妹が死んだのは、夏の盛りだった。
希望ヶ峰学園にあいつが転入して来てから、まだ二週間も経ってはいなかった。予備学科の校舎の二階の音楽室、そこで妹は不審者によって殺されたと、学園側は公表した。我儘っつーか、傲岸不遜。甘やかされて育ったあいつはそこかしこに敵を作って生きているようなもんだったけど、でも、オレにとっては大事な妹であることに変わりなかった。
頭蓋を鈍器のようなもので殴られたあいつの頭部は陥没していた。不思議なものだ。千切れたわけでもないくせに、そこには本来あるべき丸みが内側に飲み込まれてしまって質量が削れている。顔面に垂れていた血は、オレが対面したときには既に拭かれていた。
きれいなもんだ。きれいなもんだよ。殺されたにしては、まあ、いいほうだ。もっと酷い死体をいくつも見てきた。身元が判別するだけ、マシだ。
一時的に学園内の死体安置所に置かれた菜摘は白かった。オレと共に生きてきたオレのためのヒットマンであるペコの、握りしめた拳が視界に入る。
結局オレたちはどこまでも一緒だった。追いかけて来たこいつだけが、死んじまった。
菜摘はもう、オレの言葉に答えない。
折角違う高校に進学したというのに、結局オレとペコ、二人ともが希望ヶ峰学園からスカウトを受けてしまったことには辟易した。この学園では他人として接しろと伝えたオレに、ペコは不服そうではあったけれど、逆らうことができないってのはは知っていた。以来学園内ではオレたちは他人同然に接している。
視線すら合うことがないように、オレはペコと距離を置いた。互いを苗字で呼び、二人きりになったとしても会話らしい会話をしない。関係性の希薄なクラスメイト。オレたちは他人だ。他人であるべきだ。オレはそう思っていた。
だけど入学して三カ月、オレたちを追いかけてくるように希望ヶ峰学園に転入してきた菜摘は死んだ。点だったオレたちを、菜摘の死が結んだ。
ペコは、菜摘と親しかった。その親しさは、友人としての気安さでも、はたまた同じ屋根の下で育った家族としての情愛でも決してなかったけれど、ペコは菜摘を大切に扱ったし、菜摘はペコを信頼していた。オレには分からないような話をしていたのも、見たことがある。オレが声をかけるとペコは途端に張りつめたような表情を浮かべるから、そういうときはオレは二人を放っておいたけれど。
菜摘の遺体を前にして、ペコは震えていた。
蝉が鳴いていた。じりじりじりじり。鼓膜に張り付いた。ペコの後ろ姿が焼きつくように眼球に刻まれる。菜摘が死んだ。白い腕。血の拭われたきれいな顔。まだマシだ。きれいな死体だった。頭の一部がどこかにいっちまったみたいに、窪んでいるだけだ。その菜摘の遺体が、滲む。あいつの長い睫毛は微動だにしないのに、どうしてオレはそれを認めてしまえないのか。菜摘が死んだ。菜摘は死んだ、だからもういいだろ。
「――なぁ」
殺されたんだよな、菜摘は。
オレの言葉を、ペコは聞いている。
「菜摘をヤッたやつを殺すぞ。ペコ」
おかしな話だ。この学園ではオレとお前は他人同士だ。そう言い放ったのは数カ月前の自分だったはずだ。ペコはそれに従った。オレの望み通り、ペコはオレと他人である自分を演じた。
元々口数の少ないあいつは、同じクラスの女たちとはそこまで仲良くなれなかったようだが、それでもたまに会話をしているのを見たことがある。菜摘と話しているときと似たような、穏やかな目をするあいつを見て、オレは自分の判断の正しさに胸を撫で下ろした。ペコはオレに縛られるべきではない、オレはそう思っていたのだ。だから、オレは学園に入ることが決まった日、ペコを突き放したのだ。
「普通にしていろ。オレのことは放っておけ」
ペコが愕然としたようにオレを見つめたのを、あの春オレは気が付かないふりをした。
なのに、オレは今ペコを使う。ペコに、菜摘を殺した犯人を殺させる。目星はついていた。菜摘と同じ予備学科の女だ。その女と友人であるらしい同じクラスの小泉が、女を庇うために証拠を処分したところを見かけた。有り難いと思った。あいつが証拠を隠滅してくれたおかげで、オレたちはこの手であの女に報復ができる。もしも小泉がどこかに告発してしまっていたら、あの女は捕まって手の届かないところに行ってしまった。法による処罰を受けたことだろう。そんなのは生ぬるい。それであの女が対価として命を差し出してくれる保証などどこにもないのだ。あの女は死ぬべきだ。
なあ佐藤。お前も菜摘のように死ぬべきだ。
「冬彦、あんたはお兄ちゃんになるんだよ」
