キャーッどこ見てんのよぉセンパイのえっち!」
「お前、江ノ島……っつったか? なんでここにいるんだよ。……鍵、閉めてたよな?」
「こんな一教室の鍵なんて、わたくしの才能を持ってすればはんぺんに刺さった針を抜くようなものなのです」
「は?」
「ねえねえ、そぉんなことよりさぁっ!」
ば、と胸の上にあった日記を奪われた、制止する暇もなかった。江ノ島は菜摘の日記を最初のページからぱらぱら漫画でも見るかのような速度で捲っていく。たった数秒、江ノ島は日記から顔をあげると、呆然とするオレの顔を見下ろして小首を傾げた。
「なんだか面白い日記読んでるんだねえ? 九頭龍センパイ?」
にい、と細められた二つの眼球が、オレを捉えて離さない。