オレが生まれた一年後に、菜摘は生まれた。梅雨が明けた夏だった。写真で見る限り、ペコは歩き始めていたけれど、オレはまだつかまり立ちもできていないような頃だった。だから、その頃のことなど覚えているわけがない。なのにペコは言う。
「私がお守りしなければならない対象が増えたのだと思いました」
吐くならもっとマシな嘘を吐けばいいのに。オレは笑う。写真の中のペコは赤子の時分から、両手を広げて転がるオレの横で、模擬刀を抱きしめ眠っている。
「お兄ちゃん、ペコ、待ってよお」
「あ? なんだよチビはついてくるな」
「ひどおい、お兄ちゃんだってチビじゃん!」
「あ? 今なんつった?」
「ペコぉ、お兄ちゃんが怖い!」
「坊ちゃん、そのくらいで」
「ああ!? どっちの味方なんだよペコ!」
一個しか違わないせいか、菜摘はオレたちの後ろをちょろちょろとつきまとった。それが鬱陶しくて突き放したことは数知れない。菜摘はペコと違って鈍くさくてノロマだったから、煩わしかったのだ。
気が強いくせにすぐ泣く菜摘の頭を撫で慰めるのは、いつもペコの役目だ。しゃがみこんで泣く菜摘の傍から離れないペコに、何度苛立ちを覚えたことか。
「お前は誰のヒットマンだ!」
そう言えば、ペコはすぐに顔色を変えてオレの元に飛んできた。一人残された菜摘は、恨めしそうにオレを見ている。
「お兄ちゃん、ちょっとペコ貸して」
「あ? なんでだよ」
「一緒に買い物行きたいから貸してよ。お兄ちゃんは一日家にでもいて」
「あのなあ菜摘、貸してってなんだよ。ペコをモノみたいに扱うな」
「はあ?」
菜摘が目を細める。母親に似て気の強い女だった。「お兄ちゃんに言われたくないんだけど」肩をすくめた菜摘の、整えられた眉が歪むのを見る。
「一番ペコを人間扱いしてないのは、お兄ちゃんじゃん」
「菜摘さまは坊ちゃんのことを尊敬しているのですよ」
オレの後ろを歩くペコが言う。オレの足元に、ペコの長い影が伸びていた。オレのものよりも、明らかに大きい影だった。
成長したペコは、はるか昔に模擬刀を捨てた。殺傷能力の高い仕込み竹刀を背負って、オレのためにそれを振るう。夕日が沈んでいく。あれは中学の帰り道だった。
生まれた瞬間から「冬」の字を与えられたオレは、極道として生きるためのレールを一生分敷かれている。だからオレが歩いているのは海沿いの防波堤ではない。後ろを歩くペコは、目を閉じて、オレの足跡を辿って生きる。決まっていた。オレが生まれる前から。中学指定の鞄を背負いなおす。ちゃんと担いでおかないと、ペコはすぐに自分が持つと言うのだ。両肩にかかる重みが煩わしいけれど、仕方がない。
「尊敬? どこがだよ。あいつ、オレの駄目出しばっかりしやがる」
年子というのも善し悪しだ。オレと菜摘の関係からすると、悪しでしかないのかもしれないが。菜摘はオレを目の敵にしている。ちょっとオレより身長が高いからといって見下ろして、事あるごとに口答えするあの妹に、尊敬されているはずがない。
「いいえ、菜摘さまはいつか、坊ちゃんの右腕になりたいと仰っていました」
「はあ?」
「右腕が無理ならば左腕でも、足でもいいと」
「聞き間違いじゃねえか?」
「いえ、幼い頃よりの口癖です」
「そんなの、聞いたこともねえよ」
ペコは決して、オレと並んで歩かない。後ろから見守る。危険があるときだけは、前を歩く。まあそれも滅多にないことだけれど。ペコはオレをなにものからも守るのだ。
ペコは、他の組織による九頭龍組の跡取りの誘拐計画を未然に防いだこともある。実行犯の男数名を切り殺したのだ。その男たちは、後に九頭龍組によって沈められた。オレがそれを知ったのは、その事件から数カ月がたった頃だった。
「菜摘さまは、さみしいのですよ」
オレは後ろを歩くペコがどんな顔でいるのかを、知るすべがない。オレを守るために生きるペコの本心を、オレは知らない。
菜摘を殺した女を殺そう。同じ目に遭わせて殺そう。オレの妹を殺した女。あいつと同じだけの苦痛を味あわせよう。
この学園では他人のフリをしていろと言ったのはオレだ。だけど、オレは他人であるはずのペコにそう命じた。ペコはそれを受け入れ、あの女を殺した。何の指示も出してはいなかったのに、使い慣れた仕込み竹刀を使わず、きちんと鈍器で頭を殴って殺した。同じように殺してくれた。その遺体を見せられて、オレはああ、と思う。力なく投げ出された手足、髪の毛についた血、へこんだ頭部をオレは見たことがある。
「……わりぃな、ペコ」
オレたちは他人にはなれない。返り血を浴びたペコが微笑む。
だって、オレは生まれる前からお前と一緒にいたんだ。